「ディックマードック」 〜1946-1996 “狂犬” 古き良きプロレスの巧

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「プロレスが巧い」といわれるレスラーはいろいろいますが、私の中でその代表が、この「ディック マードック」おじさんでした。

 

ロクに練習もせず、派手な筋肉もないけれど、ナチュラルに強い。ケンカが強い。

 

殴る、蹴る、投げるという基本技だけで、めったに飛んだり跳ねたりしないけど、プロレスが圧倒的に「巧い」。

 

キャラクターもユニークで、前歯が抜けた顔でシリアスになればなるほど周囲は笑いそうになり、

欲もなくメインのストーリーラインにはそれほど関わらないのに、どんな普通の試合でも、シングルでもタッグでも、バツグンに面白い。

 

実は名うてのシュートファイターなのに、そんなことは微塵も感じさせずにプロとしての仕事をこなすのがカッコいい。

 

大好きなレスラーでした。

 

80年代からは新日本プロレスを主戦場にしていて、私の世代はそのイメージが濃いのですが、元を辿ればテキサス アマリロのファンク道場出身で、全日本プロレスのカラーの強い選手です。

 

にも関わらず、

 

ストロングスタイル、ハイスパート、日本人抗争が主流となりつつあった新日本マットでも存在感ありまくりで、

 

アンドレやハンセン、ホーガン、ブロディ、ブッチャーらのガイジン勢からも一目置かれ、

ヤングボーイ達からもリスペクトされ、

猪木や藤波はもちろん、カタイ前田とでも好勝負を連発するし、

時折、日本側についたりしてもなんの違和感もない、

なんとも不思議なレスラーでした。

 

なんだか、トムとジェリーの「ブルおじさん」みたいなんですよね。

 

そしてマードックは日本プロレス、国際プロレス、全日本プロレス、新日本プロレスの全てにブッキングされた、数少ないレスラーなのです。

 

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二世レスラー

 

マードックは父親であるフランキー マードックもプロレスラーで、二世レスラーです。

 

wikiによれば

 

1948(昭和23)年生まれ。
幼少期からレスリングの英才教育を受け1965(昭和40)年テキサス州アマリロの「ファンク道場」に入門。
ウエスト テキサス州立大学でアメリカンフットボールの選手として活動した…が、実際には大学には入学しておらず勝手に出入りしていたらしい。
また、ボクシングの心得もあったとされ、そのキャリアはアメリカ海兵隊時代に身につけたものといわれている。
ドリー ファンク ジュニア、テリー ファンクとは幼なじみである。

 

この時点でツッコミどころ満載です(笑)。勝手に出入り(笑)

 

その後、初来日は1968(昭和43)年、日本プロレスでした。

1971(昭和46)年には、追放寸前の”若獅子”アントニオ猪木のUNヘビー級王座に挑戦しています。

 


 

国際プロレス

 

この時期、ダスティ ローデスと結成した「テキサス アウトローズ」“テキサスの無法者”キャラで全米を股にかけて活躍。

 

1973(昭和48)年からは国際プロレスに、そのテキサス アウトローズとして初参戦。

ラッシャー木村&グレート草津のIWA世界タッグ王座に挑戦したり、シングルではストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦したり、金網デスマッチも行なっているんですね。

 

全日本プロレス

 

全日本プロレスには、1973(昭和48)年10月から参戦。

 

 

同じくローデスとのタッグでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナルタッグ王座に挑戦(1975年)したほか、1980(昭和55)年にはジャンボ鶴田からUNヘビー級王座を奪取

 

オープン選手権でのパット オコーナー戦、ホースト ホフマン戦キラー カール コックスとのブレーンバスター対決、ビル ロビンソン戦、ハーリー レイスとのNWA世界選手権などなど、名勝負を数多く残しています。

 

 

ユニークなのが1974(昭和49)年、ザ デストロイヤーの人気企画「覆面十番勝負」に覆面レスラー“ザ トルネード“として対戦したり、

 

1976(昭和51)年の全日プロ米国遠征では馬場&鶴田と組んでドリー ファンク Jr.&パット オコーナー&セーラー アート トーマスと6人タッグマッチで対戦していたり、という点。

 

この頃から、マードックの独特な立ち位置、存在感が伺えます。

 

新日本プロレス

 

1981(昭和56)年、新日本プロレスに移籍。

 

ブッチャー引き抜きに端を発した両団体の引き抜き合戦の結果、なのですが、シン、ハンセン、戸口など双方が引き抜きを行う度に、両団体のギスギス度合いが過熱する中、このマードックの件だけはなんだか不思議な感じなのです。

 

馬場からしてもマードックを引き抜かれたのは痛手であり、怒り心頭…なハズですが、マードックは新日本に移籍した後も時々馬場のところに顔を出して「一杯おごってくれ」と朝まで付き合わせたり。

 

その憎めないキャラは、まさに無敵です。

 

新日本プロレスではかつてのローデスとの「テキサス アウトローズ」を復活させたり、

 

ボブ オートンJr.、アドリアン アドニス、マスクド スーパースター、とタッグを結成。

どのタッグチームも年末のタッグリーグ戦の優勝戦線に絡む大人気ぶりでした。

 

ちなみに・・・ボブ オートンJr.はWWEスーパースター、ランディ オートンのお父さんです。

 

 

藤波とのお尻ペロン対決

 

ヘビー級に転向した藤波辰巳とは「飛龍十番勝負」をはじめ何度も対戦し、その都度リングから上がる際にタイツを引っ張り合い、両者「半ケツ」になるのがお約束でした。

 

必殺技

 

キラーカールコックスから伝授されたという、滞空時間のやたら長い垂直落下式ブレーンバスターと、

 

カーフ ブランディング(仔牛の焼印押し)が代名詞。

 

基本的にマードックの試合は大技を連発せず、ボディスラム、ハンマーロック、パンチ、エルボー、ストンピングといった基本技だけ。にも関わらず、まったく観客を退屈させない、“天才”でした。

 

 

前田、長州も小僧扱い

 

当時、“新格闘王”として新日本マットを席巻、多くのレスラーが対戦をイヤがった若き日の前田日明ですら、マードックの前では「小僧」扱い。

 

「プロレスやるのかケンカやるのかハッキリしろよ」と言ったとか言わないとかいわれてますが、リング上でカサにかかって攻め込むと、バチーンと顔面、鼻っぱしらにエルボーをブチ込んだりして、「ナメたことしたら殺すよ?」的な怖さが、ふとした瞬間に垣間見えるのが、なんとも痛快でした。

 

同じく、“革命戦士”として人気絶頂の長州力も、マードックおじさんの貫禄の前には、なんともやりにくそうな雰囲気でした。

 

 

「ノーテンキ」なテーマ曲

 

マードックの新日本プロレス参戦時の入場テーマ曲はThe University of Texas Longhorn Bandの「Texas Fight」。

 

なんとも明るくにぎやかで、マーおじさんの雰囲気にピッタリでした。


▲名場面つき!

 

 

禁断のブッチャー戦

 

そんな「喧嘩っぱやく無愛想、なのになんだか憎めない、気のいいオジサン」的なマードックですが、危険な匂いを漂わせたのがアブドーラ・ザ・ブッチャーとの絡み。

 

テキサス出身でガチガチの白人至上主義のアメリカンであるマードックは、KKK(白人至上主義団体 クー クラックス クラン)のメンバーであったと言われており、大の“黒人嫌い“でした。

 

中でもブッチャーとは犬猿の仲で、賢明なジャイアント馬場はそれを察知して、マードックを最強タッグなどにはエントリーせず、ブッチャーと当たらないように配慮していたそうです(とはいえ、全日本時代にタッグでは何度か対戦経験あり)。

 

そんな2人が、ほぼ同時期に新日本プロレスに戦場を移してしまいました。

 

そして1981(昭和56)年11月5日、蔵前国技館。猪木とラッシャー木村がメインで対戦したこの大会で、

ディック マードック&ディノ ブラボー vs ブッチャー&バッドニュース アレン

という、禁断のカードが組まれたのです。

 

さらにはアレンが負傷欠場。リング上で、ブッチャーがマードックまたはブラボー、対戦相手を決める、という流れに。

 

マードックはいつになくシリアスな顔で「やるならやってやるぜ」的なポーズを示し、観客も大マードックコール。

 

しかしブッチャーはブラボーを選択。両者の対決はすんでのところで回避されました。

 

この不自然なストーリーは「団体側のブラボー売り出しのため」とか「マードックが対戦拒否したから」などと言われていますが、真相は謎です。

 

ただ、確実なのはブッチャーに「マードックから逃げた」というマイナスイメージが付き、商品価値を落とすことになったということです(さらにブラボー戦もアレンが介入して反則負けというオマケ付き)。

 

これだけならまだ、両者はホントに対戦したくなかったのだな、で終わる話なのですが、

 

それから2年弱が経過した1983(昭和58)年7月の大阪府立体育会館で、唐突に、マードックvsブッチャーのシングルマッチが組まれてしまうのです。

これは新日本プロレスの鈍さなのか、残酷さなのか。馬場さんからしたら「あり得ないカード」なのですが。

 

しかし、一部の人が好む「不穏試合」「ガチンコ」にはならず、あくまでもプロレスの範疇でした。

 

試合ではブッチャーがめずらしいランニング ネックブリーカーを繰り出したり、マードックがブッチャーの巨体をブレーンバスターで叩きつけるなど、白熱した攻防に。

マードックもブッチャーも「顔を見るのも嫌」な相手とでも、いい試合をしてみせる「プロ」なのです。

 

最後は場外乱闘で8分たらずで両者リングアウトの引き分け、で終わりましたが、リング外での乱闘ではマードックのケンカの強さの一端が垣間見え、マニアの間では隠れた名勝負、と言われています。

 

ちなみに、ブッチャーは自伝でこの件に触れ

「自分はマードックでも一向に差し支えないし、実際、対戦経験がある。あの日はブラボーをブレイクさせる機会だったし、実際にブレイクした。むしろバッドニュース アレンとマードックが険悪で、もしタッグ戦が普通にあったら、その二人の間で凄惨なトラブルがあったのでは」

と言及しています。

 

 

アントニオ猪木との関係

 

「世代闘争」で次世代から突き上げを食らうアントニオ猪木は、マードックを重用しました。

 

1986(昭和61)年のIWGP優勝決定戦で、猪木と対戦したのもマードックでした。

 

1987(昭和62)年の5対5イリミネーションマッチでは、猪木率いる「NOWリーダー軍」の星野勘太郎と交代で、秘密兵器として投入したのもマードック。

 

四面楚歌で誰も信用できない猪木が「金払えばヘンなことはしない」上に「腕っぷしが強くて前田にだって怯まない」マードックを、“ポリスマン”的に扱っていた印象です。

 

1996、49歳で急逝

 

1989(昭和64)年にFMWに参戦して以降、1990年代はインディー団体を転戦。アメリカマットでも活躍していましたが、1996(平成8)年6月15日、心臓麻痺により49歳の若さで亡くなりました。

 

「本気になればNWA世界王者」と言われていた実力者でありながら、腕っぷしとクソ度胸でケンカがなにより大好き、さっさと試合終わらせてビール飲もうぜ、的なヤンチャぶりでその気はさらさらない、って感じでした。

 

通算来日回数は54回。

 

当時、新日本プロレスの実況を担当していた古舘伊知郎アナウンサーによれば、

「焼肉屋でしこたま焼肉を平らげた後、うどんが食べたいと屋台を探したが見つからず、屋台のラーメン屋で生卵2つ入りのラーメン4杯をあっという間に食った。そら早死にするわ!」

と愛情を込めて語っています(笑)。

 

 

個人的ベストバウト

 

1984(昭和59)年12月5日に大阪府立体育会館で行われた、

第5回MSGタッグリーグ戦 優勝戦

アントニオ猪木&藤波辰巳  vs ディック マードック&アドリアン アドニス 

の試合です。

 

この年、6月に藤原、木戸、高田が前田、佐山のUWFへ合流。9月には長州率いる維新軍団とフロント陣が大量離脱。さらにこのシリーズ直前にはダイナマイト キッド、デイビーボーイ スミスまで全日本プロレスに持っていかれ、新日本プロレスは黄金時代から一気に“崩壊の危機”に晒された時期です。

 

そんな逆境の中、猪木&藤波の師弟コンビ相手に、マードックとアドニスはプロレス、タッグマッチのお手本のような素晴らしい試合を見せました。ラスト、大逆転の卍固めで猪木&藤波組が有終の美を飾り、首の皮一枚、新日本の牙城を守りました。試合後の表彰式で、敗れたマードックとアドニスが並んで悔しそうな顔をしていたのが忘れられません。

 

リング外の事件、ゴタゴタ続きだった新日本プロレスが久々に見せた、一服の清涼剤のような「名勝負」でした。

 


 

古きよきアメリカン、クラシカルなプロレスラーの見本のようなディック マードック。

スピーディで飛び回る現代のプロレスを見慣れている世代に、ぜひ一度味わってもらいたい、味のあるプロレスラーでした。

合掌。

 

 

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コメント

  1. ハチ より:

    幼少期にテレビで見たケツペロンを思い出し「ディック・マードック 藤波辰爾」で検索して辿り着きました。内容、ボリュームともに素晴らしい記事!大変勉強になりました。楽しい時間をありがとうございました。

    • MIYA TERU より:

      ハチさん、ありがとうございます!
      なぜだか、「ディックマードック」記事は検索数もアクセス数もすごく多いんです。
      マーおじさんがいまだに記憶に残っている人って、多いんだなぁと嬉しくなります。
      今後も宜しくお願いします!

  2. W・D・ウエイト より:

    御返信ありがとうございます。
    「ナメたことしたら殺すよ?」「金払えばヘンなことはしない」笑いました。これに尽きますね。
    あとは少々の惚けた雰囲気(必要です!)
    私にとっての東三四郎海外版は断トツでおじさんです。

    日本人ではいたのかい?と
    MIYA TERUさんのホッジUFC最強論!は
    別版でまたお話せて頂けましたら嬉しいです。

    • MIYA TERU より:

      W・D・ウエイトさん、ありがとうございます!マーおじさんのようなタイプはほんとにプロレスが天職といいますか、逆に言えばああいうヒトのためにあるジャンル、とも言える気がします。チャンピオンベルトを巻いて分刻みのスケジュールでサーキットするなんてまっぴらゴメン、その日その日にいい仕事してウマイ酒が飲めたら最高、って雰囲気が全身からにじみ出てましたよね(笑)

  3. W・D・ウエイト より:

    初めまして楽しい記事ありがとうござます。
    25年前、‘腕自慢世界一、喧嘩世界一と
    自分で思うなら誰でもいらっしゃい’くらいの
    情報しかなかったUFCに彼がもし行っていたら。
    彼が20代の全盛期だったら。
    決勝の相手がゴルドーではなく彼だったら。
    ホイス一人勝ちの初期アルティメットトーナメントを観ながら、いつもそんな妄想に耽っていたことを思い出しました。昭和40年代ってそんなことを思わせてくれるレスラーが何人もいたなぁ~と・・
    マードック!中でも相当に上位です。

    • MIYA TERU より:

      W・D・ウエイトさん、こちらこそありがとうございます!
      マーおじさんのケンカの強さは”ナチュラル”でしたよね。オクタゴンじゃなくて酒場だったら・・・レイスかマーおじさんが”最強”でしょうね。
      私はUFCだったら、ダニーホッジが最強だったと思います。

  4. ズンとねる より:

    私は、キン肉マン経由でファンになったので、カーフを見たときは、あ!テリーマンの技だ!と感動しました。 マードックの技なんですがね。86年はエース級の活躍ですが、前後のホーガン、ブロディー、ベイダーと比べると一枚落ちるかなと。個人的に。

    • MIYA TERU より:

      そうなんですよ、マーおじさんは決してエース級ではないんですよね。でもワキ役としてはキャラ濃いし、会場人気は高いし、なにより試合がいつでも誰とでも面白いんです。立ち位置も存在も貴重な「プロ」でした。本人いたってテキトーなんですけどね(笑)

  5. 太陽型ヘルメット より:

    あはは、いいね。
    プロレステーマ曲について対談でもしますか(笑)

    • MIYA TERU より:

      ぜひやりましょう!テーマ曲は「入手困難楽曲」とかテーマ絞らないとボリュームがすごそうです。

  6. 太陽型ヘルメット より:

    マーおじさん、ステキね。
    藤波とのケツ出し合戦は秀逸だったねー(笑)
    このテーマ曲ってオリジナル?
    オレの持ってる音源と違うんだよね。
    昔から運動会で合いそうな曲と思ってたけどさ(笑)

    • MIYA TERU より:

      乙です!マーおじさん、いいよね。。。こんな味のあるプロレスするレスラー、ほんと絶滅してしまったよね。。。
      テーマ曲、マーチングバンドの楽曲なので山ほどバリエーションがあるらしいです。コレがオリジナルかどうかは。。。なんか酒場でビール呑んで大騒ぎしてるみたいな陽気なカンジで、マーおじさんにピッタリだよね!
      そうそう、テーマ曲についてはそのうちまとめたいのですが、あまりに膨大なのでどうするか。このブログで対談でもしませんか?(笑)

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