雪の札幌テロ事件〜1984.2.3 藤原のブレイクと「こんな会社辞めてやる!」

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1984年2月3日。新日プロ恒例・雪まつり時期の札幌大会で、大事件が起こりました。

それが、藤波辰巳vs長州力「名勝負数え歌」をブチ壊した、「藤原喜明による札幌テロ事件」。

 

 

昭和のプロレスファンなら、「札幌」「雪まつり」とくれば「テロ襲撃事件」「こんな会社辞めてやる!」と即答するほど、有名な出来事です。

 

今回はこの舞台裏でいったい何が起きていたのか、藤原、藤波、長州、そして大塚直樹氏、アントニオ猪木など、関係当事者のさまざまな視点から、解析します。

 

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テロ事件発生

 

1982年10月8日、後楽園ホールでの「噛ませ犬」反乱から始まった長州×藤波の抗争が、「名勝負数え歌」となり、丸一年以上経過した1984年2月3日。

 

この日の金曜夜8時・テレビ朝日「ワールドプロレスリング」は、超満員の札幌中島体育センターからの生中継でした。

 

番組開始早々、藤波とのWWFインターナショナル・ヘビー級タイトルマッチに向けて「パワーホール」に乗って登場する長州力が、なかなか入場して来ません。

 

私も生中継を見ていましたが、満員の観客に遮られて、最初は何が起きているのか、よくわかりませんでした。

 

よく見ると、新日の赤いジャージを着て、血に染まったタオルを頭に巻いた何者かが、バールのような凶器を使って大暴れしているのが、フラッシュの光でコマ送りのように映ります。

 

 

延々と鳴り響くパワーホールの中、実況の古舘アナが「何か、ファンと揉めているみたいですね…藤原喜明ですか?藤原が?鉄パイプで長州を襲っているのでしょうか?何が起きているのでしょうか!」と叫びます。

 

その男はひとしきり暴れると、気が済んだように踵を返して去って行きました。

 

 

長州のセコンドのアニマル浜口がリングに駆け上がり、「なんだあれは?どういうことだ!」と花道を指差してマイクアピール。

 

対戦相手の藤波が、異常事態を察知してリングイン。何が起きているのかわからない、といった険しい表情で、花道を見やります。

 

そこへ、維新軍の選手の肩を借りて血だらけの長州がリング下にたどり着きました。周囲の制止を振り切りリングに上がる長州に、藤波が襲いかかります。

 

 

しかし大流血の長州は試合ができる状態ではなく、新日、維新軍両サイドの選手が止めに入り「無効試合」に。

 

すると藤波は維新軍どころか、解説席から駆けつけた審判部長 山本小鉄をボディスラムで叩き付け、坂口征二 副社長にも殴りかかり、荒れ狂います。

 

 

実況席の見解は「(前の)試合で浜口と谷津に流血させられた藤原が、報復で長州を襲ったのでは?」でした

 

TV中継は次の試合へと移行しますが、舞台裏は大荒れでした。

 

藤波は長州の返り血を浴びたショートタイツとレスリングシューズ姿のまま、雪の降る外に飛び出します。

 

そして、目に涙を溜めて「こんな会社、辞めてやる!」と吐き捨て、1人、タクシーで会場を後にした・・・と後日、報じられました。

 

 

 

藤波激怒の理由

 

 

もちろん「ファンが楽しみにしているオレと長州の試合をめちゃくちゃにしやがって!」と藤波が怒るのはわかりますが、なぜ「藤原は許せない!」ではなく、「こんな会社、辞めてやる!」なのか。

 

それは、藤原が勝手にこんな事をやるハズがない、藤原にこんな事をさせるのは会社、あの人しかいない…という事が一つ。

 

そしてもう一つは、「自分が藤原にやらせた」と濡れ衣をきせられるのでは?との怒りだったように感じました。

 

この頃には、長州の「かませ犬」反乱も猪木の差し金だったのでは、とさすがの藤波も気づいていたでしょうし、「また自分には知らせず、あの人はこんな事をするのか!」と怒りが爆発。

 

さらにアニマル浜口から散々、マイクで「藤波がやらせたんだろう、卑怯者!」と首謀者扱いされたことで、「まさか会社は、俺のせいにするのか!?」とダブルで怒りが増幅したのではないでしょうか。

 

その疑いが晴れたからか、藤波は翌日の帯広大会には普通に出場しています。この夜に誰からどういう説明(説得?)を受けたのかは謎です。

 

 

藤原喜明とは

 

この時点での藤原は、「知る人ぞ知る、前座の実力者」という位置付けでした。

 

プロレスファンには猪木のスパーリングパートナー兼用心棒、似顔絵がうまい事でも知られていましたが、一般層の知名度はほぼありません。TV的には藤原の試合が放送される事はほとんどなく、かつてカール ゴッチがエキシビションを行った際に「ゴッチにジャーマンされた選手」として、くらいの露出度でした。

 

 

岩手県出身の藤原は高校卒業後サラリーマンを経て、1972年に旗揚げ直後の新日プロに23歳で入門。柔道経験があり、入門からわずか10日で異例のスピードデビューを果たします(デビュー戦の相手は藤波)。試合後、豊登から「オマエ、ホントに初めてか?どっかでプロレスやってただろ」と疑われる程の出来栄えだったといいます。

 

カール ゴッチに師事し、猪木の付け人にも抜擢され、1975年に若手の登竜門「第2回カール ゴッチ杯争奪リーグ戦」で優勝。

 

しかし海外遠征の機会は与えられず、猪木のスパーリングパートナー兼用心棒的役割を担います。「華やかなパーティは藤波、危ないところにはオレが連れて行かれる」と藤原は苦笑していました。

 

実際、モハメド・アリ戦パキスタンでのペールワン戦ローラン ボックとの死闘で知られる欧州遠征などで藤原は、常にピッタリと猪木に寄り添っていました。

 

 

藤原はこの前年9月、木村健悟と組んでディック・マードック&エド・レスリーと対戦する試合がTV中継されたことがありますが、後にも先にもこれ1試合のみ。藤原は長い間(道場では若手を指導しつつも)、表舞台では「万年前座」の「影の実力者」でした。

 

しかしこの長州襲撃以来、藤原はTV中継の「レギュラー出演者」となり、入門から12年目にして一躍、表舞台へと躍り出ました。

 

 

藤原が語る「襲撃の真相」

 

「あの時は、長州か藤波のどちらかが怪我をしていて、試合ができない状態だったんですよ。当時の人気カードで、ベルトの懸かった試合だし、テレビの中継も入っていて中止にするわけにはいかない。猪木さんがオレに「乱入しろ」と。オレが、罪をかぶるみたいな形になるんだけどね。まあ、そんな噂だったけど、本当のところはわからない。」(2015年YOMIURI ON-LINEインタビュー)

 

当初のテロリストは小杉だった?

 

後に当時の新日レフェリーでマッチメイカーだったミスター高橋は、以下のように暴露しています。

 

当時のマッチメイク(対戦カード編成)は坂口とミスター高橋が組み、それを社長の猪木が検閲してゴーサイン、という流れでした。

 

高橋:社長お疲れさまです。
猪木:おお、どうすんだ、これ。
高橋:いろいろ考えてはありますが、正直に言うと若干の迷いはあります。
猪木:この試合、ぶっ壊しちゃおうよ。
高橋:え?ぶっ壊すって…どういうことですか?
猪木:客は見たくねえだろう、こんなカード。長州が花道を歩いているときに誰かに襲わせて血だるまにして、試合をできないようにしちゃおうよ。
高橋:そんなことをしたら、暴動が起こりかねませんよ。
猪木:いいんだ!試合なんてやらなくていい。大丈夫だから俺の言うとおりにしろ!
高橋:…分かりました。
猪木:よーし、それじゃ、小杉だ。小杉にやらせろ。
高橋:小杉?…社長の考え自体に反対はしませんが、小杉にやらせるのは反対です!
猪木:いいんだよ誰だって!俺の見せたいのは長州がやられて試合ができなくなるところなんだ。小杉でいい!
高橋:小杉にはそんなことできないですよ!藤原でいきましょう。藤原ならできますよ。
猪木:小杉でいいって言っているだろう!!しつこいなこの野郎!それじゃ勝手にしろ!!

 

私は藤原でいく覚悟を決め、リング設営用のバールをリング下の工具箱から取り出した。

 

高橋:フーちゃん。
藤原:なんすか。
高橋:頼みがあるんだ。  
<説明>
藤原:…分かりました。

 

彼はポツリとそう言うと、私の差し出すバールを受け取ったのである。

 

小杉俊一選手とは

 

小杉、というのは1985年の第一回ヤングライオン杯優勝者である小杉俊一選手のことです。

 

 

私はこの「テロリスト、当初は小杉説」はどうにも信じられません。小杉選手は見るからに真面目、実直なキャラで、あの時期の長州にいきなり暴行を働くイメージは皆無です。

 

小杉選手は高田伸彦と同期で1981年入門、当時3年目の若手。地味ながら真面目な技巧派で、カール ゴッチからかわいがられていたり、第一次UWFへの修行話があったり、となにかと気にかけられ、売り出しの企画を画策されていた選手、ではありました。

 

小杉選手は前述の通り、85年の第一回ヤングライオン杯で山田恵一を破り優勝しますが、腰痛(内臓疾患説もあり)で88年に引退しています。

 

もし、この話が真実だとして、小杉選手がテロリストになっていたら…早々に維新軍の面々に報復されて、潰されていた気がしてなりません。

 

知る人ぞ知る伏線

 

「長州襲撃のテロリスト、当初から藤原喜明説」の伏線的なエピソードがあります。

 

この前年の1983年3月23日、山口県立体育館で藤原喜明はキラーカーンと不穏試合を演じているのです。

 

 

この時期、キラーカーンはアメリカマットにおけるアンドレとの抗争でブレイクし、日本においてもスター選手でした。一方の藤原は前座の一中堅レスラー。

 

その2人がシングルマッチで激突したのですが、藤原は危険な攻撃を仕掛け、カーンは対応できず不穏な空気に。異常を察知したカーンのセコンド、革命軍(維新軍の前身)のマサ斉藤と長州力が試合に乱入し、試合はカーンの反則負け。試合後、マサと長州は藤原を制裁した、とも噂されます。

 

当時、売れっ子のカーンが調子に乗り、それを不愉快に感じていた藤原とは犬猿の仲でした。飲みの席で「強くもないくせに」と藤原が毒づいて喧嘩になった、藤原がカーンの入場の際にわざと階段を逆さまに付けた、など、さまざまなエピソードが語られています。

 

そんな中、組まれたこの試合。藤原は周囲に「今日はやってやる」と宣言していた通り、ガチガチのセメントを仕掛け、実力を見せつけました。

 

マサや長州が慌てて止めに入る程ですから、藤原の秘めた実力は選手たちからも認知されていたワケで、藤原も「会社に売り出されたからって調子に乗ってんじゃねぇぞ」的な不満があったことが伺えます。

 

もっとも、これは藤原とカーンの個人的な喧嘩で、長州への襲撃に直接的につながるワケではないのですが、「藤原がテロリスト役」なのは実にハマリ役だったのです。

 

猪木はなぜ、試合をぶち壊したのか?

 

いまとなれば小杉か藤原かは置いておいても、猪木の指示であったことは間違いありません。

 

ではなぜ、猪木はこの試合をぶち壊したのか。

 

この頃、藤波と長州の一騎打ちは革命後9回目ということでマンネリ感がありましたが、まだまだ地方では人が呼べるキラーカードでした。

 

私は長年、このカードの次の一手として、苦労人でブレイクできない藤原を2人の抗争に絡ませる猪木の巧妙なアングル、とばかり思っていました。(結果的に藤原は大ブレイクしましたし)

 

しかし、それが「小杉でいいや」と言っていた、となると話はまるで違います。単に猪木が藤波と長州の試合に飽きて、とりあえずめちゃくちゃにしてしまえ、という単なる思いつき、という話になるからです。

 

藤原は事件当時は「長州に、下には下がいる事を思い知らせてやりたかった」と発言していましたし、実にリアルで、説得力がありました。

 

そんな藤原も、近年では「猪木さんの指示だった」という点までは認めていますが、その理由は曖昧なままです。実際、当日、長州も藤波も試合できないほどの負傷はしていなかったと思います(藤原は「そう頼まれた」と語っているに過ぎません)。

 

「真相もなにも、ミスター高橋が書いてるじゃないか」と思う人もいるでしょうが、私はこのミスター高橋の言うことはいまひとつ、信用していません。彼の書籍はいろいろ読みましたが、どれも個人的な恨みから事実が捻じ曲げられていたり、明らかな事実誤認もたくさんあり、テキトー過ぎるのです。本当なら小杉を藤原に変えたのは、高橋のファインプレーですが…。

 

ことに昭和のプロレス史においては、「関係当事者のコメントが一番、信用できない」のです。

 

 

「クーデター事件」との関係

 

もう一つの重要な事実。それはこの前年、83年に「クーデター事件」が起きていた、ということです。

 

クーデター事件首謀者の一人、大塚直樹氏は自著「クーデター」の中で、この件を以下のように記しています。

 

「やられた」ーメインカードが消滅し、私は猪木さんが興行を潰しにかかったのではないかと思った。

 

大塚氏は猪木、坂口らが復権した直後の1983年11月20日、新日本プロレスを退社。その後は猪木のアドバイスをもらいながら、「新日本プロレス興行」を設立し、新日プロの東京・大阪の大会場のチケット販売及び、北海道と四国地区の興行権を得ています。

 

当初は猪木がアリ戦の「後始末用」に密かに設立していた社名を譲り受けるなど円満だった猪木と大塚氏の関係ですが、時が経つにつれて変化していきます。

 

トドメは翌1984(昭和59)年1月14日、同社の設立記念パーティーに「参加する」と約束していた猪木が姿を現さなかったこと。大塚氏は猪木に対し「社長は何を考えているんだろう」と、疑心暗鬼になっていました。

 

この札幌中島スポーツセンターは、大塚氏の新会社が仕切る興行。メインイベントではなくTV中継の開始に合わせてセミ前に組まれた藤波vs長州の「名勝負数え歌」ですが、「このカードをぜひ札幌で」と要望したのも、大塚氏でした。

 

それを眼前でブチ壊され、大塚氏は試合終了後も「金返せ」と納得しない観客からのクレーム対応に追われる事態になってしまいました。興行会社としては信用問題です。

 

しかも犯人は、大塚氏や維新軍となにかとソリの悪い藤原。その関係性から、背後に猪木がいることは、誰の目にも明らかです。

 

大塚氏はこのテロ事件を「クーデターの首謀者である自分(と藤波)に対する、猪木からの強烈なシッペ返し、復讐」と感じたことでしょう。

 

藤原と猪木のスキマ風

 

では、結果的にこの事件で大ブレイクを果たした藤原は、この猪木の差配(抜擢)に感謝していたかというと・・・これまたそうシンプルな話ではありません。

 

1983年9月、クーデター事件で大揺れの中、大宮スケートセンターで行われた「ブラディ・ファイトシリーズ」開幕戦。藤原がいつものように会場入りした猪木を出迎えると、猪木は開口一番「オマエもか?」。事態の呑み込めない藤原が「え?」と戸惑うと、猪木は「トボケんじゃねぇ!」と激怒。

 

猪木はこの日、クーデター事件の首謀者である山本小鉄との直接対決(話し合い)を控えており、まともな精神状態ではなかったのです。

 

藤原はクーデター首謀者の山本小鉄、大塚直樹氏らのいずれもから「猪木さんはもちろん、新間氏の秘蔵っ子の前田とも距離が近い」と距離を置かれていてまったく無関係だったのですが、後からクーデターの全貌を知り、この時の猪木の気持ちも理解する一方で、「猪井さんはオレまで疑うのかよ」「オレはもう、新日本に必要ないんじゃないか?」と思い悩むようになっていたのです。

 

それでも藤原はテロ事件後、猪木や前田らとタッグを組んで維新軍との抗争で毎週のようにTVマッチにも登場し、大会場でアニマル浜口(3.7蔵前)、長州力(3.21大阪城ホール)と一騎打ち、さらには「正規軍vs維新軍 5対5勝ち抜き戦」(4.19蔵前)では副将に抜擢されるなど、猪木の懐刀としての役目を全うします。

 

藤原vs浜口

 

しかし、愛弟子の前田が第一次UWF旗揚げに向けて新日から離脱。「第2回IWGP」が開幕すると藤原は前田への刺客としてUWFに「出向」させられ、遂に1984年9月、自らの意思でUWFに完全移籍してしまいました。

 

猪木はなぜ、藤波vs長州を「ブチ壊したかった」のか?

 

こうしてみてくると、猪木の狙いは

〇マンネリで予定調和なカードの破壊、起爆剤

〇藤原の抜擢による主力への引き上げによる新たな展開

〇クーデター首謀者である藤波、大塚への制裁

などが挙げられ、これだけでも十分すぎる動機ですが・・・

 

もう1つ、私は

〇藤波vs長州「名勝負数え歌」ブランドの破壊

の狙いがあった、と感じるのです。

 

クーデター事件後初となる1983年9月2日、福岡スポーツセンターでの両者の試合は「特別レフェリー・アントニオ猪木」で行われ(維新軍が試合前に猪木を襲撃して未遂に)、9月21日の大阪府立での一騎打ちは乱入絡みの不透明決着。長州が”幻のピンフォール”を奪い「今日はオレの勝ち。もう藤波とやる必要はない、猪木の首を狙う」と発言。

 

そこから、約半年ものインターバルを置いて迎えたのが、札幌でした。

 

そしてこの日のテロ事件以降、ますます「長州のターゲットは藤波から猪木に変わった=ともう藤波vs長州は終わり」と叫ばれるようになりました。

 

この後、両者の対決は84年6月21日の「IWGPリーグ戦」(長州のリングアウト勝ち)、シリーズ最終戦の前哨戦として突発的に行われた(藤波はカネック戦とのダブルヘッダー)7月5日大阪府立(藤波の反則勝ち)を経て、久々にWWFインターヘビーを賭けた、”正調”の「名勝負数え歌」が7月20日、再びこの札幌中島スポーツセンターで行われました。

 

そして札幌のファンが「5か月待たされた」決着戦は・・・「セコンドに現れた猪木に気を取られた長州がバックドロップでフォール負け」という結末に。ここでもまた、「猪木の介入」を受けているのです。

 

 

試合後、長州は「もうオレたちは二度と闘わない。これだけやればファンも満足だろ。しかし、長い闘いだったな。ロング・グッドバイだ。」とコメント。

 

こうした流れを俯瞰してみると、やはりここでも「クーデター事件」の影響を感じます。クーデター事件後、明らかに猪木は「藤波vs長州」を潰しにかかっていたようにしか見えません。

 

興行会社の社長としては、ドル箱カードのブランド価値をわざわざ毀損するようなことをするのはまったくもって意味不明。しかし・・・「1プロレスラーとして、そしてクーデター”された”アントニオ猪木」として考えると、なんとなく見えてくるものがあります。

 

この後、84年8月のパキスタン遠征では、「観覧に訪れた大統領のリクエスト」という名目で、藤波長州はなんとタッグを組まされます。

 

 

そして1984(昭和59)年9月。長州力は大塚直樹氏と組んで、新日プロを離脱

 

藤波vs長州「名勝負数え歌」は、終焉を迎えたのでした。

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