稲妻戦士「木村健悟」③~昭和 新日本プロレス 藤波との抗争/伝説のワンマッチ興行

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令和の時代にキムケンを語る!シリーズ最終回の今回は、「永遠のライバル」藤波辰爾との抗争をメインにお送りします。

 

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藤波とのタッグで初代IWGPタッグ王者に

 

1984(昭和59)年、長州らがジャパンプロレスを結成して全日本プロレスに転進した「大量離脱事件」を経て、1985(昭和60)年5月24日にキムケンは、藤波辰巳とのタッグチームでディック・マードック&アドリアン・アドニス組を破り、WWFインターナショナル・タッグ王座を獲得(WWFと新日本プロレスとの提携解消に伴い、10月31日付で返上)

 

 

同年末の「IWGPタッグリーグ」では12月12日、宮城県スポーツセンターでアントニオ猪木&坂口征二組と優勝決定戦を戦い、藤波&木村組が勝利してIWGPタッグ王座の初代王者チームに輝きます。

 

 

藤波がドラゴンスープレックスで猪木から初のピンフォール勝ちを奪うというフィニッシュは、この日の舞台裏に起きていた”ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組のボイコット事件”を払しょくするインパクトを残しましたが、試合後のインタビューで藤波が心底喜びを爆発させ「やったー!」と絶叫したのに対し、続いてマイクを向けられた木村は「やったー!(棒)」と丸パクリで絶叫。

 

TVの前で「キムケン、そういうとこやぞ・・・」とツッコミを入れたファンは、私だけではなかったと思います。

 

唐突な藤波との遺恨抗争、後楽園で伝説の”ワンマッチ興行”

 

1986(昭和61)年、キムケンは突如、パートナーの藤波に牙をむき、遺恨抗争が勃発。しかし、その流れはあまりに唐突でした。

 

ことの発端は、同年10月9日に開催された「INOKI闘魂LIVE」の3日前に行われた公開スパーリング。海外武者修行中の武藤敬司の凱旋帰国日程が遅れたことによるカード変更を受けて、木村が藤波への挑戦を表明。しかし、9月23日にIWGPタッグ王座を二人で奪回したばかりであり「時期尚早」と藤波が対戦を拒否します。

 

翌シリーズでも木村は対戦を執拗にアピール。前田日明が闘魂LIVEのドン・中矢・ニールセン戦のダメージからシリーズを全戦欠場となり、11月3日に予定されていたIWGPタッグ防衛戦(藤波&木村vs前田&藤原)が流れたことから、藤波も対戦を受諾します。しかし、10月27日の奈良大会で藤波が負傷し欠場したため、またもや対戦が流れてしまいます。

 

ちなみにこの時の代替カードが、猪木が武藤を鉄拳制裁で血だるまにした”あの”アントニオ猪木&ケビン・フォン・エリックvs木村&武藤戦です。

 

そして同年末のジャパン・カップ争奪タッグリーグ戦。「日本人に限りファン投票選出によるタッグチームがエントリーする」という試みがなされ、IWGPタッグ王者コンビの藤波&木村組が解体、藤波は武藤と、木村はジョージ高野と組んで出場しました。そしてリーグ戦中の大阪城ホール大会で「スペシャルシングルマッチ」が組まれ、ついに藤波と木村の一騎打ちが行われます。しかし特に見所のない試合展開に終始し、藤波が回転エビ固めで勝利。特段、遺恨が残るものではありませんでした。

 

当時のファンの注目は、なんといっても猪木VS前田。この年末のリーグ戦決勝ではなかなか実現しなかった猪木と前田の絡みが実現し、前田の猪木への挑発は一層苛烈なものになり、暴発寸前でした。

 

しかし明けて1987(昭和62)年頭の新春シリーズ開幕戦、注目の前田は前座で中堅外人キューバン・アサシンとのシングルマッチ。そしてメインで組まれたのが、藤波辰巳と木村健吾のシングルマッチでした。

 

この試合で木村は稲妻レッグラリアートで藤波をフォール。しかし試合後に藤波のアピールで「木村の脛のサポーターに鉄製の凶器が仕込まれていた」と発覚し、場内は騒然となります。

 

納得いかない藤波のアピールにより翌日の大会でも再びメインで両者が一騎打ち。しかしまたしても不透明決着(藤波の反則負け)となり、「完全決着」を銘打ち、異例の”ワンマッチ興行”が行われることとなりました。

 

1987(昭和62)年1月14日、後楽園ホール。試合は藤波辰巳vs木村健吾の1試合のみ。チケットは全席2,000円均一で当日券だけの販売とあって会場には長蛇の列ができ、2,200人の超満員札止め。外には入りきれなかったファンが500人以上溢れていたとされます。

 

裁くレフェリーは自ら志願したとされる上田馬之助。入場テーマ曲もなく、リングは通常よりも固くセッティングされ、異様な緊張感に包まれました。

 

 

当然、いつになく気迫を漲らせて試合に挑んだ木村ですが、試合前にレフェリーの上田から握手を要請され、しぶしぶながら応じるあたりがいつものキムケン…。

 

試合はパンチや若手時代からの数少ないフィニッシュホールドであるドリル・ア・ホール・パイルドライバーで攻勢を仕掛ける木村をしのいだ藤波が、バックドロップからの逆片エビ固めでギブアップ勝ち。試合後、藤波は「勝ったからと素直に喜べない」と複雑な心境を語りました。

 

キックボクシング修行、異種格闘技戦

 

藤波に敗れた木村は再生を期して渡米。ベニー・ユキーデのジム「ジェット・センター」で修行を積んで帰国。

 

そして1987(昭和62)年3月26日、大阪城ホールで行われた「INOKI闘魂LIVE Part2」(あの海賊亡霊で暴動の伝説の興行です)のなんとセミファイナルで、ケニー・ウィルソンという大型のマーシャルアーツ選手との異種格闘技戦に挑みます。

 

「打撃の特訓を積んできた」ハズのキムケンは、ケニーの打撃ラッシュを浴びまくりあわやKO寸前。一瞬のスキを突いて背後に回りバックドロップを放ち、立ち上がったところにパンチ1発、逆転KO勝ち!・・・とはなりましたが…。

 

それまでのイメージを一新するどころかファンの支持も得られず、いつの間にか元のスタイルに戻り、藤波との抗争もうやむやのまま終了となりました。この異種格闘技戦も誰も覚えてないでしょうね。

 

誰が見てもこの藤波との抗争劇は、「前田と猪木の一騎打ちを待望するファンの視線を逸らそう」というヨコシマな動機で、会社の意向で「やらされた」感が見え見えでした。それでもこのきっかけを活かして本物のドラマにできれば・・・なのですが、それができないのが、やっぱりキムケンなのです。

 

その後の世代闘争、ナウリーダーvsニューリーダー抗争でも、その下の武藤の方が脚光を浴び、キムケンの存在感は終始「空気」でした。

 

東京ドームでジャンボ鶴田と対戦

 

1988年からリングネームの表記を木村健吾から木村健悟に改名。

 

1990(平成2)年2月10日、東京ドームで行われた「スーパーファイトin闘強導夢」では木戸修と組んで、ジャンボ鶴田&谷津嘉章と対戦します。

 

 

突如実現した全日本プロレスとの禁断の対抗戦でしたが、もう1試合の長州力&ジョージ高野vs天龍源一郎、タイガーマスク(三沢光晴)のバチバチに比べると、こちらは安心して観ていられる大人な試合。それこそがキムケンの役割なのですが。

 

>この大会の詳細はコチラ

 

反選手会同盟、平成維震軍~引退

 

1992(平成4)年には越中詩郎、小林邦昭らと反選手会同盟(のちの平成維震軍)を結成し、副将格として活躍。決起の際に「全員スキンヘッド」の約束が、キムケンだけ「中途半端なスポーツ刈り」だったのは、いまだにネタにされています。

 

 

 

中でも天龍率いるWARとの対抗戦ではベテランらしい存在感を示し、1993(平成5)年2月には天龍源一郎との一騎打ちも行いました。

こちらは後楽園ホールで行われた天龍&北原vs越中&木村戦。いま改めて観ると観客のヒートぶりが異常ですね。

 

 

 

その平成維震軍も1999(平成11)年に解散。そして2003年4月18日、後楽園ホールでの西村修とのシングル戦を最後に、プロレスラー・木村健悟は、現役を引退しました。

引退後は新日本プロレスのスカウト部長、テレビ解説も行なっていましたが、006年3月27日付で自主退社。2006年4月に坂口征二の紹介で株式会社円天興行の代表取締役社長に就任するも、親会社のエル・アンド・ジーが「マルチまがいの詐欺商法」として多数の事件で摘発される事態に。新日本プロレスへの影響が心配されましたが、キムケンは2007年9月に社長職を辞して、辛くも難を逃れた模様です。

 

そして2011年4月24日、第17回統一地方選挙にて実施された東京都品川区議会議員選挙に出馬し、初当選。現在も議員として活動中です。

 

木村健悟とは?

 

という訳で3回にわたり、キムケンこと木村健悟のレスラー人生を振り返ってみました。

 

WARを背負ってキムケンと対戦した天龍源一郎は「木村の顔を見ただけで、コノ野郎!と。長年新日本を支えていたので、背負っているものがデカイ」「アイツ、俺とやるときは(稲妻を)キッチリ首に入れてくるんだよ」「木村健悟ほどのレスラーが、あの位置でくすぶってる新日本の層の厚さがうらやましい」

 

長州は「木村強いよ。木村が本気出してたら、アイツだって天下獲ってたよ」

 

などなど、その実力を評価する声がある一方、元付け人でもある武藤敬司は「木村さんのポジションが羨ましかった。だってラクそうじゃん」

 

この評価の振り幅が、まんまキムケン、という感じがします。

 

このほかにも暗黒期の新日本プロレスで社長を務めた草野氏が「会場でマジメにチケットを売ってお客さんに挨拶してたのは木村選手だけ」と言っていたのを聞いたことがあります。多くの関係者が「木村健悟はマジメ、優しい」とも語っていて「他人を押し退けてまで前に出ることをしない」性格は、リング上からも垣間見えます。

 

試合スタイルも新日本には珍しい相手の技を受けるタイプで、キムケンはほぼすべての試合でほとんど大技を使わず、フィニッシュで自分が勝つムーブを取りません。さらには相手の技を食らうと長々とぶっ倒れたままで、相手を引き立てることに非常に長けていました(演技なのか本気なのかわからないレベル)。

 

さらには猪木、坂口への忠誠はある意味で藤波以上ですから、団体からするとこんなに使い勝手の良い選手はいなかったでしょうね。

 

それにしても、「猪木ソックリ」の恵まれた体格を持ちながら試合運びに難があり、やられっぷりがあまりにも弱々しい。タッグ戦では「延々攻撃を受けてグロッキー状態になり、相手の隙を見計らって四つん這いで猛烈なスピードで自軍コーナーに逃げ帰る」など無様過ぎるため、「ストロングスタイル」な新日ファンからは嘲笑の対象になることもしばしば。

 

それでいて「ルチャなんて軽々しいのはプロレスとは認めない」とか「黒いタイツに黒いシューズがプロレスラー、胴着なんか着たくない」などの頑固な一面を見せたり、国際プロレスやWARとの対抗戦で「ごくたまに」意外な強さを見せたりすることもあるので、余計に訳が分からなくなります。

 

「弱いだろ」と言われると「”あの”昭和新日で生き残っただけで強いわ」と言い返したくなる半面、「木村健悟は実は強い!」と言われると誰もが思わず笑ってしまう、キムケンはそんな存在なのです。

 

 

最後はやっぱり、キムケンが永遠のライバル・藤波に「あれは歌ではない。ただの雑音だ。逆立ちして歌っても俺の方が上手い」と言い放ったこの曲を聴きながらお別れしましょう。ごきげんよう、さようなら!

 

 

コメント

  1. ススム より:

    はじめまして、以前から拝読させていただいております。
    私自身も昭和時代のプロレスや洋楽の思い出などがテーマのブログをやっていて(ほとんど更新しておりませんがw)、記事を書く際に検索する中でこちらのブログを知りました。
    こちらの記事にもある「やったー!」は、私も忘れられません。
    藤波のドラゴンスープレックスで見事なフォール勝ちを収め(猪木フォールとも呼べるクイックカウントでしたが)、テレビの前で立ち上がらずにいられない興奮が、この木村の一言で思わずつんのめったのを覚えています。
    藤波がIWGP王者だった時に、長州が猪木にフォール勝ちした挑戦者決定リーグ戦で全敗した時は、さすがにちょっと気の毒でした(笑)
    また新日を生観戦した際に入場口で観客に「らしくもないぜ」のシングル盤が配られていて、会場内の机には配りきれないほどのレコードが山のように積み上げられていたのも懐かしい思い出です。
    今後もブログや動画の更新を楽しみに拝見させていただきます。

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