1984 新日本プロレス「大量離脱事件」〜ジャパンプロレスとは何だったのか?

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今回は、新日プロ「クーデター事件」の翌84年に起こった「大量離脱事件」についてです。

事件ばっかりじゃないか!…って、そうなのです。昭和の猪木 新日プロはとにかく激震してないと新日じゃない、ってくらいに次から次に大事件が起こっていたのです。

そしてその離脱で誕生した長州力率いる「ジャパンプロレス」についてもご紹介します!

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83年夏のクーデター事件後、大塚直樹氏は当初の計画通り新日プロを退社し、年末に猪木から社名を譲り受けるカタチで 「新日本プロレス興行」を設立。その名の通り新日プロを中心に興行プロモートを手がけます。

 

しかし、もともと大塚氏の狙いはさまざまな興行、イベントをプロモートする事であり「純粋な興行会社として新日本と名称が入っていても他団体の興行でも請け負う」というスタンスでした。

 

一方、新日プロサイドはあくまで「暖簾分けした兄弟会社」という認識で、特に猪木との関係はクーデター事件以降、互いに微妙になっていました。

 


 

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◆8.26 2代目タイガーマスクデビュー!

 

そんな中、全日プロ、ジャイアント馬場が大塚氏と接触。

1984年6月、新日本プロレス興行は全日プロと業務提携を発表、提携第一弾として8月26日に行われる全日プロ 田園コロシアム大会を手がけることを発表します。

この大会の最大の目玉は「2代目タイガーマスク(三沢光晴)デビュー」でした。これは大塚氏がジャイアント馬場、梶原一騎氏、竹内宏介氏との四者会談をセットして実現させた企画です。

 

大塚氏は猪木にも「2代目タイガーマスクを作ってはどうか」と提案していたものの、猪木は乗り気ではなかったようです。梶原一騎氏との関係に懲りていた事に加え、佐山、新間氏なしでのタイガーマスクは考えられず、同じことをやるのを嫌う猪木としては当然でした。(かといってコブラはどうかと思いますが…笑)

 

しかし、ライバル団体の全日プロがやるとなると話は違います。大塚氏は新日サイドに呼ばれ話し合いを持ちますが交渉は決裂。大会2日前の8月24日、新日プロにテレ朝から出向していた永里専務から「全日プロ興行のプロモートをやめなければ、新日プロは貴社との提携を解除する」といった内容の契約解除通知書を突きつけられます。

 

大塚氏はこれに応じず、さらに馬場 全日プロとの連携を強化して予定通り、田園コロシアム大会をサポート、大成功に導きます。


 

◆新日プロ「大量離脱」壊滅作戦!

 

そして翌8月27日。大塚氏はアントニオ猪木と新日プロをマスコミを通じて猛批判&絶縁を宣言!

そして、全日プロと協力して選手引き抜き、新日プロ潰しを宣言し、両者は一触即発の状態になります。

 

新日プロは引き抜きが噂される選手達への慰留を続けますが9月21日、新日プロを退社した長州力、アニマル浜口、小林邦昭、谷津嘉章、フリーの寺西勇が、その3日後には栗栖正伸、永源遙、保永昇男、新倉史祐、仲野信市が合流。

最終的にはマサ斎藤、キラーカーンらを含め計13名の選手が集結。営業スタッフなど社員も含め、新日プロは「大量離脱」に見舞われました。

 

そして10月9日、大塚氏の新日プロ興行は長州の個人事務所「リキプロダクション」と合併する形でジャパンプロレスに改称。社長も長州力となり、晴れて長州力は団体を背負うことになりました。(経営の実権はスポンサーの竹田会長と、大塚氏が握り、実質長州は現場監督だったそうですが)

 

そして馬場全日プロと業務提携を結び、全日プロマットを主戦場として完全に猪木新日プロの敵対勢力となります。

 


 

◆猪木「大掃除」発言

 

これに対し新日プロ総帥、アントニオ猪木はTV中継で「暮れには一足早い大掃除ができた」とコメント。猪木一流の強がり、痩せ我慢の美学なのですが、大塚氏はこの発言にも、猛然と噛み付きます。

 

「猪木さんは今回のことで 大掃除ができたと言ってるそうですが…我々を含めて選手たちをゴミと思っていたのでしょうか。ウチに来た選手は“武士の情”で何ら猪木さんや青山(新日プロの通称、事務所が青山にありました)への不満を口にしないのに、あまりにも一方的ですね。この1年間で36人もの人間がなぜやめたのか、その事実をどう考えているんでしょう。まあ、ウチもリングを買ったし、ウチのリングに出てくれるなら(猪木さんの)参加も考えましょう。とにかく新日プロが変わらなければ、今後も選手がどんどん辞めていくと思いますよ。

 

併せて「一方的な契約解除は営業妨害」として新日プロに対し、4億円の損害賠償を求めるなど、遺恨が深まります。

 


 

◆キッド、スミス電撃移籍!

 

11月、新日プロの年末「第4回MSGタッグリーグ戦」に出場するため来日したダイナマイト・キッド、デービーボーイ・スミスが、空港で待ち受けていたジャパンプロのスタッフと共に全日プロの定宿であるキャピタル東急ホテルに直行。なんと全日プロの「’84 世界最強タッグリーグ戦」に出場する事を記者会見で発表します。

これには当然、新日プロも黙っておらず会見会場に坂口副社長が契約書を持って現れ抗議し、その後もMSGタッグリーグ戦の立会い人として来日していたビンス・マクマホンjr.と共に馬場と会談を持つなどしますが、結果として2人の移籍を止める事はできませんでした。

ただし、テレ朝との契約問題がクリアされず、このチームの試合は日テレ「全日本プロレス中継」ではオンエアされませんでした。

これはジャパンプロレスは無関係で、WWFのルール無用の全米進行作戦に危機感を抱いたNWA(当時、馬場は副会長)による対抗策であった、と言われていますが、馬場・全日プロとして新日プロへの打撃を狙っての一矢であることは疑いようもありません。

 


 

◆全日プロ中継ゴールデンタイム復活!

 

翌1985年、スーパーストロングマシン、ヒロ斉藤、高野俊二もジャパンプロレスに合流。3人は独立ユニット、カルガリーハリケーンズとして活動します。

また、ロスアンジェルス オリンピック代表、専修大学で長州の後輩にあたるスーパールーキー、馳浩も獲得。この時期に佐々木健介も入門しています。

ジャパンプロ勢の拡大はそのまま全日プロの人気向上につながり、新日プロとのレスリングウォーは全日、ジャパン合同軍が圧倒します。長州は天龍、鶴田らと激闘を展開、全日プロマットは選手が多すぎて試合が組めない、という嬉しい悲鳴を上げます。

そして長くテレ朝「ワールドプロレスリング」に押されていた日テレはこの機を逃さず「全日本プロレス中継」のゴールデンタイム昇格を発表。土曜17:30からだった放送が、久々に19時からのゴールデン復活となりました。ちなみに…ゴールデン復活1発目の放送は、NWA(リック・フレアー)とAWA(リック・マーテル)のダブル世界戦という豪華なマッチメイクでした。

 


 

◆水面下でのTBS中継、独立計画

 

実はジャパンプロレスはこの時期、TBSでのレギュラー放送計画を水面下で進め、来るべき時期に全日プロからの独立を画策していました。

85年9月には芸能事務所とレギュラー放送における企画制作に関する契約を締結、実際に85年12月22日に「ザ・スペシャル」枠で「長州力特集」が放送されています。

その後の計画では大晦日、紅白の裏番組として「格闘技大戦争」特番をぶつけ、翌86年4月からレギュラー放送開始…としていましたが、TBS上層部に過去の国際プロレス「TWWAプロレス中継」打ち切り時のトラウマからプロレスに嫌悪感を持つ人が多く、失敗に終わります。

これに対し全日プロはジャパンプロへの放送権料引き上げ、加えて大会場での興行の約半数を全日・ジャパン合同主催にする、ジャパンプロ主催興行も認める、などの提携強化案を提示。ジャパンプロもそれに応じたため、ジャパンプロ所属選手は事実上、全日プロ所属となり、独立への道は絶たれました。

 


 

◆長州、新日プロUターン!

 

1986年10月「INOKI闘魂LIVE Part1」両国大会のリング上で代理人を通じて猪木へ長州力から花束が贈られ、騒然となります。

この時期、試合後のコメントなどで長州から新日プロについてのものが増え、復帰のウワサが立っていました。

 

そしてこの年末にケン・パテラの警官への暴行事件の巻き添えを食らって米国の刑務所に収監されていたマサ斎藤が出所。収監中に「またリングで戦おう」という励ましの手紙をくれたアントニオ猪木に感激したマサは猪木戦を熱望します。

 

87年1月、長州は日テレ「全日本プロレス中継」試合後の勝利者インタビューで唐突に藤波の名前を口にします。「まあ、ジャパンがこの世界で生きていくためには…ジャンボや天龍なり、藤波なりを、みんなで倒さなきゃならないから…まあ、一生懸命、頑張ります。」

 

すると今度はテレ朝「ワールドプロレスリング」で藤波がそれに呼応し「まぁ長州選手がそういう口火を切ってTVを通じてね、そういう風に自分の名前が出て、改めて今日僕はここで反対に長州選手にね、よし! やろう!っちゅう事で。また長州選手だけでなく、天龍、鶴田選手とか、またそれに関わってくるこれからの選手もね。そういう今まで一つの団体だけだったのがそういう団体の枠を取り払って、やっぱりプロレス界のためにね、やっぱりまたファンの夢をこれから応えなきゃいけないからね。…やります!」と宣言。

当時は、TV中継でライバル団体の選手の名前を出すだけで、大事件だったのです。

 

週刊ゴングは鶴田、藤波、長州、天龍ニューリーダー4人の頭文字をとって「鶴藤長天」キャンペーンを張り、「今こそ団体の垣根を超えた交流を!」と盛り上げます。

 

しかし、長州は2月からの全日プロ「エキサイトシリーズ」の欠場を発表。手首の負傷がその理由でしたが、「ガングリオン(悪性結節腫)」という聞きなれない病名と共に、「新日復帰を目論んだ仮病では?」との憶測を呼びます。

 

そして3月に大阪で開催される「INOKI闘魂LIVE Part2」猪木の対戦相手にマサ斎藤が正式決定。馬場、大塚氏は「本人の意思を尊重した1試合のみの特例措置」として渋々認めるカタチでした。

 

3月23日、長州は池尻の事務所で記者会見し「次の全日のシリーズに所属全員で全戦出場した後、ジャパンプロレスとして独立」と発言。水面下では「3月いっぱいで切れる全日プロとの契約を更新していない」とする長州と「まだ契約は残っている」とする馬場の間で大揉めになっていました。

 

そんな中、長州はマサ斎藤の代理人としてINOKI闘魂LIVE前夜祭レセプション会場に姿を見せ、猪木、藤波とガッチリ握手。

そして翌3月26日、大阪城ホールでの猪木vsマサ斎藤戦の観客席に現れた長州、小林邦昭らは、セコンドに馳を送り込み、試合後にフェンスを挟んで藤波ら新日プロ勢と睨み合い。新日プロ復帰を既成事実として満天下のファンに示します。

その2日後、ジャパンプロは記者会見を開き、竹田会長と大塚直樹副会長が長州の追放を宣言。その席上、大塚氏は1月8日の川崎大会終了後大塚と長州が新日プロ本社を訪れ、待ち受けていた猪木から「ウチに戻って来い」と誘われていた、という事実を明らかにしました。

 


 

◆新日プロUターンの余波

 

追放された長州をはじめ、マサ斎藤、小林邦昭、保永昇男、スーパーストロングマシン、ヒロ斎藤らが新日プロにUターン。デビュー前の馳浩、佐々木健介らも追従しました。

 

一方、谷津嘉章、寺西勇、永源遥、栗栖正伸、仲野信市は全日プロに残留。谷津は鶴田と「五輪コンビ」を結成、永源はタニマチへの顔の広さを買われ営業として重宝されます。

 

浜口、カーンはいずれにも加わらず、これをきっかけに引退することになりました。

 


 

◆大塚直樹氏が語る長州‐猪木のエピソード

 

後に大塚氏は、長州と猪木の密会のときのエピソードを明らかにしています。(週プロ増刊「猪木毒本―いま、なぜイノキなのか?」より)2人の関係性がわかる、個人的に好きなエピソードなのでご紹介します。

 

「あの1月の10日だか11日。川崎の試合が終わったときに、僕、新日本の事務所に長州と二人で行ってるんです。まだ全日本に上がっているときに。それというのは新日プロの後輩が僕のところにずっと通って来てて『大塚さん何とか助けて下さいよ』って言うから、『じゃあもうここで、1本にまとまる方向で考えるか』みたいなね。『じゃあ、とりあえず1回会わなきゃしょうがないな』『来てくれますか』『いいよ。俺1人で行ってもしょうがないから長州連れてくか』『えっ、連れて来てくれますか』『大丈夫だよ』。で、確か11日だと思ったんですけど、全日本の川崎の試合があって、その後に、長州に『今日あいてるか?』『あ、いいすよ、あいてますよ』『だったら1~2時間、俺に付き合ってくれるか』『わかりました』って。

 

試合が終わってシャワー浴びて僕の車に乗った途端に、長州が言ったんです。『大塚さん、青山(新日プロのこと)行くんでしょ』って。すごいですよ。俺ゾクッとしましたもん。ホント僕、どこに行くのかなんにも言わなかったですからね。本人もいろんなこと考えたんじゃないですか。車に乗って走り出したらすぐでしたから。『おい、なんだお前のその勘すごいなぁ』『えっホントですか?』って、自分で言った後、聞き直してるの(笑)。『ホント、ホント』って。そしたら長州が『まさか(猪木さんが)待ってるわけじゃないでしょうね』『そのまさかだよ。ナンバー2もいるよ』っていったら『えっ!』って驚いて何したと思います? 光りモノ…時計外して、指輪外して、ブレスレット外した。これホントなんです。言ったと同時に外した。それで『終わるまで、これを持ってて下さい』って。『わかった、わかった、ポケット入れとく』って預かった(笑)。もう師弟関係ですね。あれはすごかったですね。ホント全部外して。着いたのは夜の10時半ぐらいです。

もう猪木さんは頭から『おい長州。そのまま戻って来てくれ!』ですよ。『いま、お前の力が要るんだ!』って(笑)。すごいですよ。それで肩抱かれて腕とか掴まれて。もう心をキャッチされちゃったですよね、長州は。坂口さんも『大塚君、よく来てくれたね』みたいな話で(笑)。猪木さんは冷静で『何しろ営業が弱いんで、助けてくれないか』みたいな話になって。『やっぱりそうなっちゃいましたか』『うん。駄目だよ。どうしようもねぇんだよ。いつすべるかわかんないような状態だよ』みたいな話してね」

 

当初は長州だけでなく大塚氏、ジャパンプロ勢全員でのUターンという計画だったようですが、新日プロ社内で大塚氏の復帰に反対する勢力が存在し、その横ヤリでいつの間にか長州達だけでの復帰という筋書きに変わっていったようです。

 


 

◆大塚直樹氏が語るクーデター、長州力、猪木と馬場

 

2009年、大塚氏のインタビューが東京スポーツに掲載されました。クーデター事件や長州、猪木、馬場についてのコメントがありますのでご紹介します。

 

●クーデター、ジャパンプロレスについて

「今ではジャパンプロレスを興したことを悔やんでいる。現在のプロレス多団体時代を誘発してしまったのでは、と。若気の至りだった。クーデターで猪木さん、坂口さんを裏切ってしまった。ここにきて、当時の猪木さんの言葉が理解できる。私が何もしなければ、何か違うやり方で臨んでいれば…ここまでプロレスが落ち込んでしまうことはなかった。「一枚のチケットで全団体が見られる」ことを目指して事を起こしたが、失敗だった。「一つにできる」と思っていた。まずグッズから始めようと当時の4団体、新日本、全日本、ジャパン、全日本女子と契約書を交わし、統一グッズ制作の手はずは整っていた。でも本格着手する前にジャパンプロの内部がおかしくなって、それどころではなくなってしまった。」

 

●長州力について

「向こう気の強さや迫力のあるアピールなど、プロレスラーとしては素晴らしかった。人間としても基本的には親切で素直。聞く耳も持っていた。でも自分の気持ちにストレートで、常に楽な方に身を置きたがった。「社長」という価値感がわからなかった。馬場さんや猪木さんのように、経営者として苦労する道を選ぶことができない人間だった。私は馬場さんや猪木さんにも一時期、とことん信頼してもらった。でも長州選手とは最後までそういう関係を築けなかった。」

 

●ジャイアント馬場について

「懐が深くて頭が良くて礼節をわきまえていらっしゃった。ただ、答えを出していただくまでに時間がかかった。交渉事でもジャブの応酬ばかりで、本格的な打ち合いにはならない。その内、葉巻をくゆらせながら「次回でいいじゃないか」となる。」

 

●アントニオ猪木 について

「設立メンバーとして加わった新日プロでは、猪木さんとともに「プロレス市民権」のために頑張りました。ファンや営業先から「プロレスは八百長じゃないの?」と、聞かれた時の答えを猪木さんは用意してくれました。自分の力が10で相手の力が1だとする。実力的には1分以内で決着をつけられるが、それじゃあプロではない。1の力を6、7にまで引き出してやる。そして自分は8の力で仕留める。「レスラーは頭を使え」ということでしょう。猪木さんの言葉は、プロレスだけでなく人生そのものにも通用するものが多かった。白い目で見られがちだったプロレスを、メジャーにしようと一生懸命だった。「野球や大相撲に負けるか」と、猪木さんも我々フロントも熱かった。熱心なファンも大勢いた。何百試合も観戦してくれている人もいて、表彰したりもした。猪木さんを核にして、みんな燃えてました。数年前に京都駅で偶然、出くわしたことがある。遠くから見つけてくれて大声で「大塚!」と手を振ってくれた。向こうは急いでいるはずなのに、10分以上話し込んだ。大きくて影響力のある人ですよ。翌日、数人の関係者から「猪木さんと会ったのか?」と電話がかかってきた。やはり飛び抜けた存在です。」

 


 

◆恩讐の彼方に

 

大塚直樹氏は、現在はプロレスとは無関係のお仕事をされているようですが、2018年1月のアントニオ猪木古希パーティに参加したとの事。そしてこのパーティの幹事はなんと、新間寿さん。挨拶した前田日明氏は、猪木のことを「社長」と呼んでいたそうです。

いろいろと確執、衝突がありまくった猪木 新日プロですが、今となっては恩讐を超えているところもまた、不思議なところなのです。

大激震の84年当時、「次に離脱するのは藤波だ。そして藤波が離脱したら新日プロはおしまいだ」と言われ、実際にジャパンプロレスから誘いもあったとされる藤波辰巳ですが、結局、動きませんでした。そんな藤波について、伽織夫人は

「猪木さんって主人にとって凄い人なんだな、って身近に感じたのは、大阪のテレビ番組の仕事でご一緒した時です。主人がメインエベンターになってからですよ。なのに主人は初めて猪木さんからサインをもらったんですよ。20年もそばにいてですよ。その時の嬉しそうな顔はハッキリ覚えています。とにかく彼は、猪木さんが好きなんですね。昭和59年頃でしたか大量離脱の時、「猪木さんがかわいそうだ。マンションを処分してもいいかな」と言い出したくらいですから。私はこと猪木さんの件に関しては、何も言いませんでした。」

 

そして、自らも団体の分裂や崩壊など、波乱のプロレスラー人生を送った前田日明氏は、新日本プロレスについて、こう語っています。

「あの新日にいた期間だけが、いつまでも楽しい修学旅行だもん。夢のような修学旅行だったよ。」

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