「ダイナマイトキッド」~1958-2018 プロレスを”変えた”初代タイガー最強の好敵手

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昭和のプロレスマットを彩ったガイジン・プロレスラー列伝、今回は改めて”爆弾小僧”ダイナマイト キッドをご紹介します。>追悼記事はコチラ

 

初代タイガーマスクのデビュー戦の相手、最強の好敵手として知られるキッドは、イギリスマットでデビュー。カナダのカルガリーで頭角を現し、国際プロレス~新日本プロレス~全日本プロレスを経て1980年代後半はWWF(現WWE)でも活躍。

 

「剃刀(カミソリ)戦士」「全身是、鋭利な刃物(by古舘伊知郎アナ)」と異名を取る猛烈なスピードと技の切れ味、そしてなにより自らの危険を一切顧みない妥協なき攻撃と過剰なまでのバンプ(受け身)のスタイルで、初代タイガーマスクと共に「プロレスを変えた」男。

 

後世の試合スタイルに多大な影響を与え、今なおキッドに憧れ、目標に掲げるプロレスラーが数多く存在します。

 

ダイナマイト キッド/The Dynamite Kid
本名:トーマス ビリントン/Thomas Billington
12/5/1958 – 12/5/2018

 

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●初来日は国際プロレス~新日本プロレスでブレイク

 

ダイナマイト キッドは1958(昭和33)年イギリス生まれ、1975(昭和50)年に17歳で英国マットでプロレスデビュー。”蛇の穴”ビリーライレージムでもトレーニングを積み、若手時代は”ローラーボール”マーク ロコ(後のブラックタイガー)らと抗争し、1978(昭和53)年にはブリティッシュ ウェルター級王座を奪取。

同年4月からカナダのカルガリーへ渡り、スチュ ハートの主催するスタンピード レスリングに定着し、デビューしたてのブレッド ハートとも対戦。カルガリーマットはキッドの登場により、ミッドヘビー級(日本ではJr.ヘビー級)カテゴリが定着したと言われています。

 

キッドの初来日は、1979(昭和49)年7月、国際プロレスでした。

 

キッドは英連邦ジュニアヘビー級王者として初戦の寺西勇戦で30分時間切れ引き分け。

続いて阿修羅 原が持つWWU世界ジュニアヘビー級王座に挑戦してダブルカウントアウトで引き分け。原とは翌日にも国際プロレス初のラウンド制ダブルタイトルマッチを行い、4分7ラウンドの時間切れで引き分けています。

ちょうどこの頃、国際プロレスと提携していた新日本プロレスがカルガリーマットと急接近し、キッドが初来日した直後の8月にアントニオ猪木、坂口征二、藤波辰巳が遠征。

 

現地で行われた藤波VSキッドのWWWFジュニアヘビー級王座と英連邦ミッドヘビー級王座のダブルタイトル戦が「ワールドプロレスリング」で録画中継されました(両者リングアウトで引き分け)。ちなみに、この日のメインイベントはアントニオ猪木vsスタン ハンセンのNWFヘビー級選手権試合です。

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国際プロレス代表の吉原功氏のキッドへの評価は高く、ビル ロビンソンに続く英国人スター候補として日本陣営に組み入れることを計画し、翌1980(昭和50)年1月のシリーズに再来日をオファーしますが、新日本プロレスが獲得。以降、21歳のキッドは26歳の藤波の好敵手として、藤波の持つWWF世界Jr.ヘビー級に挑戦にするなどして新日本プロレスでポジションを獲得します。

 

この時期、スキップヤングとの藤波への挑戦者決定戦で見せたダイビングヘッドバットは放った自らの額が割れるほどの衝撃で、今なおマニアの間で語り草になっています。

 

そして1981(昭和56)年4月23日、初代タイガーマスクのデビュー戦の相手が、ダイナマイト キッドでした。

 

 

タイガーになる前の佐山聡はイギリス遠征でそのスタイルを確立していましたが、その時キッドはカルガリー転戦後で不在。両者はこれが初対決でした。しかし、この試合が想像を超えるスウィングぶりを見せたことで、初代タイガーへの期待が一気に爆発したことに加えて、キッドの実力者ぶりも改めて注目を集めました。

 

後に佐山聡氏は「(初戦での)キッドのインパクトは物凄かった。彼がデビュー戦の相手でなかったら、その後のタイガーマスクの人気も変わっていたかもしれない」と語っています。

 

その後、キッドは初代タイガーマスクの最強・最大のライバルとして幾度となく死闘を展開。タイガーにはブラックタイガー、小林邦明などのライバルがいましたが、中でもタイガーvsキッド戦のクオリティはズバ抜けて高く、両者のスピードと繰り出す技のインパクトは、「プロレスを変え」、後のレスラーに多大な影響を与えました。

 

1982(昭和57)年8月30日にニューヨークMSG(マディソン スクエア ガーデン)で行われた初代タイガーマスクとの1戦は、日本における両者のファイトを初見の層に紹介する「総集編」的な内容でした。様子見だった場内が試合が進むにつれて沸き始め、それまで「大男によるパワーファイトしかウケない」NYの観衆が思わずスタンディングオベーションを贈る展開となり、キッドvsタイガーの試合のクオリティは言語や嗜好の壁を越えて、グローバルに通用するコンテンツであることを証明して見せました。

 

その後、初代タイガーマスクが電撃引退すると後継のマスクマン、ザ・コブラと激闘を展開。1984(昭和59)年1月に開催された「WWFジュニアヘビー級王座決定リーグ戦」で従兄弟のデイビーボーイ スミス、ザ コブラとの三つ巴戦を制してチャンピオンに輝いた1戦は、キッドの生涯でも指折りのベストバウトとなりました。

 

 

●全日本プロレス~WWF~引退

 

1984(昭和59)年末、新日本プロレス「第4回MSGタッグリーグ戦」に出場するため来日したキッド&スミスが空港で姿を消し、そのまま全日本プロレス「’84世界最強タッグ決定リーグ戦」に参戦するという衝撃的な事件が起こります。

 

当時、全日本プロレスには長州力らジャパンプロレスが新日本プロレスを「大量離脱」して参戦したタイミングで、キッド&スミスも全日&ジャパン連合軍による新日プロ壊滅作戦の一環と見られていました。

 

 

全日本サイドはすぐさま「アメリカでの NWA vs WWF のレスリング ウォーが原因(当時新日本が提携していたWWFのカルガリー侵攻に対する反発)」として引き抜きを否定しますが、MSGタッグリーグ戦の立会人として来日していたWWF総帥ビンス マクマホンJr.が新日本プロレス副社長の坂口征二の橋渡しでジャイアント馬場とトップ会談するなど、大騒動となりました(テレビ朝日との契約問題がクリアされず、このシリーズ中キッド組の「全日本プロレス中継」でのTV中継はなし)。

 

キッドはこの頃からウェイトをアップしてヘビー級に転向。1985(昭和60)年3月からWWFに本格参戦し、スミスとのタッグチーム「ブリティッシュ ブルドッグス」で活躍。1986(昭和61)年4月にはレッスルマニア2でWWF世界タッグ王座を奪取しました。

 

 

この時期、キッドは無理なオーバーウェイトとハードなツアーの影響で、明らかにコンディションが悪化していきます。「ヒト用では足りず、馬用のステロイドを使用した」と本人も告白している通り、当時のWWFマットはステロイド利用が蔓延していました。

 

そして1986(昭和61)年12月、カナダでの試合(ブリティッシュ ブルドッグスvsカウボーイ ボブ オートン&マグニフィセント ムラコ)でアクシデントにより椎間板に重傷を負います。

 

その後、1988(昭和63)年末にWWFを離脱、1989(平成元)年からは再びカルガリーのスタンピードレスリングおよび、全日本プロレスへ復帰。

 

1989(平成元)年、後楽園ホールでのブリティッシュブルドッグスvsマレンコ兄弟のタッグ戦は、キッド最後のベストバウト。これぞプロレスリング、という素晴らしい試合でした。

 

 

その後、スミスとのタッグを解消し、ジョニースミスと「ニュー ブリティッシュ ブルドッグス」を結成。小橋健太&菊地毅組を破りアジアタッグ王座を獲得するなどして活躍します。

 

そして1991(平成3)年、日本武道館で行われた’91世界最強タッグ決定リーグの最終戦。入場前に突然「ダイナマイトキッド選手はこの試合を持ちまして現役を引退いたします」とのアナウンスが流れました。私は当日、会場にいましたが、あの時の衝撃は忘れられません。入場曲「Car Wars」が流れると、武道館は大キッドコールに包まれました。

 

キッドはいつもの如く猛烈なヘッドバットを連発し、高速ブレーンバスターを決め、ダイビングヘッドバットでサニービーチからピンフォール勝ち。

 

試合後、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、三沢光晴から金一封と記念品が贈呈され、全日選手たちからリング上で胴上げ。最後に、マイティ井上、ラッシャー木村の元国際プロレス勢と挨拶を交わしていたのが印象的でした。

 

 

「首にボルトが3本入っていて、自分らしい試合ができなくなった。ダイナマイト キッドはジ・エンドだ」この時キッドは、わずか33歳でした。

 

●病床の晩年

 

その後、1996年10月にみちのくプロレス両国国技館大会に来日。ドス・カラス&小林邦昭とタッグを組み、初代タイガーマスク、ミル マスカラス、ザ グレート サスケ組との対戦で久々に日本マットに復帰しましたがやせ細り、かつて誇った肉体美は面影もありませんでした。

 

 

その後は長く公の場から姿を消していましたが2013年、ドキュメンタリー映画「Dynamite Kid – A Matter of Pride」の試写会イベントで久々に姿を現し、2016年10月5日、NHK BSプレミアムで放送された「アナザーストーリーズ 運命の分岐点」に出演。脳卒中に倒れ入所中の介護施設で、タイガーマスク(佐山聡)のビデオメッセージを病床から見つめる姿が涙を誘いました。

 

 

そして60歳の誕生日を迎えた2018年12月5日、死去が複数のメディアにより報じられました。

 

訃報を受けた初代タイガーマスク、佐山聡氏は「偉大なライバルだったトミーが亡くなり、悲しみに暮れています」とコメント。

 

翌12月6日、自身が主宰するリアルジャパンプロレス後楽園ホール大会において、追悼の10カウントセレモニーが行われました。

 

 

●ダイナマイトキッドのスゴさ

 

ダイナマイト キッドのスゴさは、その影響力の大きさです。日本だけでなく、世界中で「キッドが憧れ」と公言するレスラーが山ほどいます。中でも初代タイガーマスクとの一連の抗争は、確実にプロレスの試合スタイルを変えてしまいました。

 

 

1発1発が強烈無比で、一切の妥協を許さない破滅的なファイトスタイル。プロレスに詳しくない人が見ても、キッドのファイトスタイルは常に息を飲む気迫に溢れていました。

 

超高速のブレーンバスター、初代タイガーの頸椎を破壊したツームストンパイルドライバー、そして長距離を飛行してアタマから相手のアタマを狙うダイビングヘッド。そしてキッドは攻撃だけじゃなく、やられる時もまさに”必死”。全身が砕け散らんばかりの全力疾走でリングやコーナーに叩きつけられまくりでした。

 

なにがそこまでしてキッドを奮い立たせるのか、怪我や死ぬことが怖くないだろうか。その”捨て身の気迫”こそが、キッドの魅力でした。

 

これからもキッドのファイトに憧れ、キッドを目指すプロレスラーは出現するでしょう。しかし、キッドを超える”殺気”を身にまとうレスラーは、もう現れない気がします。

 

 

 

 

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