「1.4事変」橋本真也vs小川直也 〜1999 東京ドーム ⑤橋本引退へ

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「1・4事変」小川vs橋本戦

その①「対戦までの経緯」
その②「衝撃の試合展開」
その③「当時の私感」
その④「試合後の舞台裏ドキュメント」

に続く⑤は、この試合が巻き起こした余波編です。

 

試合翌日から「橋本引退SP」までの流れを、時系列で追います。

 


 

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試合翌日から1999年9月まで

 

●1999年

 

1月5日
テレビ朝日六本木センター内の新日本オフィスに主力選手が招集、興業会議を開催
異例の「本日は報道関係者の入室禁止」の告知があり、3時間に及ぶロングラン会議に。会議後、詰めかけたマスコミに対して長州は「4月のドームが楽しみだよ」と一言。

 

橋本は未だ怒りさめやらず、傷だらけの顔と骨折した鼻を腫らしながら「(怪我は)どうってことない。(出場停止処分は)勝手にしろっていうか、会社に任せます。(4月のドームで再戦か?)俺はやられたら掛ける3でやり返す。それは俺の気持ちだけじゃどうにもならない。いろんな話がいっぱいあったけど…俺の気持ちが収まらないのはわかってもらったと思うし、会社も収まらないんじゃない。(試合後)長州力が出てきたときも俺はひきとめた。俺は俺で収集をつけるつもりだった」とコメント。

 

↑しかし実際は、会議の席上「今後一切、U.F.O.とは関わらない」との結論が出ていたと言われます。これは基本姿勢、決定事項ではありましたが、惨敗した橋本を出場停止処分を含めて今後どうするのか、さらには誰がこの結論を猪木に伝えるか(猪木はまだ新日のオーナーでもあり、一方的に通達では済まず、話し合いが必要になることは明らか)など、具体的な善後策がまったく立たないまま時間切れになった、というのが事実のようです。

 

●1月6日夕刻
アントニオ猪木、ロスの自宅に帰米のため成田空港で会見
小川と佐山が見送りに来る中、マスコミは当然、黒幕とされる猪木にインタビューするも、猪木は当初、ノラリクラリとかわすコメントを発するだけ。しかし、橋本が試合後に名指しで猪木批判をしたことについて話が及ぶと表情を一変、「どうでもいいんだって橋本ごときは!俺を許すも許さないも、小川をぶっ飛ばせばいいんだから。橋本ごときと(自分を)ケンカさせないでよ、もう。橋本の負けは負け。負け惜しみを言うなって。やればいいじゃん。誰だって上がれるよ、U.F.O.のリングは!」と厳しい表情でコメント。

 

小川は「(長州が)俺を張ったってことは、やる覚悟が出来てるってことだろ?まとめて掛かってこいよ、橋本、長州、それに村上にトドメ刺した奴も。佐々木健介あたりでもいいんじゃない」と相変わらず、強気に吠える姿勢を保ちました。

 

●1月7日 フライデーに「東スポが絶対書けない、小川vs橋本戦の真相」なる記事が掲載

試合写真と小川、佐山のインタビューにて見開きモノクロ2ページで構成され、

小川「新日がメンツが立たないと言っても、”約束破り”とか言うのは情けない。橋本選手はもちろん、長州力さんら新日上層部もああいう試合になることは承知していた。橋本がオイルを塗りたくって上がってきたのがその証拠」

 

佐山「そういう話(試合前の打ち合わせ)は新日側からあったが、小川は今回は受けなかった。橋本もその覚悟で上がってきた。いい覚悟だったと思う」

 

小川「試合前に猪木さんに”思いっきり暴れてこい”と言われた。だから入場のときにマイクで最後通告して(ガチンコの)了解をとっておかないと、と思って。これで橋本は3.14横浜アリーナに上がらざるを得ない。逃げたら新日ファンが怒る。俺はいつ、どこででも誰の挑戦でも受ける。面白くなってきた。ファンを喜ばせるのがプロ。誰がどう考えても次もそう(ガチンコに)なるでしょ。」

 

●1月11日
六本木のレストランで新日とマスコミの新年会開催
席上、坂口会長が正式に絶縁宣言。「U.F.O.とは絶縁します。向うの横浜アリーナ(3.14)に出ることもないし、次の東京ドーム(4.10)に向うが出ることもありません」。さらに非公式ながら「俺のプロレス人生において小川を誘ったことが最大の後悔」とも発言。

 

●1月14日
橋本が道場で週刊ゴング、GKこと金沢編集長の取材を受ける
橋本は道場に掲げていた創始者アントニオ猪木の写真、道場訓を外し、「これが選手みんなの気持ちだ、写真を撮ってくれ」と訴えます。

 

橋本は「今日の新日選手会の集まりでフライデーの記事が話題になった。それまで一部に”小川は何もわかってないから、なんとか助けてやれないか”という声もあったが、これで完全に消えた。あいつ自身がわかろうとしないと、そして佐山が付いている限りは無理だ。若い奴らの中で”俺が小川をやってやる!”という者もいたが、会社が交流しないと言っても俺は収まらない。ブッカーの長州さんが動くべき。俺と長州さんがケンカしてもしょうがない」と発言した上で、「アントニオ猪木はウチの株を手放せ、俺が買い取る」「アレを俺が反対にやったら怒るくせに、俺はハメられた」「あの人はいま、自分の立場がないからヤキモチを妬いているだけ。俺らがやることに何でも反対して、自分でできないから否定する」さらには「力道山が死んだから日本のプロレスは発展した。年寄りは退くべき。アントニオ猪木はもう…死んだ方がいい!」と発言。

 

この内容は擁護派のGKによって6ページに渡って構成され、巻頭ページに「アントニオ猪木よ、あなたは死ぬべきだ」という見出しと共に、掲載されました。さらにGK氏は巻頭記事ではフライデーの記事を取り上げ「ハッキリ言って小川は馬鹿である。周りの人間にいいように利用されているだけ。小川の発言は永久追放に値する。それでも新日本は闘うべきだ!?」との社説を展開。

 

↑この時、橋本はオフレコで「俺はあの日の夜も焼肉を食いに行った。平気だと思いたかったが、次の日、目が覚めたらブチ殺したい衝動に駆られた。家族がいなかったら何をしたかわかんない。でも俺はプロなんだから、と言い聞かせようとしたが週刊誌(フライデー)を読んで…。小川がバーリトゥードやアルティメットの世界に行くならいいけど、俺らと一緒の世界メシ食っていこうとしてるくせに、狡さが許せない。試合後に電話で謝ったくせに、佐山とあんな記事出しやがって!」と語っていたそうです。

 

●1月18日
新日オフィスで橋本が契約更改
2時間半の話し合いの末、保留。新日側から「出場停止処分は2月5・6日の札幌大会から解除」と告げられたが橋本本人がそれを保留。あくまで「小川に復讐したい」と主張、物別れに終わります。

 

●1月22日
新日オフィスで2度目の契約更改
11時過ぎから長州、藤波、武藤、蝶野、健介、越中、飯塚、山崎らが事務所入り。橋本は最後に11時35分に事務所入り。2時間に渡る主力選手の会議の末「U.F.O.との絶縁については会社に任せる」となり、再度「交流しない」と決定。橋本の契約は再び保留、2月のシリーズも全休、と発表。坂口社長と並んで会見した橋本は「他団体にも迷惑をかけて、ファンにも申し訳ない。少し時間を掛けさせてください」と苦渋の表情でコメント。橋本はこの会見後に姿を消し、2か所の鼻骨骨折の手術のため入院。3月シリーズも欠場となります。

 

↑他団体~の発言は、日本テレビ全日プロ中継内で、エースの三沢光晴が橋本-小川戦について「プロレスラーは強くなきゃいけない」と異例のコメントをしたことを指すもの。

 

●1月31日
ジャイアント馬場逝去
日本中に衝撃が走る。

 

●2月24日
猪木と坂口が都内で極秘会談
冒頭、猪木が1・4について「混乱させて申し訳ない」と詫びを入れ、坂口も態度を和らげるも、猪木から「いまの新日にはリアリティがない。大仁田を上げるのも問題」との発言も。結局、「交流には時間が必要。しばらく新日・U.F.O.はそれぞれ独自で活動していく」との結論となりました(これを機に猪木、佐山、小川からの新日、橋本に対する挑発発言がストップする)。

 

●3月2日
退院した橋本が新日オフィスを訪れ、倍賞、永島両取締役と会談
復帰の結論は出ず。
↑実は1月末までに、99年度の契約更改が完了していたことが後で判明しています。

 

●3月14日
U.F.O.横浜アリーナ大会(旗揚げ第3戦)
メインは小川がダン スバーンの持つNWA王座に挑戦、ベルト奪取。同大会打ち上げパーティーの席上、猪木と佐山が激しく口論するのが目撃される。さらに数日後、白金台のU.F.O.オフィスで佐山と小川が言い争いしていたとも。

 

●3月23日
4.10 新日 東京ドーム大会 カード発表
目玉は蝶野vs大仁田の電流爆破マッチ。2・24の猪木-坂口会談での雪解けと営業サイドからの強い意向で、長州は小川-橋本再戦を要望したとされますが、実現せず。

↑実は橋本本人は、一連の契約保留会談の最中から、復帰戦の舞台は小川戦・新日マットではなく、馬場逝去後の5・2全日・東京ドーム大会出場、相手は同じく復帰戦となる川田戦を希望していたらしいのです。あれだけの惨敗を喫して、団体の絶縁という意向に沿って我慢したのだから、またどうせならインパクトのあるド派手な復帰で、と考えるのは橋本らしいですね。

 

●3月25日
橋本が坂口社長と新日オフィスで会談
ここでようやく、橋本が復帰についての構想を口にした、との噂が流れ始める。

↑席上、橋本は坂口に全日ドーム出場の了承をもらい、長州は「ウチのドームに出ないくせに」と怒りますが最後は「勝手にしろ!」と容認。マスコミが橋本復帰構想について口を濁したのは水面下で全日ドーム登場交渉が続いていたからでしたが、結局は元子未亡人の「馬場さんの引退興行だから、純粋な全日の選手たちでやりたい」との意向で流れました。

 

●4月10日
新日東京ドーム大会。橋本は出場せず

 

●4月末
佐山のU.F.O.離脱が決定的となる
(前田日明率いるリングスとの交流を目論む団体側と佐山が衝突したと噂される)

 

●5月2日
全日東京ドーム大会。橋本は出場せず

 

●5月3日
新日福岡国際センター大会。橋本は出場せず

 

●6月8日
新日・武道館大会、橋本復帰戦
結局、橋本のカムバックは永島取締役が頭を下げて交渉した天龍戦に。橋本は118Kgまでウェートダウンするなどコンディション調整に努めたが、試合2日前のベンチプレス練習中に右肩を脱臼。テーピングを拒否して痛み止めを討って復帰戦に臨むも、天龍の喉へのチョップで轟沈。

 

↑この復帰戦の前、橋本は5年間務めた選手会長を辞任、平田に引継ぎしています。武道館の試合前に、越中に経費の不透明さを指摘され、あわや掴み合いの喧嘩になりかけました。この問題は後に長州の知るところとなり、会社として介入する姿勢をみせたが蝶野がそれを阻止。長州派の越中、健介が台頭する一方で復帰をめぐるゴタゴタの間に橋本に対する周囲の目は予想以上に厳しくなってきていたことを表すエピソードと言えます。

 

●6月24日
新日株主総会・役員会で坂口社長が会長に、藤波新社長、倍賞取締役専務就任を電撃発表
坂口は半年の任期途中で「後進に道を譲ることとした」と語りますが、佐山を失った猪木がオーナーとしての強権を発動、傀儡政権誕生であることは明らかであり、さっそく藤波新社長は
・コミッショナー制度の確立
・プロレスサミット開催、全日との交流
に加えて、
・U.F.O.との関係修復と橋本小川戦の実現
の3つを公約に掲げる、と発表。

 

↑ちなみに長州は満面の笑みで藤波新社長就任を祝福。誰もが思っていた「藤波傀儡政権、猪木の介入」と誌面に書いたゴング編集長・GK氏に対し「オマエがあんなこと書くとは思わなかったぞ!藤波さんが気の毒だろ!」と烈火の如く怒ったそうです。

 

とはいえ、藤波社長誕生により新日とU.F.O.交流再開は現実のものとなり、10・11東京ドーム大会での橋本-小川戦が実現することとなりました。

 


●1999年10月11日 新日東京ドーム、4度目の橋本vs小川戦

 

本来、メインであるはずの武藤vs中西のIWGP戦がセミに降格し、メインは小川の持つベルトに橋本が挑戦する「NWA王座戦」と決定。

 

レフェリーは藤波社長、立会人として両者をリングに呼び込んだのはアントニオ猪木。
小川は「ギャラクシー エキスプレス」、橋本は2年半ぶりに「闘魂伝承」ガウンでそれぞれ入場。

 

両者ともにオープンフィンガーグローブとマウスピースを付け、殴り合い、蹴り合いの末にSTO6連発と顔面キックで小川の激勝。

 

尚も立ち上がろうとする橋本を猪木は目に涙を浮かべ抱き留め、橋本はマイクで「猪木さん、ありがとうございましたー!」と絶叫。

 

ドーム観衆の大ブーイングの中、猪木は「プロレスを頼むぞ!1,2,3,ダー!」で強引に締める。
誰がどう見ても猪木ワールドの復権に、新日ファン(長州体制支持派)は拒否反応を示す。

 

●10月14日 橋本が藤波と共に会見を開く
10月シリーズを全休し、5度目の小川戦に向けて動くと発表。
「小川は強い。情けない」とコメント。

 

●10月20日 帰米する猪木が恒例の成田会見
「橋本にその気があるなら教えてもいい」と発言していた猪木(見送りは小川と村上)のもとに、橋本が駆けつけます。橋本は「オマエが言うように目が覚めたよ。ありがとう」と小川に声をかけ、猪木と握手。

↑今にして思えば、長州との相変わらずの対立により新日内でいよいよ立場を失っていった橋本が、猪木の術中に嵌まっていった形です。

 

長州はこの試合と試合後の橋本を猛然と批判し「あんなの大した試合じゃない!」と一喝した上で「小川にしても橋本にしても、トレーニングしない奴は認めない!」といつもの持論を展開しています。この頃から猪木の影響力が大きくなるにつれて長州のマッチメークをはじめとした権力が薄れていき始めます。

 

就任当初は 藤波の社長就任を喜んでいた長州(純粋に藤波に対する想いもあったが同時にカタブツの坂口より藤波の方が組しやすいことと、対猪木の緩衝剤としての役割を期待していたものと思われる)でしたが、藤波の予想以上の傀儡っぷりにより自身が蚊帳の外で進められる小川の重用に、フラストレーションを溜め込むことになります。

 


●2000年1月4日 1年ぶりの東京ドーム。橋本と小川がタッグ戦

橋本真也は飯塚孝之と組み、小川直也、村上一成組と遺恨タッグマッチで激突。

 

飯塚が村上に裸締めで勝利し、新日ファンは久々に溜飲を下げる。

↑長州は当然、このカードは面白くなかったでしょうが、そこは興業会社。
営業サイドとテレビ局側の意向は無視できません。

 

●2000年2月20日 新日両国大会
猪木が次なる仕掛け。橋本と小川をリングに呼び込み、4・7東京ドーム大会での一騎打ちが決定。
さらに3・11横浜アリーナで開催される「第2回メモリアル力道山」で両者のタッグ結成を電撃発表。

 

●2000年3月11日 横浜アリーナ「第2回メモリアル力道山」大会

この日のメインイベントは、小川直也&橋本真也vs天龍源一郎&B.B.ジョーンズ。

猪木に強引にタッグを組まされた遺恨の両者の同行に注目が集まる中、試合前に駐車場で村上が橋本を急襲。

その大流血のダメージが尾を引き、試合は橋本が敗北。

 

さっさと引き上げる小川に向かいマイクをつかんだ橋本は
「おがわぁああ、4月7日、引退を賭けてオマエとやるぞー!」
と絶叫。

 

●2000年4月7日 東京ドーム 「橋本真也34歳、小川直也に負けたら即引退SP!」

 

橋本真也vs小川直也の5度目の一騎打ちが「橋本真也34歳、小川直也に負けたら即引退SP!」と銘打たれて行われる。

 

一進一退の攻防の末、12分過ぎにSTOを狙う小川を橋本がDDTで切り返すが、そのはずみで小川が右肩を脱臼。しかし直後の橋本のエルボードロップと腕ひしぎで偶然にも脱臼した右肩が元に戻る。

 

結局、小川のSTOの連発で立てなくなった橋本が
「ダメだ、ダメだ・・・」
と呟きながら撃沈。実況の辻アナも号泣。

 

引退を賭けて負けるはずがない、とタカをくくっていたプロレスファン&マスコミを愕然とさせる。

 

この試合はテレビ朝日で「橋本真也34歳、小川直也に負けたら即引退SP!」と銘打ち、8年3か月ぶりのゴールデン放送(19時54分~21時48分)。平均15.7%、瞬間最高は24%(橋本のKO負けのシーン)の高視聴率を叩き出します。

 

橋本は試合後、「約束通り引退する」と発言し、消息を絶ちました。

 

次回⑥はお待たせしました、「1・4事変」総括です。

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