昭和 新日本プロレスの「シリーズ」とは?〜1982 新春黄金、ビッグファイト、サマーファイト、ブラディファイト、闘魂、MSG シリーズ

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新日本プロレスが、2022年の創立60周年記念として往年のシリーズ名を復活(第一弾は「新春黄金シリーズ」)させると発表して、話題になっています。

 

そこで今回は、懐かしの昭和・新日本プロレスのシリーズ名特集として、IWGP前夜である1982(昭和57)年を例に、プレイバックしましょう。

 

 

まだ「IWGP」も「1.4東京ドーム」も「G1クライマックス」もない時代。この時代のベタなネーミングに郷愁をそそられます。ぜひ脳内でジェフ・ベックのスターサイクルを流しながらご覧ください!

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●新春黄金シリーズ (1月〜2月)

 

年明けは「新春黄金シリーズ」。

 

新春の日本列島に過激なプロレス絵巻が繰り広げられます!猪木&坂口組が“黄金コンビ”と呼ばれたことに由来しているのでしょうか、わかりやすくて縁起の良いネーミングです。

 

1982年は元日が金曜日ということで、新日プロは史上初の元日決戦を敢行!

 

後楽園ホールからタイガーマスクvsダイナマイト・キッド、ボブ・バックランドvs藤波辰巳、そしてアントニオ猪木vsローラン・ボックの豪華すぎる3大カードが組まれ、元日夜8時から全国のお茶の間に生中継。さらにはカール・ゴッチがエキシビションで藤原喜明にジャーマン スープレックスを炸裂させました。

 

新日プロ・ブームの過熱を予感させる、スペシャルな年明けとなりました。

 

●第5回 MSGシリーズ(3月)

 

春の本場所、シングルリーグ戦がこの「MSG(マジソン スクェア ガーデン)シリーズ」

3月6日には大田区体育館で旗揚げ記念興行が行われるのも恒例です。

 

この年、猪木は膝を負傷し決勝を棄権。アンドレ・ザ・ジャイアントvsキラー・カーンの優勝戦となり、アンドレ初優勝となりました。

 

●ビッグファイト シリーズ(4〜5月)

 

桜の季節、開花宣言と共に日本を縦断するのが「ビッグファイト シリーズ 」

 

この年は猪木欠場となりましたが、ブラックタイガー初登場、タイガーマスクvsレス・ソントン戦でNWA Jr.初戴冠、さらには大阪でのvsブラックタイガー戦でWWFとNWAのJr.二冠王になるなど、タイガーマスク旋風で会場は超満員を連発。

 

藤波はvsブッチャーとの飛龍十番勝負などで盛り上げました。

 

●サマーファイト シリーズ(6〜7月)

 

灼熱の太陽が照り付ける、初夏に開催されるのが「サマーファイト シリーズ」。

 

アントニオ猪木は6月18日の蔵前大会で待望の復帰戦。タイガーマスクvsウルトラマン、藤波vsカネック、マードック(飛龍十番勝負)、アンドレvsホーガンなどが実現しました。

 

●サマーファイト シリーズ第2弾(7〜8月)

 

「サマーファイトシリーズ」は盛夏に第2弾が行われます。

 

再び猪木が欠場。当時は内蔵疾患と発表されましたが、実は重度の糖尿病でした。留守を預かる藤波はvsバックランド(飛龍十番勝負)、タイガーマスクはvsダイナマイト キッドと熱戦を繰り広げました。

 

●ブラディファイト シリーズ(9月)

 

秋は「ブラディ ファイト シリーズ」。流血必死の凶悪ガイジンが来日するシリーズでした。

 

この年は復帰した猪木がラッシャー木村とヘアバンドマッチ。敗れた木村が髪を切らず遁走した事で、大阪府立は暴動寸前となりました。藤波はニューヨークMSGでのジノ・ブリッド戦で、WWFインターヘビー級タイトルを初戴冠。

 

●闘魂シリーズ(10月)

 

10月は「闘魂シリーズ」。

 

10月8日、後楽園ホールで伝説の長州「かませ犬反乱」が起こります。

 

ほかにも蔵前国技館での猪木vs国際の1対3 ハンディキャップ マッチ、タイガーマスクは小林邦昭との抗争がスタート。大騒乱のシリーズとなりました。

●第3回 MSGタッグリーグ戦 (11〜12月)

 

 

そして年末の掉尾を飾るのは「MSGタッグリーグ戦」。

ニューヨークWWFからガイジンレスラーが大挙来襲し、華やかに師走の日本列島を彩ります。

 

この年、アントニオ猪木は新星ハルク・ホーガンとタッグ結成、見事初優勝となりました。
→詳しくはこちら

 

「シリーズ」とは?

 

日本のプロレスは4〜6週間程度の地方サーキット(巡業)を繰り返し、年間の興行スケジュールを構成します。2週間 会場固定で行われる大相撲と違うのは、毎日、全国各地の違う体育館を巡る、という点です。

 

「開幕戦」から「最終戦」までの単位を「シリーズ」と呼びます。

 

「シリーズ」は通常の地方興行の中に、中核都市など大きな会場で行われる「TV中継あり」興行があり、「最終戦」は蔵前国技館や大阪府立体育会館など大会場で行われ「ビッグマッチ」と呼ばれます。

 

たまに最終戦後に「追撃戦」が行われたり、シリーズではなく単発でビッグマッチが組まれる事も稀にあります。

 

 

日本におけるシリーズの原点は、力道山が企画した1959(昭和34)年 日本プロレスの「第1回ワールドリーグ戦」であると言われています。それ以前の日本プロレスは単発の興行を(時に連続して)行っていたそうです。

 

 

 

 

「興行」とは?

 

シリーズ中の一つ一つの会場での大会が「興行」です。

 

プロレス興行は大きく、「手打ち」と「売り」に分かれます。

 

「手打ち」と呼ばれる自主興行。東京などチケット売上が大きく見込める会場では、団体自らが会場手配、チケット、パンフレット印刷から販売、選手の交通宿泊費などすべてを負担し、チケット売上(上がり)イコール団体の利益、となる仕組みです。

 

「売り」興行はプロモーターと言われる各地域の興行主に「ひと興行いくら」で興行権を売り渡す方式です。この場合、興行にかかるさまざまな経費はプロモーターが負担します。団体側は入場数に関わらず一定の利益が見込めますが、経費とプロモーターの利益を差し引いた契約金額ですので、手打ちに比べると儲けは少なくなります。

 

70-80年代、まだ新日本プロレス、全日本プロレス、国際プロレス、そして全日本女子プロレスの4団体しかない時代でも、年間の興行数は800は下らなかったと言われます。そして、そのうちの7〜8割は「売り」興行。それでも各興行で(大小の差はあれど)儲けが出ていて、商売として成り立っていたのでしょう。

 

ケガしても休めないのが「プロ」レスラー

 

かつては地方に何人か非常に有力なプロモーターがいて、「地方なのになんか豪華なカードだな」という場合は大概、そんな有力プロモーターの興行だったりしました。また、団体ごとに妙に強い地域と弱い地域がありました。これはプロモーターとの結びつきや、チケットを売る営業ルートの差によるものです。

 

また、そういった有力プロモーター興行では目玉の人気選手は多少負傷していても出場しないと顔を潰すことになってしまいます。年間に100を超える(昭和の時代は200を超える)試合に出続けるを続ける上で、ケガしても休めない。

 

これこそがプロレスのシンドく、ツライところなのです。

 

エース ガイジン

 

昭和のプロレスは、日本人vsガイジンが基本。日本人だけで興行が打てるようになったのは、80年代中盤に長州力ら「維新軍」が結成されてくらいからです。

 

そのため、シリーズはまず、シリーズの目玉、主役のエース ガイジンを誰にするか、というところから検討されます。

 

来日可能なガイジンは数あれど、地方でも顔と名前が売れていて、「チケット買って観に行こう」となるスター選手はごくわずか。当然そのスター選手は海外マットでも引く手数多ですから、都合の良い時に来日してくれるとは限りません。

 

さらには試合カードを組む上でそれ以外の脇役レスラーもたくさん必要で、マンネリ化しないためには、新たなスターも生み出さないとなりません。

 

 

フロントの強さが団体の存亡を握る

 

ガイジンのブッキング、「興行ルート」の組み立てと、会場や宿泊先などの各種手配、リングは自前なので運搬して組み立てもあり、そしてなによりチケットの営業。細かな仕事が山のようにあります。

 

プロレス団体はそういった裏方(英語ではフロントという真逆の呼び方なのが面白いですね)がきちんと機能しなければ、あっという間に潰れてしまうのです。

 

 

ファンのお楽しみ、次期シリーズ紹介

 

昭和 全日本プロレスの「次期シリーズ紹介」は坂本龍一率いるカクトウギセッションの「カクトウギのテーマ」、コモドアーズの「マシンガン」などが有名です。海外遠征シリーズではディスコ調の「スターウォーズのテーマ」なんかもありました。

 

昭和 新日本プロレスの「次期シリーズ紹介」はジェフ ベックのスターサイクル。古舘アナの名調子で大人気でした(このビデオでは保坂アナです)。

 

昭和のプロレスにはロマンがありましたね。

コメント

  1. ズンとねる より:

    小学生の頃、10年後は、新日なら飛龍シリーズ、全日ならジャンボシリーズになるんだなと、スムーズに世代交代してると思っていました!

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