日本プロレス時代の「ジャイアント馬場」②~1963-1968 三大世界タイトル連続挑戦と日プロ エース時代!~馬場の全盛期と名勝負とは

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日本プロレス時代、ジャイアント馬場の全盛期を探るシリーズ、今回②は、アメリカ再遠征での「三大世界タイトル連続挑戦」からの帰国、日本プロレス絶対エース時代編です。

①はコチラ

 


 

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●再びアメリカへ

 

1963(昭和38)年

10月、日本で旋風を巻き起こしていた馬場は再び、アメリカに戻ります。

これは馬場がアメリカにいないと自分達が稼げない、グレート東郷とアトキンスからの強い要望でした。

 

そしてもう一つ、日本での馬場のスピード出世に嫉妬と危機感を覚えた豊登らとの確執もあったようです。豊登は大木金太郎をけしかけて馬場にケガをさせる計画まで企てますが、アトキンスに逆に制裁され左肩を脱臼させられる騒動まで起こりました。

 

再びアメリカに戻った馬場は、カナダのアトキンスの元に幽閉され、ここで鬼のシゴキを受けます。真の実力者として世界王者を目指させたい、という狙いと、馬場がビンス マクマホンと直接契約されるのを避けるため、と言われます。

 

アトキンスのコーチングは厳しいことで知られ、馬場は厳寒のカナダでひたすらランニング、ロープ引きなど長時間戦える基礎体力作りを徹底された、それが自分の基礎になった、と後に語っています。

 

そしてこの時期、ロジャースはNWA世界王座を復帰した46歳のルー テーズに奪われます。王者ロジャースが遠征を嫌い、地方プロモーターからの不満が噴出してNWAは解散の危機に晒され、それを収めるためのテーズ復権です。これに反発したビンスらがNWAから脱退。各地に世界王座が乱立します。ロジャースはその中の一つ、ビンスが新設したWWWF世界王座の初代チャンピオンになりますが、それもすぐにサンマルチノに移動しました。

 

馬場と同期のブルーノ サンマルチノは、イタリア系移民観客を動員する「ニューヨークの帝王」になっていたのです。

そして12月。日本で「力道山死亡」という大事件が起こりました。

 


 

●力道山死去からの日米 馬場争奪戦 と「三大世界タイトル連続挑戦!」

 

1964(昭和39)年

東京オリンピックが開催になる年です。力道山が死んでも日本から帰国の指示はなく、馬場はアメリカ サーキットを続けています。

力道山亡き後、日本プロレスは豊登、芳の里、吉村道明、遠藤幸吉のトロイカ体制に。そして日プロは介入を怖れてグレート東郷と手を切ります(後任は子飼いの沖識名)。

多額のガイジン招聘報酬を失う事になり、激怒した東郷は馬場をアメリカに引き止めようと、契約金16万ドル、年収手取り27万ドルの「10年契約」を提示します。当時の27万ドルは現在の貨幣価値なら5〜6億円。アメリカのレスラーの超一流でも年収10万ドルの時代に、3倍近い、破格過ぎる提示金額です。東郷は馬場を手駒にして、アメリカで儲けるだけでなく日本制圧も計画していました。

 

加えて東郷とアトキンスは「三大世界タイトル連続挑戦」を組んで馬場を引き止めます。

 

2月8日 デトロイト オリンピア スタジアムでルーテーズの持つNWA世界王座へ挑戦

2月15日 シンシナティ ガーデンで再びルーテーズの持つNWA世界王座へ挑戦

2月17日 MSG マジソン スクエア ガーデン メインイベントでブルーノ サンマルチノの持つWWWF世界王座に挑戦

馬場がこの3試合で手にしたギャランティは、7000ドル。当時のレートで約250万円、現在の貨幣価値なら1400万円といわれます。

そして2月28日、3月20日、27日には3度に渡りロスアンゼルスでフレッド ブラッシーの持つWWA世界王座に挑戦。

 

これが世にいう、「1964 馬場の三大世界タイトル連続挑戦」。アメリカ マット広しといえど、こんな偉業を達成したのは後にも先にもジャイアント馬場くらいのものです。

 

日米争奪戦と引き止め工作の結果、とはいえ、客が呼べなければ決してメインイベントやタイトルマッチをさせてもらえないアメリカ マットで、この時のジャイアント馬場には事実、それだけの商品価値があった、ということなのです。

 

これは生涯、馬場の自信となりました。

 

▼この時期の貴重な映像
1964.2 ハンス シュミット戦

 


 

●日本帰国を決意

 

しかし、馬場は日本への帰国を選択しました。

「エース豊登でチケットが売れるか」と日プロの興行を仕切る山口組三代目、田岡組長直々の帰国命令でした。

馬場はこの時、日本プロレスでの近い将来のエースの座と、力道山に貸した借金の返済を約束されたと言われます。

 

1964(昭和39)年3月、馬場と入れ替わりに猪木が念願の初海外遠征へ。馬場はこの時、猪木に餞別に700ドルの札束を渡します(現在の紙幣価値で約140万円)。猪木は「あれは涙が出るほど嬉しかった」と語っています。この時点での猪木は馬場にとって「可愛い弟分」でした。

 


 

●凱旋帰国、名実共にエースへ~「32文ロケット砲」開発

 

そして4月、馬場は日本プロレスに凱旋。翌月には豊登とのタッグで第11代アジアタッグ王座を獲得。この時点でのエースはまだ、豊登です。

1965(昭和40)年

2月、シーズンオフを利用して6週間のロス遠征。この時にペドロ モラレスの教えでドロップ キック「32文ロケット砲」をマスターします。後のスローモーでヨタヨタした「馬場さん」しか知らない世代は信じられませんが、当時の馬場はドロップ キック3連発くらい平気でした。2mを超す馬場のド迫力の飛び蹴りは「アポロ ロケット」などと形容され、必殺技になりました。

 


 

●インター ヘビーという「王位継承」

 

11月、ディック ザ ブルーザーに反則勝ちして日本プロレスのエースの象徴インターナショナル ヘビー級王座を獲得します。

 

インターナショナル ヘビー級王座は「力道山がルー テーズを破り獲得した」という日本プロレスの至宝。力道山の死後は『力道山一代限りのもの』として封印されていました。ところが、馬場が凱旋帰国し爆発的な人気を得ると「馬場を力道山の後継者としてインター王者を継がせるべきだ」という声が起こります。日本プロレスはNWAの了承を得てインターナショナル王座の封印を解除。「NWA認可、日本プロレスリング コミッション認定」のタイトルとして復活させました。

 

ブルーザーとの決定戦で勝利した馬場はルー テーズ、力道山に続く第3代王者。これは「日本プロレスのエースであり、力道山の正当な王位継承者」という証なのです。

 


 

1966(昭和41)年

【馬場 名勝負②】 1966年2月28日 東京都体育館 インターナショナル ヘビー級選手権 ○ジャイアント馬場(2-1)ルー テーズ×

 

馬場はテーズに勝利し、インターナショナル ヘビー級王座を防衛。テーズはこの時すでに50歳とはいえ、決して2フォールを許さないテーズからの完全勝利は力道山でもなし得なかった、というより世界でも数少ない偉業。「力道山の跡目は馬場」をさらに確立した重要な試合なのですが、なんと映像が残っていません…。

 

馬場は「当時、50歳でもテーズの強さはものすごいものがあった。全盛期の強さは想像もつかない」と述懐しています。

 


 

【馬場名勝負③】 1966年12月3日 日本武道館 インターナショナル選手権60分3本勝負 ○ジャイアント馬場(2-1)フリッツ フォン エリック●

 

「鉄の爪 アイアンクローからの戦慄の流血」が有名な両者の対決。オープン間もない日本武道館での初のプロレス興行でした。

 


 

●絶対エースへ

 

以後、馬場は、世界の超一流強豪レスラーを相手に次々に防衛を果たし、力道山のインターナショナル ヘビー級王座連続防衛記録も更新(後述)。春の本場所「ワールドリーグ戦」においても、第8回(1966 昭和41年)の初優勝以降、猪木初優勝の第11回(1969 昭和44年)を除きV6で力道山の記録を更新するなど、馬場は完全に日本プロレスのエースとして君臨しました。

  

この1966年には豊登の失脚と追放、そして「アントニオ猪木太平洋上略奪事件」、東京プロレス旗揚げがありました。
詳しくはコチラ

 


 

1967(昭和42)年

 

5月、猪木が日本プロレスに復帰しました。

 

【馬場名勝負④】 1967年8月14日 大阪球場特設リング インターナショナル選手権60分3本勝負 △ジャイアント馬場(1-1)ジン キニスキー△

 

真夏の野外で60分フルタイムで決着が付かず、さらに5分間延長まで行った死闘。キニスキーはこの時、現役のNWA世界王者。大阪球場は2万人の観客で溢れ返り、馬場自身も生涯のベストバウトと語ります。

 


 

●BI砲結成 プロレスブーム再来

 

10月、馬場は猪木とのタッグでインターナショナル タッグ王座を獲得、「BI砲」と呼ばれ快進撃を開始します。

日本プロレスは再び黄金時代を迎え、何度目かのプロレス ブームに湧きました。

ちなみに5歳下でライバルとさえ思っていなかった馬場が猪木の成長を認めたのは、この年の5月に行われたBI砲 vs フリッツ フォン エリック & アイク アーキンス戦だったとか。馬場は猪木のエリック相手にガンガン攻めるガッツと、負けっぷりの良さを評価しています。この時点の猪木はまだ、あくまで馬場の露払いでした。

 


 

1968(昭和43)年

 

BI砲人気に沸く日本プロレスは、2月末から「毎週金曜夜8時」放送となります。

力道山時代からこの時点まではディズニー番組との隔週放送で、ディズニーの週のプロレスは深夜枠で放映されていたのです。

 


 

●インターヘビー21回連続防衛

 

6月25日、馬場は愛知県体育館でボボ ブラジルに1-2で敗れ、インターナショナル選手権を失います。

2日後の蔵前国技館でのリターンマッチで馬場は伝説の「32文ロケット砲3連発」でタイトルを奪還します。

 

【馬場 名勝負⑤】 1968年6月27日 蔵前国技館 インターナショナル選手権60分3本勝負 ○ジャイアント馬場(2-1)ボボ ブラジル×

 

当時を知る方の間ではブラジルに敗れるまで、「1965-68(昭和40-43)年のインター王座連続21回防衛までが、ジャイアント馬場の全盛期」という見方があります。

 

<ジャイアント馬場 インターナショナル選手権 連続21回 防衛記録>

①ディック ザ ブルーザー(1965.11.27)
② ルー テーズ(1966.2.28)
③キラー カール コックス(1966.7.5)
④ゴリラ モンスーン(1966.10.20)
⑤ゴリラ モンスーン(1966.10.28)
⑥フリッツ フォン エリック(1966.11.28)
⑦フリッツ フォン エリック(1966.12.3)
⑧バディ オースチン(1967.2.7)
⑨ブルーノ サンマルチノ(1967.3.2)
⑩ブルーノ サンマルチノ(1967.3.7)
⑪ザ デストロイヤー(1967.4.16)
⑫フリッツ フォン エリック(1967.5.27)
⑬ジン キニスキー(1967.8.10)
⑭ジン キニスキー(1967.8.14)
⑮アート ネルソン(1967.9.30)
⑯ターザン タイラー(1967.11.1)
⑰クラッシャー リソワスキー(1967.12.6)
⑱クラッシャー リソワスキー(1968.1.3)
⑲プリンス イヤウケア(1968.1.7)
⑳ディック ザ ブルーザー(1968.2.28)
㉑ジェス オルテガ(1968.4.13)

 

いやはや、世界どこでもメインを張れる、文字通りトップクラスのスゴイ顔触れです。

 

 

続く③では、1968-1972 馬場・猪木2強時代から全日本プロレス旗揚げまで、そして両者のプロレス観の違いについて掘り下げます!

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