「UWF」とは何だったのか?~①佐山引退から復活・第一次UWF

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『1984年のUWF』(著者:柳澤健/文藝春秋)が発売され、再び注目が集まったUWF。

 

しかしながらこの本、筆者の「前田嫌い」が濃すぎて、いささか違和感を感じまくりというのが、リアルタイム世代である私の正直な感想です。

 

UWFは確かに佐山が構築した理論であり、前田にいろいろと問題アリ、なのは事実ではありますが・・・

 

当時のファンが「こう感じていた」と書かれた部分は「えー・・・」なところがいくつもありましたし、明らかな(故意の?)ミスリード、伝聞、一方的な記述だらけ、でこれをもって「真実」とは思ってほしくないのです。

 

そこで今回から、地方在住の一プロレスファン(当時中~高校生)が見たUWFについて、まとめていこうと思います。

 

 

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佐山タイガー引退

 

熱狂的にプロレスにハマっていた私にとって、1983年、中1の夏の「初代タイガー突然の引退」は、6.2猪木失神を遥かに上回る、まさにメガトン級の衝撃でした。

 

 

その後、佐山は当時の人気番組「欽どこ」に出演(おそらく新日辞める前に出演契約をしていたんでしょうね)、自らあっさりマスクを脱ぎ素顔を晒します。

 

これにはビックリしました・・・

 

新聞のテレビ欄に「タイガーマスク」と書かれていてもホントに出るのか?と半信半疑なくらい、当時の佐山は消息不明とされていましたので。

 

番組中、今後について佐山は新しい虎のマスクを見せて「このマスクはプロテクターになっていて、今後はこれで…」という感じで話していました。

 

 

この当時のプロレス雑誌(私が読んでたのは月刊の別冊ゴング、週刊プロレス)の最大のトピックは「佐山は次にどこのリングに上がるのか」でした。「格闘技をやる、プロレスは引退」とは言われつつも、WWFらしい、全日らしい、といったプロレス界復帰の噂も流れていました。

 

私としては佐山タイガーが見られるならどこでもいい、とにかくプロレスやってくれ、いう心境。

 

そんな中、UWFというのは・・・なんだか実態がよくわからない、が正直なところでした。

 

当時の「UWF」とは、クーデターの煽りで追放された新日プロ営業本部長、”過激な仕掛人”新間寿氏が鳴り物入りで旗揚げしたものの、結局は前田をエースに擁する弱小団体、中身はラッシャーや剛などの寄せ集めであり、所詮はモノクロ写真のマイナー団体、でした。

 

1984年4月の大宮スポーツセンターでの旗揚げ戦、その後の蔵前興行はそこそこ話題になりましたが、いかんせん前田以外にまるで見るべきところもありません。

 

当時は設立の背景もクーデターの詳細もまるで理解してませんでしたし、テレビ中継もなしですから、地方在住のプロレスファンからしたら、正直そんなものです。

 

>UWF設立~旗揚げの経緯は、YouTube番組
で詳しく掘り下げています。

 

 

●無限大記念日

 

しかし、そのUWFに、タイガージムを旗揚げした佐山と山崎が合流、「ザ・タイガー」として復帰する、となり、さらには藤原、高田も合流して、潮目が一気に変わりました。

 

それが、1984年7月23日・24日に後楽園ホールで行われた「無限大記念日」興行です。

 

 

この2DAYSも当然、テレビ中継はなく、東スポや週刊プロレスなどのみが情報源でした。

 

しかしそれでも「ザ・タイガー」のド派手な金と赤のニューコスチュームに魅了されて、いよいよもって新時代の幕開け、的なワクワクが止まりませんでした。

 

この後、(第一次)UWFの陣容が固まっていきます。

 

佐山タイガー復活、若手のホープ前田と高田、山崎がいて、ベテランの藤原と木戸が合流。そしてカールゴッチ・・・

 

今にして思えばここにアントニオ猪木がいたら「真・新日プロ」なのですが、当時はとにかく、佐山タイガーの復活がUWFのすべてでした。

 

そのくらい、当時の佐山タイガーの存在は大きかったのです。

 

実力No. 1決定戦

 

さらに翌年の1984(昭和59)年、私が中2の9月「UWF実力No. 1決定戦」は燃えました。

 

佐山は「スーパータイガー」と改名してコスチュームも紫色、試合内容もさらにキック、サブミッション主体で飛び技は控え、格闘技要素を強めた新しいファイトスタイルを確立しつつ、藤原と前田を倒してNo. 1の称号を得ます。

 

当然この興行も地方民からしたら観られないワケですが、連日九スポやニッカンで速報を見て、その後に週プロやゴングでグラビアを眺めていました。

 

中学校の技術の授業で本棚作りがあり、側面にスーパータイガーが木戸にチキンウイングフェースロックを極めている姿+「UWF」と刻むくらいにハマっていました。(笑)

 

「ケーフェイ」と「シューティング」

 

そんな佐山の暴露本「ケーフェイ」を読んだのもこの頃です。

確かに内容は衝撃的、ではありました。

 

なにせ素性の怪しい「事情通」などではなく、超人気レスラーかつ子供達のスーパーアイドルだった元タイガーマスク佐山の本で、「プロレスはシューティングとは違う」「プロレス技は相手の協力がないとかからない」とあり、その中にブレーンバスターやバックドロップと並んで「卍固め」とか書いてあるわけです。

 

私は猪木に対するリスペクトはどこいったのか、という嫌悪感は感じましたが、特段、プロレスについて裏切られた、もう嫌い、などとはまるで感じませんでした。

 

この本に書かれている指摘はいずれも、それ以前からプロレスを観ていたら薄々感じていたものでしたし「やっぱりそうなのね」的な感想でした。

 

しかしそこはかとなく「これホントに佐山が書いたの?」という底意地の悪い、面白がって暴露したいだけ、という悪意を感じたのも確か。

 

それでもこの本では「新日の道場ではシューティングの練習をしているのに、試合でそれは出せない」といった表現で、悪いのはいまの興行システムであり、プロレスラーに対する幻想はかろうじて保ってはいた気がしました。

 

当時の私は、この本が出たこととUWFがやろうとしていることで「従来のプロレス界のインチキや、子供騙しの演出がなくなり、オトナの鑑賞にたえる競技になり、世間からの色メガネがなくなるのではないか」という期待値の方が、優っていた気がします。

 

それより私が夢中で読んだのは「スーパータイガー シューティング」という本です。

 

この本にはゴッチ式関節技や打撃についての理論が書かれていて、夢中で習得して毎日教室で(笑)試していました。

 

 

博多スターレーン

 

私がはじめてUWFを生観戦したのも、この頃です。

 

記憶が定かではないのですが、この84年の秋から冬にかけて、博多スターレーンで行われた興行です。

 

記録によればこのあたりでラッシャーと剛が離脱、とありますがまるで記憶にありません。

 

覚えているのは初めて観たマッハ隼人と、スーパータイガーはガイジンとシングルマッチをした事くらいです。(記録だとスティファンピットパス戦、1984年10月10日?)

 

初めて生で観るスーパータイガーは、アイ・オブ・ザ・タイガーで入場し(この曲はケリー・フォン・エリックのイメージが強いんですが)、シルバーにパープルの模様のブルゾンを着て、耳の下のタテガミが少なくなり、タイツがパープルのラメで妙に艶めかしかったです。

 

試合はそれなりに蹴りや関節は見せましたが予想外に普通のプロレスで、フィニッシュはなんとトップロープからのダイビングヘッドバット・・・からのチキンウイング・フェイスロック。

 

私は「地方だとガチガチのシューティングはまだ受け入れられないと思って、ファンサービスのつもりで飛んでるんだな」と理解はしましたが、もっとガチガチな試合を期待していたので正直、残念な気がしてなりませんでした。

 

当時の福岡でのプロレス興行は、新日プロは九電記念体育館から福岡スポーツセンター、全日プロは大相撲も行われる国際センターが定番。

 

それに比べて「ボーリング場」である博多スターレーンは、天井はトップロープで手を伸ばしたら届くくらいに低く、テレビ興行もないため薄暗いため、どうしようもない「場末なマイナー感」が否めませんでした。

 

その薄暗く沈んだ地下プロレス的な雰囲気が、当時のUWFの急進的な姿勢にマッチしていたところもありましたが。

 

 

第一次UWFの終焉

 

その後UWFはたびたび経営難が囁かれ、後にトラブルとなる豊田商事のスポンサード、「海外UWF」への改名騒動などが起こります。

 

数少ない記憶ではテレビ東京「世界のプロレス」枠で中継された山口大会の模様が、なぜか単発でTBS系のRKB毎日放送で深夜にオンエアされ、それをVHSで録画して何度も擦り切れるまで観ていたくらいのものです。

 

そして起こった1985(昭和60)年9月の大阪臨海スポーツセンターでの佐山と前田の確執からの佐山離脱。

 

佐山の離脱で私のUWFへの興味は一気に薄れ、その後報じられた新日プロへのUターンの流れについては、「そりゃそうだろう、その方がいいよ」的な受け取り方でした。

 

次回、「新日プロUターン編」につづきます!

 


~「UWF」とは何だったのか?~

 

①佐山引退から第一次UWF
②新日プロUターン/前編
③新日プロUターン/後編
④新生UWF旗揚げ~崩壊
⑤UWFインターナショナル編
⑥藤原組、バトラーツ、パンクラス編
⑦リングス編

コメント

  1. 野呂一郎 より:

    https://twitter.com/ftnekoppaさまの記事経由できました。

    1984年の・・についての違和感、激しく同意です。
    博多スターレーンの描写は素晴らしく、そんなことがあったのかという
    驚きと興奮に打たれました。

    まだ全部拝読しておりませんが、MIYAさまのプロレス愛を感じ、
    ご著作に吸い込まれております。

  2. モリカラス より:

    旧UWF検索で来ました。
    「国際UWF」の箇所、正しくは「海外UWF」ですね。
    スーパータイガーが地方ではシューティングスタイル薄めでやっていたお話が良かったです。

    • MIYA TERU より:

      コメントありがとうございます!「海外UWF」、ご指摘ありがとうございました。訂正しました。

  3. 匿名希望 より:

    いつも有難うございます。よく楽しく閲覧しています。最初のUWFは下関に来ましたよ。私も当時門司の高校生でしたが、中高生だと下関・門司・小倉から博多・福岡方面(またその逆も)は大分遠く感じましたよね。あとタイガーマスクは梶原一騎の漫画通りの格好でないと見栄えが落ちる感じがしました。その後の三沢タイガーはつまらなかったので、佐山が好きなのは間違いないのですが。

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