幻のBI対決?〜1980 新日本vs全日本プロレス 対抗ソフトボール大会!

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遡ること40年前の1980(昭和55)年4月3日。「新日本プロレスvs全日本プロレス 対抗ソフトボール大会」が開催されました。

©東京スポーツ新聞社

 

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■1980年のマット界

 

新日本プロレスではアントニオ猪木がスタン ハンセンとの抗争真っ只中、ウィリー ウィリアムスとの最後の(当時)異種格闘技戦を行なっていた時期。

 

全日本プロレスではジャイアント馬場がハーリー レイスから3度目のNWA世界タイトルを奪取したり、馬場&鶴田vsザ ファンクス戦がベストバウトを受賞したり、という時期。

 

この前年、1979年8月26日には新日本、全日本、国際3団体による「夢のオールスター戦」が行われ、束の間の友好ムード漂う時期でした。

 


 

■東スポ主催ソフトボール大会

 

この企画の主催は東京スポーツ新聞社。前年の「8.26夢のオールスター戦」も主催した、プロレス界に多大な影響力を持つ老舗のプロレスマスコミ、盟主の新聞社です。前年のオールスター戦が盛況に終わり、翌1980年にも第2回開催を!と目論む東スポとしては「なんとかこのまま両団体の友好ムードを盛り上げて…」という意向が働いたのだと思われます。

 

■西武球場

 

開催地は1979年4月にオープンしたばかりの埼玉 所沢市西武球場。当然、ドーム化される前の屋外です。メンツとブランドにこだわる東スポからして、このチョイスは少し不思議です。当時の「野球場」といえばなんといっても後楽園スタジアムですし、それなら元巨人軍のジャイアント馬場の古巣です。

単に空いてなかったからなのか、レンタル料が安かったのか…。新設された球場でしたので、その話題性もあったのかもしれません。

 


 

■試合経過

 

ともあれ、西武球場に3,000人の観客を集め、午後4時に試合開始となりました。

 

全日本プロレス側のオーダーは謎ですが、新日本プロレス側の打順は記録がありました。

1番 山本小鉄
2番 倍賞鉄夫
3番 長州力
4番 アントニオ猪木
5番 ストロング小林/星野勘太郎/仲野信市
6番 坂口征二/高田伸彦
7番 永源遥
8番 木戸修
9番 木村健吾

↑なぜ藤波と前田がいないのか謎です

 

試合開始早々、新日本プロレスチームが1回に8点を入れる大荒れの展開に。

 

その後も打撃戦が続き、新日本プロレス側では長州力と木戸修が2本、アントニオ猪木、木村健悟、そして倍賞鉄夫リングアナが各1本、全日本プロレス側では越中詩郎が2本、ジャンボ鶴田が1本の計10本塁打が飛び出します。

 

中でも猪木は5打数4安打、と大当たりで「猪木は実は格闘技以外はスポーツ音痴」という下馬評を覆す大活躍ぶり。

 

プロレスラーの野球経験者はプロ野球OBのジャイアント馬場さんは言わずもがな、あとは高田伸彦、仲野信市、越中詩郎が有名。長州力も経験者ですね。

 

試合結果は22対5(!)で新日本プロレスチームの快勝となりました。

 


 

■BI対決と「ジャイアント馬場vs倍賞美津子」!

 

この試合のハイライトはなんといってもアントニオ猪木vsジャイアント馬場の“BI対決”。

意外にもピッチャー猪木、バッター馬場という形で実現し、猪木が馬場を三振に打ち取りました(キャッチャーは長州力)。

当時の東スポでは「猪木コールと馬場コールでムードは最高に。しかし血と汗のプロレスと違い、これはソフトボール。カウントは2ストライク8ボール(四球なしの特別ルール)、11球目はアウトコース低めで馬場強振。見事な振りに両巨頭は思わずニッコリだった」と報じています。

 

最終回の7回表。満を持してジャイアント馬場がマウンドに上がります。先頭の山本小鉄から三振を奪ったところで、続く倍賞鉄夫リングアナに代わり、ピンチヒッターで実姉の女優 倍賞美津子さん(当時の猪木夫人)が登場馬場さんはなんとミッコにデッドボールをぶつけて場内は大爆笑だったとか。馬場はその後2人を打ち取った…と記事にありますが、ピッチャー馬場、バッター猪木の対決はなかったそうです。

 

試合後、主催の東スポが贈る各賞は

 

勝利者賞=新日本プロレス
敢闘賞=全日本プロレス

 

勝利監督賞=アントニオ猪木
最優秀投手賞=ジャイアント馬場

 

ホームラン賞=長州力
猛打賞=木戸修

 

ハッスルプレー賞=越中詩郎
韋駄天賞=山本小鉄
ピンチヒッター賞=倍賞鉄夫
盗塁賞=大仁田厚

 

三振賞=ジャイアント馬場
暴投賞・バンザイ賞=ミスター林
応援団長賞=荒川真

 

となりました。

 


 

●新日プロは草野球好き?

 

後年、長州力と高田延彦が対談で明かしたところによると、「当時の新日で野球が流行ってた」「選手でチーム組んでた」「練習サボって多摩川でビール飲みながらよく野球やってた」のだそうです。

 

この時のソフトボール大会でも新日本側はユニフォーム姿で統一。さらに事前に自衛隊チームと練習試合まで行う本気ムードなのに対し、全日本側はバラバラのジャージ姿、と両軍の意気込みの違いがプロレス スタイルの違いとカブって、面白いです。

 


 

和気藹々、終始和やかに終わった「新日本プロレスvs全日本プロレス」ソフトボール大会でしたが、歴史としては結局、第2回オールスター戦は幻に終わりました。

 

それどころか翌年、1981年からはブッチャー、シン、ハンセンという両陣営のエース外人がひっくり返る、“仁義なき引き抜き合戦“からの“全面戦争“へと突き進んでいくのです。

 

<関連リンク>

1981 新日プロvs全日プロ「蔵前全面戦争」

1981 ジャイアント馬場vsスタンハンセン

 

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