“東洋の神秘“ザ・グレート・カブキ~1964-2017 毒霧&ペイント!昭和の全日本プロレスで大ブーム

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今回は1980年代、昭和のプロレスで初代タイガーマスクと並ぶブームを巻き起こした”東洋の神秘” ザ・グレート・カブキ を取り上げます。

 

 

カブキは話題性や人気で新日本プロレスの後塵を拝することの多かった当時の全日本プロレスで、興行やTV視聴率に大きく貢献。一般世間も巻き込むほどのブームを巻き起こしました。

 

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カブキ日本初上陸

 

1988(昭和58)年2月。全日本プロレスの「エキサイトシリーズ」に、“東洋の神秘“ザ・グレート・カブキが初登場しました。

 

 

ザンバラの長髪にクマ取りメイク、鎖帷子や鎧兜、般若の面などのおどろおどろしい見た目、ヌンチャクや毒霧などのド派手なパフォーマンスはプロレスファンのみならずお茶の間の一般層の度肝を抜き、カブキは普段はプロレスを扱わないマスコミにまで数多く取り上げられる「ブーム」を巻き起こしました。

 

 

今のプロレスでは珍しくない「顔面ペイント」や「毒霧」ギミックは、この時カブキで「初めて見た」人がほとんど。事実上“オリジナル“と言って過言ではないと思います。

 

 

 

カブキの“正体”-高千穂明久のキャリア

 

カブキこと高千穂明久は1964年、日本プロレスでデビュー。小柄で地味ではありましたが、堅実な試合ぶりで評価される、期待の若手レスラーでした。

 

1970(昭和45)年、高千穂は待望のアメリカ遠征へ出発。すると日本プロレスではアントニオ猪木が「会社乗っ取りを企てた」として追放される事件が勃発。ほどなくしてジャイアント馬場も退団するという“大激震“に見舞われます。

 

両エースのBI砲を失った日本プロレスの芳の里社長は、海外遠征中の高千穂に帰国を要請。帰国後はUN王者にもなり、大木金太郎、坂口征二らと共に、日本プロレスを支えます。

 

しかし、その坂口征二も日プロを離れ新日本プロレス・アントニオ猪木と合体することになり、遂に日本プロレスは崩壊。

 

高千穂は大木金太郎、上田馬之助、グレート小鹿らと共に、ジャイアント馬場の全日本プロレスに合流することになりました。

 

全日本プロレスに合流

 

全日本プロレス入りした高千穂は、中堅でサムソン・クツワダと組んでオーストラリアに遠征し、帰国するとアジアタッグ王者にもなるなど、日本プロレス合流組のいわゆる“外様“の中では、かなりよい扱いを受けているように見えました。

 

しかし本人的には不満だったようで、「若手のコーチ役を担っているのに、馬場さんは1試合あたりのギャラを100円しか上乗せしてくれなかった」と漏らしています。

 

1972(昭和47)年、クツワダがジャンボ鶴田を巻き込み「クーデター(新団体旗揚げ構想)事件」を起こし、マット界から追放。高千穂は直接関係ないものの、人間関係などのゴタゴタに嫌気がさし、アメリカでの活動を希望します。

 

すると馬場は「若手のコーチ役でもあるし、そういうわけにはいかん」と難色を示します。馬場はギャラこそ上げないものの、高千穂の試合運びや受け身のうまさなどを評価していました。

 

しかしアメリカ行きの決意が固い高千穂は「フロリダからオファーが来ている」と粘り強く交渉し、ついに馬場も渋々了承。「1年間だけ」の約束でしたが、高千穂本人は「行ってしまえばこっちのもの。戻る気はさらさらなかった」と語っています。

 

 

アメリカマットでの活動

 

1978(昭和53)年、高千穂が向かったフロリダは、元NWA世界ヘビー級王者のジャック・ブリスコやダスティ・ローデスなどがトップを張る、NWAの中でも指折りの「黄金テリトリー」。

 

高千穂はヒールとして活躍していたマサ斎藤とコンビを結成し、斎藤の後輩であるタイガー服部をマネージャーにして活動します。

 

 

2人はフロリダ・マットの大プロモーターであるエディ・グラハムの求める「しっかりとしたレスリングができる選手」として、高い評価を受けていきました。

 

その後、斎藤はAWAにテリトリーを移しタッグは解消となりますが、2人は1979(昭和54)年「8.26夢のオールスター戦」には揃って帰国し、タイガー戸口とトリオを結成。ジャンボ鶴田、藤波辰巳、ミルマスカラス のアイドルトリオと6人タッグで対戦しました。

 

 

その前後に高千穂は、テキサス州アマリロ、カンザスを渡り歩き、グリーンカード(永住権)も取得。

 

そして高千穂はカンザスでタッグを組んだブルーザー・ブロディを通じてゲーリー・ハートからのオファーを受け、テキサス州ダラスに移ります。

 

カブキ誕生

 

このゲーリーハートとの出会いが、カブキ誕生のきっかけとなりました。

 

1980年末、高千穂はゲーリーから連獅子姿をした歌舞伎役者の写真を見せられ「こういうマスクマンにならないか?」とオファーを受けます。高千穂が「歌舞伎は覆面ではなく、ペイントだ」と説明すると、ゲーリーは「だったらペイントしてくれ」。

 

ここから「ザ・グレート・カブキ」としてのキャラクターが作られていきます。忍者の鎖帷子などのコスチューム、ヌンチャク、日本刀などなど、とにかく思いつく限りのオリエンタルな要素をごちゃ混ぜにして、不気味な雰囲気を漂わせます。

 

 

そのトドメとなるのが、「毒霧」でした。高千穂は「試合後にシャワーを浴びているとき、口に含んだ水を天井に目がけて吹いたら虹がかかってさ。コレだ!と思った」。

 

怖いもの見たさで観客も増え、カブキは一躍、「客を呼べるスターレスラー」に。ダラスのプロモーターだったフリッツ・フォン・エリックからも絶大な信頼を寄せられるように。またダラスだけに留まらず、カンザス、ジョージアからもオファーがかかり、たちまち各エリアから引っ張りダコとなって行きました。

 

カブキとして日本逆上陸

 

そして1983(昭和58)年2月の「エキサイトシリーズ」。カブキはジャイアント馬場からの司令で、遂に日本へ逆上陸を果たします。

 

本人は素顔での帰国を希望しますが、あくまでも「全米で売れっ子のカブキとして」の帰国オファー。当時の全日本プロレスのブッカーは佐藤昭雄。ジャイアント馬場がハーリー・レイスに奪われたPWFヘビー級王座を奪還するため渡米、シリーズ全休する穴埋めの「目玉」として目をつけられたのです。

 

カブキ「初来日」第1戦は1993年2月11日、後楽園ホール。セミファイナルで中堅ガイジンレスラーのジム・ディランとのシングルマッチでした。

 

 

会場が暗転するや鼓の音色が鳴り響き、テーマ曲「ヤンキーステーション」に乗ってカブキが入場すると、超満員の館内は早くも大カブキ・コールに包まれます。

 

カブキは鎖帷子のコスチュームでヌンチャク・パフォーマンスを披露。そして試合開始のゴングが鳴ると、天井に向けて緑の毒霧を噴射。

 

試合はワンサイドで、カブキはアッパーカット、トラースキックからセカンドロープからの正拳突きで3カウントを奪い5分58秒で勝利。

 

この初来日シリーズでトップ外国人選手だったタイガー・ジェット・シンや元NWA世界ヘビー級王者トミー・リッチらと対戦。日本テレビ「全日本プロレス中継」でも毎週カブキの試合や特集映像がオンエアされ、猛プッシュを受けます。

 

 

来日前からプロレス誌で話題になっていたカブキは「東洋の神秘」としてのパフォーマンスが大きな話題を呼び、TV視聴率も全国の興行人気にも貢献。一躍超人気レスラーとなりました。

 

その人気ブリは、当初このシリーズ全休の予定だったジャイアント馬場が急遽帰国、因縁の上田馬之助と決着戦を行ったのは「カブキ人気に対する警戒心、ジェラシーだった」と言われる程でした。

 

 

フレアーとのNWA戦・”カブキ”ブームに

 

カブキはシリーズを終えると再びアメリカへ。その後も再三のオファーに応えて「来日」します。

 

カブキが日本に定着しなかったのは爆発的な人気にも関わらず、高千穂明久時代とギャラが変わらなかったから。ジャイアント馬場からすれば「カブキはあくまでも子飼いのレスラー」という認識でした。

 

そしてなんといってもこの時期のピークは、3度目の来日となる1983(昭和58)年12月12日、蔵前国技館で第64代NWA世界ヘビー級王者、リック・フレアーに挑戦した試合でしょう。「世界最強タッグ決定リーグ戦」シリーズ中でしたが、このカード目当てでチケットが飛ぶように売れて12,500人、超満員札止めに。

 

 

この試合は、ブッカーである佐藤昭雄から「アメリカでやってるカブキの試合スタイルを見せて欲しい」とリクエストされていたそうです。カブキの試合スタイルは大技はほとんどなく、立ち上がりはショルダークローなど地味な痛め技が続き、エキサイトしてくるとアッパーカット、そしてフィニッシュはトラースキックからロープを利した正拳突きというもの。

 

この試合もそうした攻防からフレアーがレフェリーを突き飛ばして反則負け。試合後もカブキはフレアーに毒霧を噴射して喝采を浴びました。

 

翌1984(昭和59)年に上田馬之助と対決した際には、上田がペイントして「テングー」に変身。上田は黄色い毒霧まで吹いて、ライバル心をむき出しにしました。

 

 

当時のカブキ人気は凄まじく、関連本が数多く出版され、一般向けの週刊誌や児童誌にまで登場。果ては試合実況とインタビューが収録されたLPレコードまで発売されました。

 

 

 

 

当時、初代タイガーマスクや維新軍団など「派手で話題性の多い」新日本プロレスに比べて、全日本プロレスは「オーソドックスで地味」なイメージ。かつて圧倒的な人気を誇ったミル・マスカラス とテリー・ファンクのフィーバーも沈静化し、新たなスターを求めていました。そのタイミングで日本に逆上陸したカブキは、全日本プロレスの観客動員でもTV視聴率でも貢献する“救世主“的存在でした。

 

 

残酷なシーンが話題を呼んだイタリアノドキュメント映画「カランバ」のキャンペーンキャラクターになったのが、妙に印象深いです。

 

「プロレススーパースター列伝」でのカブキ

 

カブキは当時、週刊少年サンデーに連載中だった超人気プロレス伝記マンガ「プロレススーパースター列伝」(原作:梶原一騎/作画:原田久仁信)にも9話に渡って登場。

 

 

”ザ・梶原ワールド”全開の本作では、他のレスラー以上にケレン味たっぷりの「誕生秘話」が”捏造”され、カブキ人気に拍車をかけました。

 

 

その後のカブキ

 

その後もカブキは日本とアメリカを股にかける売れっ子として活躍を続けますが、WWF全米侵攻作戦によってNWAの各テリトリーが崩壊して行くと、日本に定着。

 

 

天龍革命では天龍同盟と対峙する全日本プロレス本体側の中心メンバーとして、マイティ井上らと共にジャンボ鶴田、谷津嘉章らを支えるバイプレイヤーとして活躍します。

 

この時期のカブキは天龍らの手加減一切なしの激しい攻めに真っ向から立ち向かい、いざという時の底力を見せていました。

 

しかしその後、天龍がSWSに移籍するとカブキも追従。鶴田と世界タッグを獲得したばかりのカブキの全日本プロレス離脱は当時ショッキングでしたが、今にして思えばなるほどな、と感じますね。

 

 

SWSではブッカーに就任するも内部分裂で崩壊。

 

 

その後はWARを経て新日本プロレスで「平成維震軍」の中心メンバーとして活動。

 

 

1993年にはムタとの親子対決も実現し、額からの噴水のような大流血が大きな話題を呼びました。

 

1995年からは東京プロレスに主戦場を移し、1998年にIWA JAPANのリングで引退しました。

 

しかし4年後の2002年、新日本プロレスでアメリカで「カブキの息子」として一世を風靡したグレート・ムタのマネージャーとして活動中、骨折により欠場するムタの代役として復帰を余儀なくされます。

 

この復帰はかつてのフロリダ時代の盟友タイガー服部や、日本プロレス時代の先輩にあたる大会プロモーターの星野勘太郎に頼み込まれて断りきれず、「一夜限り」のハズでした。

 

しかしカブキ人気は高く、なし崩し的に本格復帰。

 

 

その後も各団体からのオファーに応じて現役を続行しますが、2017年に「完全引退」。

 

 

1964年のデビュー以来、50年もの長きに渡るレスラー生活に終止符を打ちました。

 

コメント

  1. 亜璃亜矢龍 より:

    当時、東海地方での全日本プロレス放送は日曜昼12時からでした。
    翌日、小銭を握り締め駄菓子屋で1個10円の粉ジュースメロン味を買占めたのは私だけではありませんでした。
    翌週?の清水大会・鶴見五郎戦では赤の毒霧…当然(笑)、翌日からは粉ジュースイチゴ味が完売しました。
    とにかく衝撃的な登場でしたが、当時の小学生の私としては今風で言う『完全な出オチ』であり、試合は退屈でしたな。
    その味が分かるまで25年も掛かりました。

  2. 雪月花 より:

    長年プロレスを観てきて…プロレスファンではない方からよく受ける質問が…毒霧ってどういうタネなの?という事なんです😅でも、それこそこっちが知りたいくらいなんですよね。カブキが元祖で、今も色んなレスラーに受け継がれている訳で、ある意味ノーベル賞ものの発明かなあとも感心してます

    • MIYA TERU より:

      コメントありがとうございます!確かに毒霧はなんとなく想像はできるものの、実際にやってみる(やってみたのかよ)とそう簡単ではないんですよね。あんなにきれいな発色にもならないですし・・・。

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