「格闘技世界一決定戦」⑤〜1976 vs アクラム ペールワン戦 伝説の腕折りマッチ、アントニオ猪木と2人のペールワン

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アントニオ猪木「格闘技世界一決定戦」シリーズ第③回は、アリ戦と並ぶ伝説の試合。

 

パキスタンで行われた、アクラムペールワンとの、伝説の死闘です。

 

 

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⑤1976(昭和51)年12月12日 カラチ ナショナル スタジアム 格闘技世界一決定戦 〇アントニオ猪木(3R 01分5秒 ドクターストップ)アクラム ペールワン●

 

 

猪木vsペールワン

未知の国、パキスタンからのオファー

 

アリ戦で名を馳せた猪木には、世界中からオファーが相次ぎ…中でもパキスタンのシンド州政府が、酷評ばかりのアリ戦に対して「素晴らしい試合」と絶賛。

 

国賓待遇での招待と、自国の強豪との対決をオファーして来ました。

 

出典:https://www.jica.go.jp/aboutoda/2014_Pakistan_Bangladesh/pakistan_vol1/page3.html

 

パキスタンは今でもですが、当時はさらに情報も少なく、情勢も不明な土地。

 

周囲が「あまりに危険」と猛反対するのを押し切って敵地に乗り込んだ猪木は、後にその理由を「あまりにも熱心で。ギャラは安かったけど、アリ戦を評価してくれた事が嬉しかった」と語っています。

 

猪木がパキスタンを訪れると、国を挙げての一大イベントで、前宣伝も行き届いており猪木はどこへ行っても人だかりになる、もの凄い人気ぶり。

 

当日は大統領も観戦するビッグマッチとなります。

 

 

対戦相手はインド レスリングの猛者、グレート ガマの血筋を引くと言われるレスリング一族”ボロ ブラザーズ”5男で、地元パキスタンの英雄、アクラム ペールワン。

 

そして、猪木は試合直前に「ガチンコでやるからね」と言われてしまいます。

 

イスラム圏でモハメド アリは英雄です。そのアリと引き分けた猪木に勝てば、自分たちの名声は世界中に轟く。アクラム側の狙いは最初からそれでした。

 

エキシビションのつもりで来日したアリにガチンコを要求して、ルール問題で大揉めに揉めた猪木が、今度は逆の立場でガチンコを受けざるを得ない状況に追い込まれる。まさに因果は巡る糸車。

 

マネージャーの新間寿氏曰く「猪木はその申し出を受けると、着ていたガウンを脱いで、藤原!来い!とその場でスパーリングを開始。しばらくして藤原を制すると、汗を拭い、再びガウンを着て、そして私の方を向いてニコリと笑って“じゃあ新間、行ってくるよ”と控え室を後にした…」(「リングの目撃者」都市と生活社)

 

どうですかこのくだり、カッコ良すぎます。

 

一方、ミスター高橋本では、試合後に新間氏に「こんな試合やらせやがって!」とキレた、と書かれてます。私はピーターの言うことは信用できません。新間さんもか(笑)。

 

ワンカメしかないテレビ朝日の映像は記録映画のようです。当時のパキスタンはあまりに遠く、テレビ朝日はカメラ1台持って行くのがやっとでした。

 

 

アクラムはアンコ型のインド レスリングの猛者、という風情。足腰は強烈に強そうですが、サブミッションなどのテクニックはなく、猪木は組み合うや否や、実力を見切った様子です。

 

リアルファイト、真剣勝負に挑む猪木の表情は実に冷静で、いつもと変わったところはありません。それぐらい、当時の猪木は己の実力に自信があったということなのでしょう。

 

しかし、砂の浮いた屋外のリングで、アクラムはオイルを全身に塗りまくっていて、さらには完璧に関節技が極まってもギブアップしない、レフリーも見て見ぬフリ、という劣悪な展開に。

 

業を煮やした猪木は、裏ワザで目ん玉に指を突っ込んでコントロールして(猪木は相手に噛みつかれますが)、最後は脚をフックして下からの腕絡み(キムラ ロック)を完璧に極めます。

 

それでもギブアップしないアクラム、折るぞ!と威嚇する猪木…結局、猪木は思い切り締め上げて、肩関節を破壊!壮絶なドクターストップ、KO勝ち。

 

猪木vsアクラムペールワン

 

試合後、セコンドに向かって静かに「折ったぞ!」と宣言するのがかえって不穏です。

▲有名な「折ったぞ!」のシーン

 

場所は数万人の群衆が詰めかけた、敵国のナショナル スタジアム。警備の兵士はライフルや機関銃で武装中。

 

そんな中で現地の英雄の腕をへし折ってただでは済みません。

 

事実、イギリス人のレフリーがナイフで刺されます。

 

しかし、不穏な空気の中、猪木がいつものように両手を広げて勝ち名乗りを上げると、アラーの神に祈りを捧げたと勘違いした群衆が静かになった…もはや神話のような逸話が語られています。

 

セコンドの藤原喜明は「あんときゃ死ぬかと思った。相手のホームリングで、しかも折るぞ、って宣言して人の腕ヘシ折れるのは猪木さんくらいのもの」とコメントしています。

 

猪木は試合後、控室でのコメントで「あそこまでやらなくてよかったかもしれないですけど、相手がギブアップしないから…まぁガキーっと締め上げたので、あれはもう、治らないでしょう」と爽やかにコメント!この時のコメント中の「ゴッチちょくでん」も含めて伝説です。

 

当初のオファーは2試合、でしたがそのまま次戦を行えば、今度はどんな目に遭うかわかりません。猪木は再戦を約束して、この1戦のみで帰国します。

 

 

「ペールワン」とは?

 

この一戦が伝説として語られる中で、「ペールワンとは現地の最強の称号であり、アクラムに勝った猪木がその称号を得た」と喧伝されて来ました。

 

どうやらそれは過大広告で、「ペールワン」は”最強”という意味ではないようです(単なる名前、プロレスラーという意味、など諸説アリ)。

 

 

アクラム ペールワン(Akram Pahalwan)とは何者なのか?

 

アクラム ペールワンは1930年生まれ。パキスタンで最も有名なレスリング一族「ボロ ブラザース(Bholu Brothers)」の一人。

 

猪木以前の著名な対戦相手はハジ アフザル(1963)、ジョージ ゴーディエンコ(1967)、アントン ヘーシンク(1968)などがいます。

 

アクラムはザ グレート ガマの弟子としてラホールでトレーニングを受け、1953年にプロ デビュー。東アフリカ ウガンダとケニアのレスラーを相手に戦い、1950年代に約280の主要なレスリング イベントに参加しました。

 

ナイロビのMahindar Singh、ウガンダチャンピオンIdi Aminを破り、「ライオン(The Lion)」というニックネームを得ます。また1958年にはシンガポールでハリラムを破り、マラヤ チャンピオンを宣言しました。

 

1960年代、アクラムは「ボロ ブラザース(Bholu Brothers)」レスリング チームの一員となり1965年、カラチ ナショナル スタジアムでインドのレスラー Hardam Singhを破りました。

 

1967年にはイギリスに遠征。「ボロ ブラザース(Bholu Brothers)」は1968/12 – Ring Wrestling: “Official World Ratings”で10位にレーティングされています。

 

この時、猪木がパキスタンに行かなければ日本人が知る由もなかった、欧米のプロレス史にも登場しない遠い異世界の英雄です。

 

グレート ガマはプロレスの歴史書に登場する伝説の強豪。ジョージ ゴーディエンコもシューターとして有名なレスラーです。

 

幻の仇討ちマッチ、ジュベール ペールワン戦

 

そしてその約束の再戦、が3年後の1979(昭和54)年6月17日、パキスタン ラホール市 カダフィスタジアムで行われたジュベール ペールワン戦です。

 

⑬1979(昭和54)年6月17日 パキスタン ラホール市 カダフィスタジアム 格闘技世界一決定戦 △アントニオ猪木(5R 引き分け)ジュベール ペールワン△

 

ジュベールはボロ・ブラザーズの4男アスラムの息子、アクラム・ペールワンの甥。「一族の仇打ち」の一戦です。

 

会場には4万人の観衆が詰めかけ、再び猪木にとっては完全アウェー。

 

この試合、猪木はヤバイことになれば殺されかねないため、最悪、負けてやるつもりでテレビ局もマスコミも一切同行させずに乗り込みました。

 

そのため、長く存在すら伏せられ、行われたどうかすら怪しい一戦だったのですが、数年前に突然、YouTubeに現地の中継映像がアップされ、騒然となりました。

 

モノクロ、画質は劣悪で音も途切れ途切れなのですが、それがリアルです。この試合、猪木は前回と違い、目ん玉に指突っ込むことも関節を極めることもなく、ただひたすらに相手の攻撃をいなし続けます。ジュベールは体格も大きく、若さもありますが猪木を極める技術はありません。

 

結局、10分5ラウンドを戦って引き分け。

 

猪木は延長を望むジュベールの手を上げてやり「オマエの勝ちでいいよ」と伝えます。

 

猪木は最初から、勝つつもりはなかったのでしょう。リング上はセコンド勢が「猪木に勝った!」と狂喜乱舞。

 

しかし、公式な裁定では「引き分け」とされました。

 

▼幻の試合映像

 

 

 

その後の猪木とパキスタン

 

息子がなんとか仇打ちしたとはいえ、あくまで引き分けただけ。

 

アクラムがなすすべなく猪木に完敗したショックの方が残り、パキスタンでのレスリング興行はすっかり廃れてしまいました。

 

アクラムは1987年に亡くなり、一時はこの戦いで失明したとか、ノイローゼで自殺した、などと囁かれました(事実は病死だったようですが)。

 

一方で、この一連の試合は現地では歴史的戦いとして語り継がれ、後年、猪木はニューヨークでタクシーの運転手から「自分はパキスタン人だ。貴方の試合は教科書で読んだ」と言われて驚いた、と話しています。

 

その後も猪木はたびたび、パキスタン政府の招きで遠征を行い、現地では英雄、国賓扱い。

 

アリ戦とこのペールワン戦が、イスラム圏での猪木の知名度に繋がり、後に、湾岸戦争のイラクでの邦人人質解放に貢献するのでした。

 

そして時は流れて2012年。猪木はパキスタン ペシャワールのカイユースタジアムで「対テロ組織平和祈念プロレス興行」を開催して2万5千人を動員。

 

現地政府から「猪木記念日」の制定を贈られています。

>海外Webでの報道

 

猪木はアクラムの墓参をした際に、ジュペールの甥にあたるハルーン アビッドから弟子入りを希望され、来日や留学の面倒を見ていたことが、知られています。

 

2014年、アビッドが東京の日体荏原高に入学した際には入学式にも出席。

 

 

 

 

「日本の総理大臣は誰も知らないが、パキスタン人は猪木さんの名前は誰でも知っている」と言われ、2022年10月1日、アントニオ猪木さんが亡くなった際には「パキスタン人のSNSは猪木さんの話で持ちきり。パキスタンのメディアもずっと猪木さんのことを報道していた」。

 

パキスタン首相シャバズ・シャリフ氏もTwitterで「伝説の日本人レスラー、アントニオ猪木氏の訃報を知り、悲しい。 10年前、ラホールのスタジアムで彼に会ったときのことを鮮明に覚えています。彼は類まれなレスリングの腕前で、全世代を魅了しました。彼のご家族と日本人に、お悔やみ申し上げます」と哀悼を捧げました。

 

次回、異種格闘技世界一決定戦その⑥へ続きます!

 

 

アントニオ猪木「格闘技戦世界一決定戦シリーズ」

 

①1976 アントニオ猪木vsルスカ、アリ、アンドレ、ペールワン

 

②1976 アントニオ猪木vsモハメド アリ【前編】知られざる前夜祭での“衝突” 〜 猪木の「勝った方がギャラ総取り」発言に込められた怒りとは?

 

③1976 アントニオ猪木vsモハメド アリ【中編】20世紀最大のスーパーファイト

 

④1976 アントニオ猪木vsモハメド アリ【後編】世界中からのバッシング、その大きすぎる代償

 

⑤1976 vs アクラム ペールワン戦 伝説の腕折りマッチ、アントニオ猪木と2人のペールワン

 

⑥1977-78 アントニオ猪木vsモンスターマン、ウェップナー、ミルデンバーガー

 

⑦1979 アントニオ猪木vsミスターX、レフトフック ディトン、キム クロケイド

 

⑧1980 アントニオ猪木vs“熊殺し”極真カラテ ウィリー ウイリアムス

 

➈1984 アティサノエ、1986 スピンクス、1989 チョチョシビリ

 

 

コメント

  1. 田宮繁人 より:

    おはようございます。
    最近アクラム戦、ジュベール戦(ジュベールはアクラムの息子とありますが甥っ子では?!)をチェックしましたがアクラムの噛みつき&猪木の目突きは映像では
    確認出来ませんね。従ってどっちが先だったのか本当のところは謎ですが猪木のゴッチ直伝のほお骨や鼻と口の間の急所を攻めるゴリゴリにアクラムは相当まいってましたので苦し紛れに噛み付いたのでは? 
    いくら猪木がセメント要求されて頭に来てても自分から先に目突き流行らないと思うのですが・・・。
    ジュベール戦は通常のワークだったと思うのですが、この人は確か84年のパキスタン遠征でも猪木挑戦の為会場に来ましたね。結局試合は実現しませんでしたが、
    ピーターの著書を読むと猪木ージュベール戦が一度も実現していないかのようなニュアンスで書かれていました(苦笑)。
    いつかパキスタンに行きたいです・・・。

    • MIYA TERU より:

      ご指摘ありがとうございます。失礼しました、確かに甥ですね。訂正いたしました。
      アクラム戦の攻防、おそらくご指摘の通り 膠着した中で猪木の裏技(頬骨ゴリゴリ、鼻や口の急所攻め)→たまらずアクラムが噛みつき→猪木の目潰し という流れでしょうね。さすがの猪木さんも何もしない相手にいきなり目潰しはしないでしょう。
      とにかく、ピーター本は(悪意があるのと記憶が曖昧過ぎて)信用できないことだけは確かですね。新間さんは「高橋は大事な試合は裁いてないじゃないか」と言ってました(笑)。
      パキスタンという国、猪木ファンにとっては特別な場所ですね…。

      • 田宮繁人 より:

        おはようございます。
        個人的にはピーター本以上に、永島おやじの方が信用なりません(笑)。
        悪意は別に感じないのですが、とにかく記憶が曖昧&思い込みが激しいので
        あまりにツッコミどころ満載、仮にも元ジャーナリストなんだからもう少し・・・と思うのですが、最近はインタビュアーやライターも当時を知らない人が多いので、間違った話を鵜呑みにしてそのまま活字にしてあたかも事実のように広まってしまうのが嘆かわしい限りです・・・。

        • MIYA TERU より:

          コメントありがとうございます。永島のオヤジ!(笑)まったく同感です。あの御仁はすべてが自分の手柄と主張するので話半分以下に聞くようにしています。(笑)
          最近はYoutubeで往年のレスラーが続々と語り始め、いい時代になったもんだと思う反面、なんでもかんでも鵜呑みにしたらダメですよね・・・

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