破壊王・橋本真也 最終章② ~ 2004-2005 ハッスル・スキャンダル・急逝

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前回の「破壊王・橋本真也 最終章①」の続き、完結編です。

 

橋本の最終章が実に混沌としてわかりにくいのが、ZERO-ONEとハッスルの並列進行にあります。

 

本場アメリカでWWFを観た私からすると、どうにもハッスルはショー、エンタメというにはあまりに低クオリティ。寒すぎる「悪ノリ」「悪ふざけ」としか感じられず否定派でしたので、余計に視界から消えてしまっていました。

 

いま振り返ってもこの「ハッスル」は、プロレスの悪いところだけを濃縮した、まったくもって評価に値しない、思い出したくも語りたくもない「黒歴史」と言わざるを得ません。

 

とはいえ、橋本の最終章を語る上で避けては通れませんので、「ハッスル」の2004年〜2010年の歴史にも触れておきます。

 

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「ハッスル」立ち上げの経緯

 

2002年、ボブ・サップのブレイクを背景にK-1と全日本プロレスが手を組んでプロレスイベント、「ファンタジーファイトWRESTLE-1」を開始。

 

当時はPRIDEの母体であるDSEが運営協力しており、同社の関連会社がアメリカの大物プロレスラー ビル・ゴールドバーグと7試合の契約を結んで、WRESTLE-1と全日本プロレスに参戦させていました。

 

ところが、2003年にK-1とPRIDEが仲違い。ゴールドバーグの契約が未消化で残ったため、かねてからプロレスイベント構想を「紙のプロレス」編集長 山口日昇氏と画策していたDSE代表 榊原信行氏が、同年6月頃から高田延彦、ZERO-ONEの小川直也、橋本真也、専務の中村祥之氏らの協力体制の下、「ハッスル」を立ち上げました。

 

 

「ハッスル1」 2004年1月4日 さいたまスーパーアリーナ
メインはビル・ゴールドバーグvs小川直也。毎年恒例の新日プロ東京ドーム大会と同日開催ということで、プロレス村の反発を買います。武藤・全日プロも協力、三冠ヘビー級選手権試合が行われていますが、格闘技色とオーソドックスなプロレススタイルが混在し、路線が迷走します。

 

その後、ZERO-ONEの崩壊により事実上の後継団体であるZERO1-MAXを運営するファースト・オン・ステージ (FOS)とDSEにより運営される形になります。

 

「ハッスル2」 2004年3月 横浜アリーナ
日本プロレス界壊滅を狙う強力な刺客たち=「高田モンスター軍」を次々と送り込むキャラとして高田総統が登場。それに対し、キャプテン・ハッスル(小川直也)、ハッスル・キング(橋本真也)、ハッスルK(川田利明)を中心とする「ハッスル軍」が登場、彼らが苦しみながらこれに立ち向かう、というストーリー基本路線が確立します。

 

さらにハッスル4以降、事前の記者会見等で抗争や因縁が勃発→ハッスル・ハウス(後楽園)で発展させる→ナンバーシリーズ(アリーナクラス)で決着、という構成が定着。橋本は、アフロヘアにエルビス プレスリー スタイルで登場。沢田研二「勝手にしやがれ」で入場するなどノリノリでした。

 

「ハッスル・マニア2005」 2005年11月3日 横浜アリーナ
狂言師の和泉元彌、タレントのレイザーラモンHGの参戦が話題を呼び、連日ワイドショーで取り上げられ一気にブレイク。満員の観衆を集めることに成功し、さらにはDSEとパチンコメーカーの京楽産業が業務提携。以後2009年7月までハッスルは京楽を冠スポンサーとして開催されます。

 

しかし橋本はこの大会を前に肩の治療のため戦線を離脱。表舞台から姿を消していました。

 

「ハッスル」の危機~終焉

 

2006年6月、フジテレビが「反社勢力とのつながり」を理由に、DSEとの契約を解除。「PRIDE消滅」の激震でハッスルも地上波放送中止となり、存亡の危機を迎えます。2006年6月17日、予定通り「ハッスル・エイド2006」(さいたまスーパーアリーナ)を強行するものの一時の勢いは削がれ、急速に萎んでいきます。

 

 

2007年4月、新たに運営会社として「ハッスルエンターテインメント株式会社」が設立。同社には出版社のエンターブレインが資本参加し、同月以降の大会はDSEに代わり同社が運営しますが、2009年秋から同社の資金難が表面化。2009年10月に行われた「ハッスル・ジハード2009」を最後に、興行休止状態に。

 

その後も残党が復興を目指し興行を継続しますが、2010年7月、ハッスルエンターテインメント社は休眠となりました。

 

破壊王・橋本真也 急逝

 

世間でハッスル・バブルがピークに達しようとしていたまさにその時、表舞台から姿を消していた橋本の、まさかのニュースが世間を震撼させました。

 

2005年7月11日。午前8時頃、橋本は脳幹出血で倒れ、午前10時36分、搬送先の病院で死亡が確認されました。

 

橋本真也、享年40歳。睡眠時無呼吸症候群も遠因であったと推測されています。

 

 

7月30日、青山葬儀場で行われた「故・橋本真也 プロレス界・プロレスファン合同葬」には、ファン8,000人が駆け付けました。新日本プロレス、全日本プロレス、ZERO-1 MAX、ハッスル、前田日明、田村潔司らが参列、発起人は小川直也、蝶野正洋、武藤敬司、大谷晋二郎の4人でした。

 

橋本の友人である高島宗一郎KBCアナウンサー(現:福岡市長)の涙声のコールに続き、出棺時には入場曲「爆勝宣言」が流され、参列者から投げられた数千本もの赤い紙テープと「ハシモト」コールの大声援に包まれて送り出され、遺体は久保山斎場で荼毘に付されました。戒名「天武真優居士(てんぶしんゆうこじ)」。

 

 

橋本の死後、明かされたスキャンダル

 

葬儀に夫人と息子らは参列していましたが、喪主は橋本の妹が務めました。

 

橋本急死のマスコミ報道には、不可思議な点がありました。「自宅で倒れた」と書かれているものもあれば「知人宅で倒れた」とされているものもあります。その後、「自宅」で「橋本の同居人が119番」という不自然な報じられ方をし始めます。

 

死の半月前の6月13日,橋本は映画「宇宙戦争」のワールドプレミアに姿を現していますが、一緒に写真に写っている女性は奥さんである和美さんとは明らかに別人です。

 

 

その後、橋本は2004年3月に離婚していたことが発覚。そして、彼が同伴していた女性は、冬木弘道の未亡人、薫さんでした。橋本が倒れたのは横浜市内の冬木香さんの自宅であり、橋本はこのところ和美夫人と別居し、薫さんと冬木の遺した2人の子供達と一緒に暮らしており、最期を看取ったのも薫さんだったのです。

 

 

橋本がリハビリ中の時期からこの噂はさまざまなネットの掲示板で囁かれており、ZERO-ONE勢との決別の裏にも、薫さんに熱を上げた橋本が社長業そっちのけで従業中でも東京にトンボ帰りしてしまうとか、薫さんを取締役に迎えようとしたなどの公私混同ぶりがあったようです。

 

冬木が亡くなる直前、橋本とは家族ぐるみで付き合う親友でした。冬木が直腸がんの手術後、復帰戦の相手として橋本さんを指名したときに知り合い、病床の冬木は子供が小さいこともあり「何かあったときは頼むな」と橋本に託していたと言われています。

 

冬木の告別式では、橋本が弔辞を捧げました。薫さんは冬木さんの死から1年あまり、主宰団体「冬木軍」を女手ひとつで取り仕切ります。橋本は何かと相談に乗り、興行にも参戦し続けました。その中で、2人の関係も親密になっていったようです。

 

薫さんは2004年4月、自身が代表取締役となり、橋本を取締役に据えてエステ関連会社を設立。この頃に橋本は離婚、薫さんに交際を求め、2005年6月には婚約をしていたとも言われます。

 

橋本に冬木の子供たちも懐いており、参観日や運動会にも顔を出していました。正式に離婚が成立し、橋本は薫さんと再婚する気でしたが、薫さんは「籍は入れない」と話していたとのこと。

 

離婚後、3人の子供は和美さんが引き取りましたが橋本は子供に会うため和美さん宅をたびたび訪問。長男・大地の小学校の卒業式にも父母で参加し、養育費も払っていました。

 

ZERO-ONEの負債と養育費で、橋本の借金は数億単位とも噂されていました。それでも右肩の大手術を終えカムバックを目指す橋本は、「もう一度リングに立てれば、数年で完済できる」と周囲に話していました。

 

しかし、もともと短絡的、直情径行な橋本は、新日プロから切られ、自ら起こした団体からも追われ、体調管理にも私生活にもブレーキがかからない状態になっていました。それでも、どうしようもなくダメな橋本を愛してくれる女性が少なくとも2人おり、その狭間で憤死という、ある意味で橋本らしい最期でした。

 

2011年、橋本の七周忌に、14年の結婚生活を送った和美さんが橋本真也の思い出を語った『火宅 プロレスラー・橋本真也の愛と性』を出版。もう一人の当事者、冬木薫さんも2006年に『橋本真也の遺言』という本を出版しています。

 

 

それらの書籍の中で語られる橋本真也は、激情型で我儘で、天真爛漫な豪快さと、繊細な寂しがりやが交錯する姿でした。

 

和美さんへのプロポーズの際、「もうちょっと冷静に考えたほうがいいんじゃないの?」と言う和美さんに対し、橋本は自分が吸っていたタバコを手の平で消して決意を示した。

 

1男2女、3人の子供の出産すべてに立ち会い、「先生、押さえてましょうか」と、両腕で大股開きしてサポート。こうして産まれてきた子供たちを橋本は愛したが、一方で自身の子供っぽさは改まらなかった。

 

幼少のころに家が貧しくおもちゃをあまり買ってもらえなかった橋本は、ひんぱんにウルトラマンなどのフィギュア、ソフビ人形などを購入して来た。プレゼントの包装がしてあるので長男の大地が自分に買ってきてくれたものだと思ってそれに触ると、血相を変えて怒った。後に子供用と自分用の2セットを買ってくるようになったというが、自宅にいる時は、毎日ウルトラマンで遊んでいたという。和美さんは「その時間は彼にとって大事な時間だと思っていた」と語っている。

 

そしてさらに問題なのが、橋本の無類の女好き。人気商売だから、と和美さんも割り切っていたが、どうしても許せないことが3回あった。最初は、長男の妊娠中。会話の中で「それは友だちに頼んだから」と言う橋本に思わず「それさ、友だちじゃないよね?あんたの女だよね?」と問いつめると、否定するどころか「そうだ」と認めた上で、「お前より理想の人に近い」って言い放ったという。2回目は車のトランクにラブレターの下書きを隠していたことから発覚。「いい加減にして!離婚する!」と怒る夫人に対し、橋本は土下座し、鼻水を垂らしながら謝った。しかしその3日後、「だいたいさぁ、人のクルマからそうやって手紙を持って来る、お前が悪いだろう!」と逆ギレ。夫人はニワトリ並みにすぐに忘れる橋本に驚愕したという。そして3回目が冬木薫との浮気。さすがの夫人も許せず、正式に離婚することになる。

 

冬木薫さんの書籍では、橋本が送ってきたメールまで掲載されている。「美しい物を見たり、美しい景色を見たりすると、薫が俺の中で強く生きていることを感じます」「薫がいなければ、これからの自分の人生は、薄暗い灰色の人生です」橋本が薫さんの理解を得ようと、車を運転しながらフロントガラスに頭を打ち付けたり、包丁で体を傷つけたエピソードなども綴られている。

 

冬木薫さんについて和美さんは「何度か薫ちゃんと話はしましたが、結局うちの子供たちから父親を奪った人なんで、当時は恨みつらみもありました。でも今の時点ではないです。逆にあんなわがままなヤツの面倒をみてもらって感謝しています。薫ちゃんも“手がかかる”って言ってましたね。一番好きな人に看取ってもらえて、それでよかったのかな。」と語っている。

 

薫さんによれば、橋本の最期の言葉はロレツの回らない口調で絞り出すように「俺、このまま死にたくないよ」だったという。

 

破壊王・橋本真也

 

橋本は若手時代から相手レスラーをぶっ壊す危なっかしいファイトをする男で、「破壊王」と呼ばれました。両親と縁が薄く、実質祖母に育てられ、家族や仲間の愛情に人一倍、飢えていました。

 

父親代わりの柔道の先生に鍛えられ、アントニオ猪木に憧れ、周囲を引っ張っていく強い男であろうとしました。

 

不器用でトンパチ、ええかっこしいだが間抜けで傍迷惑、精悍で凛々しい部分と、自堕落でいい加減な2面性を併せ持ち、だからこそ一般世間と隔絶したプロレス界で天下を獲る期待をかけられ、一時は新日本プロレスの「強さ」の象徴でした。

 

 

ファンはこうした橋本の良い面も悪い面も知った上で、プロレスラー・橋本真也を愛していました。

 

コメント

  1. ファイヤーキャット より:

    橋本がアフロヘアにエルビスプレスリー スタイル、「勝手にしやがれ」で入場したのはハッスル4です。
    そして橋本はハッスル・マニアには出てません。

  2. UGS より:

    MIYA TERUさんこんばんは。

    橋本真也が冬木薫未亡人と恋仲になっていると報道されて皆驚愕しておりましたが、私としては驚きも何もなく、「あぁ、やっぱりそうなったか」と起こるべき事が予想通り起きたと言う感じでした。

    何故かと言うと、私は2003年5/5の川崎球場WEW大会の映像を見たのですが、女子供相手にも容赦しなさそうなイメージのある橋本なのに、薫未亡人に対して非常に腰の低い態度になっていたのを見逃しませんでした。確かにご主人を亡くした直後とは言え、あんなに下から目線で相手を気遣う橋本の姿を見た事ありません。
    何故橋本がこんな態度を取っていたのか?もし自分が女性相手にそんな態度を取る場合に置き換えて考えてみると、やっぱり未亡人に気があるからでしょう。確かに美人でしたけどね。
    この時点ではまだ未亡人と橋本は交際までいってないです。つまり橋本は相談に乗ってるうちに突然どこかでスイッチが入ってしまったのではなく、初対面時からその容姿も相まって一目惚れみたいな感情が既に芽生え、以後下手下手に出ながら未亡人との距離を徐々に縮めていき、ついには一線を超えてしまい家族を捨ててまで未亡人に転がり込んでしまったんでしょう。

    橋本真也らしいと言えばらしいのですが、一方で冬木の弟子の金村キンタロー等は、未亡人の事をボスの奥さんと言うよりも既に「おかみさん」的な存在だったでしょうから、おかみさんが幸せになるなら…と交際を後押しした部分はあると思われます。
    それが良かったのかどうなのかは、その後の史実が答えになるのかもしれませんが。

  3. 雪月花 より:

    色んな意味で、橋本のようなタイプのレスラーはもう出てこないかもしれないですね…色々スキャンダラスなネタには事欠かないですが、それでも橋本の生前のファイトは今も色褪せないです。個人的には、最後は新日本に戻ってレスラー人生を終えて欲しかったとも思います

    • MIYA TERU より:

      コメントありがとうございます!ホントに橋本はいろんな意味で、「プロレスラーらしいプロレスラー」でした。橋本のプロレスには「喜怒哀楽」がすべて詰まってましたよね。
      歯車が狂いだした1・4事変、その前から長州と衝突していて後ろ盾を失っていたのが、致命傷だった気がします。

  4. j より:

    いつも楽しく拝見させていただいております。初めて拝見したのはYouTubeの猪木クーデター事件です。あまりにもお詳しいのではじめは新日本関係者かと思いました。

    ところで薫夫人については長年疑問に思うことがあります。
    たしか、冬木の前に離婚経験があり(これは確証なしです)、数年後結婚詐欺で逮捕されたはずです。結婚詐欺の相手は交際時に体調不良になっていたはずです。

    薫夫人のモテモテぶりにも驚愕しますが、相手の男性が連続で亡くなったり、体調不良になり、何かミステリー的なものを感じてしまうのはわたしだけでしょうか。気になります。

    • MIYA TERU より:

      コメントありがとうございます!冬木薫さん結婚詐欺で逮捕、というニュースはその後どうなったんでしょうね。
      当時「マスコミにも熱を上げている者が多くいて、その連中が橋本に嫉妬して取り上げなくなった」というウワサまであり、どんだけ魔性なんだ?と幻想が膨らみました。
      冬木・橋本と立て続けに急逝したのも病状からすると単なる偶然なのでしょうが、それにしても悲劇過ぎますよね。

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