「アブドーラ ザ ブッチャー」〜1948- 遂に引退?“黒い呪術師”

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アブドーラ・ザ・ブッチャーが、2019年2月に両国国技館で行われる「ジャイアント馬場没20年追善興行」で引退セレモニーを行う、と発表しました。

 

「え!まだ現役なの?」「いくつなの?」と思う方も多いでしょう。

 

 

今回はブッチャーの日本プロレス初来日から全日→新日→全日での足跡を振り返りながら、

 

●ブッチャーは、なぜこれほどまでに日本マットで愛されたのか

●そしてなぜ猪木はブッチャーを冷遇したのか

 

について、ご紹介します。

 

 

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「ブッチャー」という超ロングセラー商品

 

ブッチャーはおそらく、日本でもっとも知名度の高いガイジン レスラー。「太ってる人につけられるアダ名はブッチャー」というのが、昭和のお約束でした。

 

1970年生まれでもの心付いた時からプロレスを観てきた私ですが、その頃からすでにブッチャーは「大物ガイジン」でした。

 

以前、ご紹介した

 

77年オープンタッグ選手権シリーズの千秋楽「ザ ファンクスとのフォークの激闘」

を初め、

 

長州、天龍革命からの鶴龍対決、四天王全盛の“日本人対決”が主流になる遥か昔の、

 

1970年代から80年代初頭の全日本プロレスでブッチャーは、ジャイアント馬場、ザ デストロイヤー、ハーリー レイス、ミル マスカラスらと流血の激闘を繰り広げていた記憶があります。

 

あれから50年。

 

実に半世紀もの間、ブッチャーはリングで悪いことをして血を流し続ける、「空前絶後のロングセラー商品」であり続けました。

 

 

 

ブッチャー初来日

 

そんなブッチャーの初来日は、まさに私の生まれた1970(昭和45)年の夏。ジャイアント馬場、アントニオ猪木が所属していた「日本プロレス」です。

 

ブッチャーは初来日ながら開幕戦から大暴れ。タッグマッチで馬場からフォールを奪い、シリーズ最終戦では馬場の持つ至宝「インターナショナル選手権」に挑戦するという、抜擢ぶりでした。

 

 

ブッチャーは公式プロフィールでは「スーダン生まれ」とされていましたが、実は「カナダ生まれ」。1941年生まれですから、この時すでに29歳ということになります。

 

 

NWAエリアでの活躍

 

ブッチャーは70年代初頭、北米・五大湖エリアを主戦場に、大物ヒールの“アラビアの怪人”ザ・シークと抗争を繰り広げる若手レスラーでした。

ザ・シークはブッチャーのキャリア形成に多大な影響を与え、全日本プロレスでもタッグを結成しています。

 

 

1970年代半ば頃からジャイアント馬場の興した全日本プロレスを主戦場に暴れる一方で、アメリカではジョージア、フロリダ、ミッドアトランティック、そしてプエルトリコなど、当時のNWAの主要テリトリーで、トップヒールとして活躍していました。

 

 

全日本プロレスでの活躍

 

日本においての一つのハイライトが、1976(昭和51)年の「第4回チャンピオンカーニバル」優勝。

 

1973(昭和48)年の初開催から3年連続でジャイアント馬場が優勝していた全日本プロレス「春の本場所」、シングルのリーグ戦で、初めて優勝したガイジンがブッチャーでした。

 

 

NWA世界チャンピオンでもアマレスエリートでもなく、悪役ガイジンのブッチャーがこういった破格の扱いを受ける理由は、ただ一つ。

 

「人気があったから」に尽きます。

 

インパクトのある褐色の巨体、よく見ると愛嬌のあるクリクリした目などの“ルックス”に目が行きがちですが、凶器で反則ばかりする悪役にも関わず、あれだけ日本の観客のハートを掴んだのは、

 

日本人好みの「間」のとり方が絶妙だった

 

からだ、と思います。

 

道着を着用してカラテ(地獄突き)を使う、というのも日本ウケする要因でしたが、なによりも、ジャイアント馬場と相対した時に、“実に日本人ウケする、間の取り方”をするのです。

 

 

普段はスローモーなのに、ディフェンスしたり、地獄突きをしたり、「毒針」と呼ばれる全体重をかけた必殺のエルボードロップを繰り出すときだけ、ものすごく早く動く。

 

普段は声も出さないほど寡黙なのに、攻撃を受けるとカン高い奇声を発する。

 

そんな“緩急のつけ方”も見事でした。

 

まだまだ勧善懲悪のストーリーが受けるこの時代に、見た目にもわかりやすい“悪のアイコン”ブッチャーは、そんな匠の技を駆使して、スターガイジンレスラーが並み居る全日本プロレスにおいても、会場でも、TV中継でも、「馬場のライバル」「トップレスラー」「ドル箱レスラー」に上り詰めました。

 

ブッチャーは世界でも信用の高いプロモーターである馬場の信頼を集め、ブッチャー自身も、極悪ファイトの自分がなぜここまで声援を受けるのか不思議に思いながらも、日本市場での自らの商品価値を落とさぬよう、ファンの心理をつかみ、期待に応え続けていました。

 

 

テーマ曲はピンクフロイド

 

ブッチャーの入場曲はピンクフロイド「吹けよ風、呼べよ嵐(ONE OF THESE DAYS)」

 

 

この楽曲は「全日本プロレスの悪役レスラーのテーマ」としてザ・シーク、全日転身後のタイガー・ジェット・シンなども使用しました。

 

 

ちょうどこの70年代後半、プロレス界に入場時に音楽を流す演出が流行し始めていました。

 

ミル マスカラスに「スカイハイ」(ジグソー)、そしてライバルのザ ファンクスに「スピニング トー ホールド」(クリエイション)というテーマ曲が付いて人気が爆発し、それなら対戦相手のブッチャー組にも…という事で選定されたのだと思いますが、

 

プログレバンドの大御所 ピンクフロイドを持ってくるあたり、当時の日本テレビ、プロレス中継スタッフのセンスには脱帽です。

 

オールスター戦でBI砲と激突

 

ブッチャーにとって、もう一つのエポックが、1979年8月26日、日本武道館でたった一度だけ開催された「夢のオールスター戦」のメインイベント、BI砲復活の対戦相手に選ばれたことでしょう。

 

犬猿の仲であったジャイアント馬場、アントニオ猪木が久々にタッグを結成、その対戦相手はファン投票となりました。

 

そしてザ・ファンクスジャンボ鶴田&藤波辰巳組を抑えて選出されたのが、アブドーラ・ザ・ブッチャーとタイガー・ジェット・シンという、両団体のエース ヒール コンビでした。

 

 

この試合では久々の猪木との対戦で大暴れ。その役割をキッチリ果たす活躍を見せました。

 

この1979年にはブッチャーをモデルにしたギャグマンガ「愛しのボッチャー」(河口仁著)が週刊少年マガジンで連載開始。翌1980年にはキリンレモンのCMに出演するなど、ブッチャーブームが起きました。

 

 

 

新日本プロレスへの転身

 

そんな人気絶頂のブッチャーが、敵対するライバル団体の新日本プロレスに移る、というのは当時、“衝撃の大事件”でした。

 

1980(昭和55)年、“過激な仕掛け人”の異名を取る新日本プロレスの営業部長、アントニオ猪木のマネージャーでもある新間寿氏は「全日本プロレス潰し」を狙い、エース ガイジンであるブッチャーの“引き抜き”を、2人の男と共に実行します。

 

日本プロレスOBでなにかと猪木と因縁のあるユセフ トルコ氏。そしてもう1人はタイガーマスク原作者、極真空手とのパイプ役として当時、新日本プロレスと昵懇の関係にあった梶原一騎氏です。

 

 

この時、ブッチャーに提示されたギャランティは「3年契約、初年度15万ドル」(当時のレートで約3千5百万円)。更にユセフ トルコ氏と梶原一騎氏への成功報酬は各1千万円、と言われています。

 

「マネーしか信じない」と公言しているブッチャーからすると、この選択はプロとして当然のことだったと思いますが、結果的に見ればこの転出はブッチャー、新日本プロレス双方にとって“ミステイク”に終わります。

 

この「ブッチャー引き抜き」に怒り心頭の馬場はタイガー ジェット シン、そしてスタン ハンセンという新日プロの両エース ガイジンを引き抜き返す報復をみせ、新日本プロレスは大き過ぎる代償となりました。

 

そして肝心の大将、馬場に代わりライバルとなるはずのアントニオ猪木は、我々ファンも驚くほどブッチャーに対して「冷遇」と呼べる無関心ぶりでした。

 

それはブッチャーと猪木の移籍後シングル初対決が、なんと8ヶ月半も経過してから行われた(1982(昭和57)年1月28日、東京体育館)ことからも伺えます。

 

 

そしてその初対決も、ブッチャー怒涛の攻めをいなした猪木が攻め疲れをついた延髄斬りでブッチャーはノックアウト寸前。セコンドのバットニュース アレン乱入による猪木反則勝ち、という“凡戦”に終わります。

 

一方、全日本プロレスに移籍したハンセンは登場からわずか1ヶ月あまりでジャイアント馬場とシングルマッチが組まれ(1982(昭和57)年2月4日東京体育館)、その初対決が年間ベストバウトを受賞したのに比べると、まさに明と暗。

 

奇しくも、猪木vsブッチャーと馬場vsハンセンのシングル初対決の会場がわずか10日後、会場も同じ東京体育館なのが興味深いですね。

 

 

猪木「ブッチャー冷遇」の理由

 

「ホウキ相手でも名勝負」と言われる猪木ですから、ブッチャー相手に名勝負をやろうと思えばできたハズ。普通に考えれば「高い買い物」になったブッチャーという商品を最大限に活かしきるのが、団体エースでありプロモーターである猪木の真骨頂のハズ…なのです。

 

にも関わらずその気がさらさらなく、実際やらなかった理由は諸説ありますが、「ブッチャーは所詮、馬場と手の合う、“お約束の古いプロレス”で売れた選手」という思いが猪木の中で強かったからではないか、と思います。

 

結局、「新日本プロレスでのブッチャー」は移籍直前のハンセンと夢のタッグを組んだ谷津嘉章デビュー戦、ハルク ホーガン、ワフー マクダニエル、ディック マードック、ダスティ ローデスなど新たな顔ぶれとのガイジン対決ではそれなりに存在感を示しますが、

 

 

エースである猪木との抗争が不発に終わっては、大したインパクトは残せませんでした。

 

長州力が「かませ犬発言」で一気にブレイクした1982(昭和57)年の後楽園ホール大会でも、猪木 藤波 長州組の対戦相手はブッチャー組でした。この試合でブッチャーはその存在を無視される屈辱を味わいました。

 

その後、アントニオ猪木とブッチャーの2度目のシングルマッチは初対決から3年以上も経過した1985年1月、徳山大会。

 

この試合でブッチャーは猪木にブレーンバスターで移籍後初のフォール負けを喫し、遂に「お払い箱」となってしまいました。

 

 

全日本プロレス復帰

 

ブッチャーは1987年11月、「世界最強タッグリーグ戦」で全日本プロレスに復帰しました。

 

この時、同じく新日本プロレスからブルーザー ブロディが出戻り。

 

「一度裏切った選手は二度と使わない」のが信条のジャイアント馬場からすると、この2人の出戻りは“特例”でした。

 

古巣に復帰したブッチャーは全日本プロレス ファンに暖かく迎えられ、各会場でブッチャー人気が爆発。再ブレイクを果たします。

 

そして1988(昭和63)年8月には、急逝したブロディの追悼試合「ブロディ・メモリアル・ナイト」(日本武道館)でスタン ハンセンと対戦します。

 

 

実はこの日は、「スタン ハンセン vs ブルーザー ブロディ」の夢の一騎打ちが実現するはずの大会でした。

 

ハンセンとブッチャーはブロディのチェーンで互いの額を叩き割り、ド迫力の大流血戦で仲間の死を追悼しました。ブロディの盟友、ハンセンの相手にブッチャーが選ばれたのは、ブロディが亡くなる数日前まで抗争を繰り広げていた相手、がブッチャーだったからでした。

 

 

その後も、タイガー・ジェット・シンとの「最凶悪タッグ」を復活したり、1990(平成2)年9月「ジャイアント馬場デビュー30周年記念試合」で馬場と初タッグを結成してハンセン、アンドレ ザ ジャイアント組と対戦

 

さらには馬場の左大腿骨骨折からの復帰戦の相手も務めたり、病気欠場明けのジャンボ鶴田とタッグ結成など、ベビーフェイス的な役割にシフト。

 

“レジェンド”的な扱いを受けるようになりました。

 

 

その後のブッチャー

 

1990年代は東京プロレスで高田延彦と異次元対決を行なったり、WAR、大日本などインディー団体に主戦場を移し、そのバツグンの知名度で観客動員に貢献。

 

2000年代に入っても全日本、W-1、ハッスル、DRAGON GATE、新日本、IGFでは猪木と再会するなど、数多くの団体にゲスト出場。親子ほど年齢差のある選手相手に、貫禄を示していました。

 

 

テリーとプロレス殿堂入り

 

2011年3月には「ハードコア レスリングのレジェンド」として、永遠のライバル テリー・ファンクのインダクターのもと、WWE殿堂「ホール オブ フェイム」入り

 

ちなみに、ブッチャーはWWEエリアで試合をしたことはなかったのですが、この2人の対決が世界のプロレス界に与えたインパクトは大きく、その貢献が評価されての受賞でした。

 

 

そんなブッチャーも、御年77歳。あまり変わらない容姿でリングに上がり続けているだけでも奇跡です。

 

そして2019年2月19日、「ジャイアント馬場没20年追善興行〜王者の魂〜両国国技館大会にて、現役引退セレモニーを執り行う予定、となりました。

 

「プロレスラーは生涯現役」という言葉もあり、この決定がどこまで本気なのかはわかりませんが、

 

自分でリングに立てるタイミングで幕引きを行う、というのはそれはそれで良いことですよね。

 

 

ブロディとマードックについては、また項を改めて…

 

 

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