悲劇のマスクマン「ザ コブラ」〜1983-86 新日本プロレス ジョージ高野


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1983年11月3日、電撃引退した初代タイガーマスクの後継として、新日本プロレスに新たなマスクマンが登場しました。

その名は「ザ コブラ」

しかしながら、二番煎じ感があり過ぎなのと、当時の新日プロファンの間で「タイガーロス」はものすごいものがあり受け入れられず、実に可哀想な存在、「悲劇のマスクマン」となってしまいました。


 

●正体モロバレの謎のマスクマン!

 

タイガーマスクが消えてほどなくしてから、金曜夜8時のワールドプロレスリングでデビュー前から「正体不明の謎のマスクマン登場!」と煽られていましたが…

その正体は誰が見てもジョージ高野であり、カルガリーマットでの誕生秘話が一部マスコミで明かされているなど、情報統制もダメダメでした。

そもそも、正体がバレてて神秘性がないことよりなにより、ファンの間では期待値よりも「初代タイガーマスクを超えられるワケがない」というシラケたムードが蔓延しており、このタイミングでは誰がやっても同じだっただろうと思います。

それくらい、初代タイガーマスクは偉大すぎました。

 


 

●ズンドコデビュー戦!

 

日本デビュー戦は、「正規軍対維新軍 4対4綱引きマッチ」が行われた1983年11月3日、蔵前国技館

タイガー引退により空位となっていたNWA世界Jr.ヘビー級王座決定戦で、対戦相手は明らかにされていませんでした。

 

当日、対戦相手はこれまた謎のマスクマン「ザ バンピート」と発表され、入場してきたのはコウモリをモチーフにしているらしきマスクと、その下には筋骨隆々の白人ボディ。

そしてザ コブラの入場です。コブラは噴き上がる白煙の中を、マスカラスなど有名覆面レスラーのマスクを被った若手選手が担ぐ神輿に乗って現れました。

その中に…よりによってタイガーマスクを被ったやつがいたもんですから…私は子供心に新日プロのファン心理のわからなさに絶望を感じ、尚更にコブラを応援する気が完全に失せました。

これは、リアルタイム世代にしかわからない心境かもしれません。

 

コブラは神輿から降りるや、トップロープからバック宙返りでリングイン。素晴らしい運動神経、初代タイガーよりド派手なアクション…ですが、そんなので喜ぶと思うなよ!とファンは完全にひねくれモードです。褐色の素肌に白いタキシードの上着を着たコーデ、おでこには謎の「忍」、膝には×印・・・なかなかの謎センスです。

そして選手コール直前に、対戦相手のバンピートが田中リングアナになにやらイチャモンを…と思う矢先、自らマスクを脱いでしまいます

ダイナマイト キッド?と勘違いした一部の観客から「キッド」コールが起きますが、正体はキッドの従兄弟のデイビーボーイ スミス!…といっても、スミスは初来日で誰も知りません。なんだか試合前から不穏です。

 

そして試合開始…しかしながら、スミスがヘタなのかコブラがショッパイのか、なんだか噛み合わないまま盛り上がらず、不穏な空気がますます充満していきます。場内では意地悪な「高野」コールまで起こる始末。

そんな中、満を持してコブラが放ったノータッチ トペ!すさまじい跳躍力!…しかし、コブラのこの一世一代の見せ場をスミスがスカすという暴挙。コブラは両膝を鉄柵フェンスで痛打!すさまじい自爆です。

 

そしてここからが伝説です。テレビ中継ではこの自爆シーンの寸前で唐突にストップモーションになり、これ以降はコブラの入場テーマであるエイジアの「HEAT GOES ON」が大音量で流れて場内音声カット。試合もスローモーションを駆使した、プロモビデオのようなダイジェスト放送に!

 

いまでこそ、音楽に乗せたプロモーションや試合ダイジェストは当たり前の演出ですが、まだ「スポーツ中継」然とした当時のプロレス中継は試合はノーカットが原則で、それも序盤ならまだしも、デビュー戦で試合後半からのダイジェスト放送なんて、異例中の異例の措置です。

 

私は子供心に、「コブラのデビュー戦は失敗だったのだ」と悟りました。観客の歓声をカットしたのは会場が盛り上がってない証拠であり、ダイジェストは試合展開もグダグダだったから、に他なりません。

 

初代タイガーマスクがデビュー戦で周囲の冷ややかな失笑を驚愕に変え、衝撃を与えたのとは正反対。コブラはある意味で意地悪な観客の期待通りのズッコケぶりを見せつけ、この後のイバラの道を予感させる、実に悲劇的なスタートとなってしまいました。

 


 

●ジョージ高野とは何か

ジョージ高野は岩国基地に所属していたアメリカ海兵隊員の父と日本人の母親の間に生まれたハーフです。隊内のボクシング王者にもなった父はアメリカに帰国、母親に女手一つで苦労して育てられました。ジョージも幼い頃から差別やイジメに遭い、15歳で大相撲に入門しますが、芽が出ないまま廃業。

 

その後、1976年8月に新日本プロレスへ入団。デビュー戦は日本武道館、その相手はなんと、初代タイガーマスクの佐山聡なのですから、運命を感じます(時間切れ引き分け)。

 

円谷プロの特撮番組「プロレスの星 アステカイザー」に猪木と共に出演。当初は主役の予定がスケジュールの都合とおそらくはあまりの大根ブリで、主人公のライバル役としてのレギュラー出演でした。

 

その後、菅原文太さんの誘いがあったとかで本格的に芸能界入りを目指したりしましたが、1978年6月に再び新日プロにカムバック。

 

1978年10月13日に平田淳二(後のスーパーストロングマシン)戦で再デビューします。

この70年代後半から80年代初頭、高野、平田と前田明のヤングライオン三羽ガラスのシングルマッチは、激しすぎる攻防で流血や骨折は当たり前の、前座の第1試合の名物でした(私が初観戦した興行の第1試合も前田vs平田でしたが…まるで覚えてません 笑)。

なので私はてっきりジョージ高野は前田、平田らと同期だとばかり認識していましたが、ブランクがあるとはいえ彼らより先輩だったのですね。

前座時代のジョージ高野の印象は、全身バネのような跳躍力から放たれるドロップキックが強烈で、マスクも肉体美も一際目立ち、将来を嘱望されるエース候補、という立ち位置でした。新日プロフロントも意図的にセコンドなどで高野がよくTV中継に映るように露出させた、と言われています。

そして、驚くことに前田との前座時代の対戦成績はなんと35勝1敗15引き分け。その前田をして「新日プロ史上、最も素質があったのは間違いなくジョージ高野」とまで言わしめ、初代タイガーマスクの候補にも上がりました。

その後、1982年1月にメキシコへ遠征。アンドレや長州を差し置いて2年連続最優秀外国人選手になるなど活躍。

翌1983年にカナダ カルガリーのスタンピード レスリングに転戦し、自身のアイデアでヒールのマスクマン「ザ コブラ」となり、ダイナマイト キッド、ブレット ハート、デイビーボーイ スミスらと抗争を展開。

現地でのブレイク真っ最中に、電撃引退したタイガーマスクの後継として、日本に呼び戻されたワケで、コブラはタイガーマスクが辞めたから急造された、というのは誤解なのです。

 


 

●アントニオ猪木のちょっといい話

 

師であるアントニオ猪木は、高野に「生き別れの父の母親がアメリカにいるらしい」と相談され「ジョージ、一緒に探そう」と言ったそうです。実際に探したのかどうかは不明!しかし、その一言で高野は猪木に一生ついていくことを決めた、のだとか。

アントニオ猪木のピュアな一面を感じさせるエピソードです。

 

一方、新日プロ営業本部長でタイガーマスクの生みの親でもある新間寿氏によれば「猪木に言ったんですよ。タイガーマスクはアニメの主人公だから人気出るけど、 ザ コブラなんて名前じゃ人気出ないですよ。そしたら猪木が、『分かってる。 ジョージは顔も体もいいから、ジョージをスターにしよう。俺に考えがある』ところがその後、何もなかった。猪木はジョージをどうしようとしたのか」。

アントニオ猪木の後先考えない行き当たりばったりブリを感じさせるエピソードです。

 

この両面がアントニオ猪木なんです、仕方ありません(笑)。

 


 

●その後のコブラの苦闘

 

「謎のアストロノーツ」ザ コブラは新日Jr.戦線のエースとして戦い続け、WWFとNWA Jr.二冠王にも輝きますが、ライバルのダイナマイト キッド、デイビーボーイ スミス、小林邦昭らが相次いで全日本プロレスに転出するという不運にも見舞われます。人材不足からヒロ斎藤やドン荒川などと抗争を繰り広げますが、今ひとつブレイクしないまま…

 

そもそも、188センチのジョージ高野は手足が長過ぎて、Jr.戦士としてはバタバタして美しくないのです。私も器械体操をやっていたのでわかりますが、空中殺法の使い手としては手足が長い、身長が高いのは不利なのです。

 

そしてなにより、ジョージ高野の最大の欠点は、試合の組み立てがヘタクソで、変則的過ぎる点でした。これが後に長州が東京ドームで天龍、三沢タイガーを迎え撃つ際にパートナーに指名した理由でもあり、天龍はやりにくさと自分ばかり目立とうとする試合スタイルに激怒し、ジャイアント馬場はこの試合を見て「猪木は弟子にプロレスを教えていないのか?」とボヤいたと言われています。なにより、猪木自身も高野との対戦は嫌がった程で、セオリー無視の素っ頓狂な試合の組み立てをする選手で「宇宙人」と呼ばれていました。

 

1984年2.7 両国国技館で行われたキッド、スミスとのWWF Jr.王座決定巴戦はコブラの数少ない名勝負でしたが、それ以外の試合ではなんとも観客が感情移入のしにくい、ムラっ気の目立つ、ヘンテコな試合を繰り広げていました。

 

保持していたNWAとWWFのJr.二冠も、業務提携など本人のせいではない政治的な理由から1985年に2本とも返上。

 

そして、1986年2月6日蔵前国技館で越中詩郎と、新設された初代IWGPJr.ヘビー級タイトルを賭けての王座決定リーグ戦 決勝でまさかの敗退。側から見ても、全日からの転入組みの越中に生え抜きのコブラが負ける(看板タイトルのIWGP Jr.初代チャンピオンが越中になる)とは、予想外でした。

さらには第2代IWGP王者でUWFからUターンしてきた後輩の高田延彦に挑戦するも、蹴りと関節技で圧倒され敗れます。

時代は完全に、越中-高田の新 名勝負数え歌に移り変わっていきました。

高田に敗れたコブラは「キングコブラになって帰ってくる!」とカナダへ…。

 

そして1986年7月、唐突に素顔のジョージ高野が凱旋。階級も本来のヘビー級となりました。

 

こうして悲劇のマスクマン、ザ コブラはなかったことにされ、しれっと姿を消しました。

 

初代タイガーマスクという、次元の違う天才の後釜に据えられたための悲劇…

なのではありますが、素顔のジョージ高野という選手自体、天性の素質とマスク、肉体美を持ち、団体から何度も猛プッシュを受けたにも関わらず華麗にスルーし続けたワケでして…

その鳴かず飛ばずブリというのが、「ザ コブラの悲劇」の原因である気がしてなりません。

 

それでは、そんなコブラの数少ない名勝負、vsダイナマイト キッド戦をご覧いただき、この項を締めたいと思います。ご機嫌よう、さようなら!

 


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2 Comments

    • MIYA TERU

      ありがとうございます!「コブラ」と「マードック」、一般的な知名度は低いもののページビューが異様に高くて、不思議な熱量を感じます(笑)

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