SWSとは何だったのか?最終回~⑥プロローグ/龍原砲、天龍引退

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これまで5回に渡ってお送りしてきた「SWSとは何だったのか?」シリーズ。

⑥最終回はエピローグとして、「龍原砲」と「天龍引退」をお送りします。

 

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龍原砲の復活

 

SWS時代で「唯一に近く、嬉しかった出来事」として天龍が挙げているのが、盟友である阿修羅原の復帰でした。

 

 

 

1991年8月9日、横浜アリーナのSWS 1周年記念興行で、龍原砲が2年9カ月ぶりに再結成。

 

阿修羅・原は1988年に失踪、多額の借金がある事が明るみになり、ジャイアント馬場は11月の最強タッグ開幕戦において記者会見を開き、「私生活の乱れ」を理由に原を全日本から解雇します。

 

その後、原は人前に姿を現わす事なく、復帰戦後に「プロレスは全く見ていなかった。風のウワサで、SWSを旗揚げした源ちゃんが悪戦苦闘していたのは知っていたけど、オレ自身プロレスに戻れるような状況ではなかった…」と語りました。

 

2人が再会したのは、再結成の1ヵ月前。

 

天龍は「なぁ、阿修羅。このまま埋もれるわけにはいかないよな?」と伝えると、数日して原から出場を了解する電話があり、急遽、SWS入団の運びになりました。

 

天龍は「矢面に立ってでも、1周年記念の横浜には出る、と決意を語ってくれた時には、一時は忘れていた浪花節みたいなものを阿修羅によって思い出させてもらった気がしたよね。闘争心に火をつけられたと思ってるよ。なかなか連絡がつかなかったし、阿修羅自身、踏ん切りもつかなかっただろうけど、出てきてくれたことに今は感謝しているよ」と語り、

 

原も「源ちゃんが今、言ったけど浪花節…全日時代に組んだ時からこの男なら!と思って、競い合いたい、そして最後は介錯してもらいたいというのが俺の考えだったから。本当はSWSが旗揚げした時だって、飛んで行きたかったのさ。自分の持っているスタイル、表現しようとしているものは、他の場所では出せないとずっと思ってた。だから俺は自分の抱えた問題は自分の力でクリアして、その段階で源ちゃん、頼むって言って、それで阿修羅、ごめんって言われたら、その時はスッパリあきらめるつもりだったよ」と語っています。

 

 

復活した龍原砲は、タッグトーナメントに出場。

 

初戦でケンドー・ナガサキ、仲野信市組に勝利。しかしこの復帰初戦で仲野のドロップキックをモロに喰らい、あわやスリーカウント、戦闘不能になり、ブランクを感じさせました。

 

しかし持ち前のタフネスさで見事復活。準決勝で谷津嘉章、キング・ハクのナチュラル・パワーズもなんとか下しますが、決勝でLOD(ロードウォリアーズ)の前に完敗を喫します。

 

 

「皆、聞いてくれ! 龍原砲は死なんぞ!」

 

原はSWS崩壊後、WARで新日との対抗戦などで活躍した後、1994年に現役を引退

 

10月3日、故郷・長崎での天龍との最後の一騎打ちでは天龍のチョップ29発、ラリアット11発、パワーボム3発を浴び撃沈。

 

そして引退試合は10月29日後楽園ホール、龍原砲を再結成して冬木弘道・邪道組と対戦。その後行われたバトルロイヤルで最後に龍原砲が残り、再び天龍のラリアットを17発、パワーボム3発を食らい、現役生活を全うしました。

 

試合後、天龍は会場にいた原の家族へ向けてマイクで「長らくお借りいたしました。今日、原をお返しします」

 

阿修羅原は2015年4月28日午前5時15分、雲仙市内の病院で肺炎のため68歳で逝去しました。

 


 

エピローグ〜

 

2015年11月15日  両国国技館の興行を最後にプロレスラー・天龍源一郎は引退しました。

 

その最後のリングにスポンサーとして「メガネスーパー」の文字がある、とTwitterはじめネットで話題になりました。

 

そして当日、会場で販売されたパンフレットには、懐かしいあのティラノザウルスのロゴと共に、天龍へのお疲れ様と感謝の文字、贈り主は

 

「元SWS(SUPER WORLD SPORTS)スタッフ・関係者一同」

 

とありました。

 

 

-完-

コメント

  1. 田宮繁人 より:

    60年以上に及ぶ日本のプロレスの歴史の中でSWS、メガネスーパーの挫折ほど今も恨めしい事はありません。よく言われる事ですがうまくやれば日本版WWEになる可能性すらあったのに・・・。それにSが軌道に乗っていても日本を統一するような事はなく、あの当時なら新日本、全日本、UWFらと共存共栄で繁栄していたと思います。
    別に天龍が悪いというわけではないですが、やはり最初に武藤獲得に失敗したのが致命的だった、もし武藤を若きエースとして旗揚げしていれば天龍一派の移籍はなかったでしょうし、ジョージ、佐野らが脇を固めまとまっていたはず(選手の数が多けりゃいいってものじゃない)、何より週刊プロレスが敵に回る事はなかったでしょう。
    横浜の旗揚げ二連戦私も行きましたが週プロに毒された、野次やウケ狙い、アラ探しが目当ての客ばかりでムードは最悪、うんざりしました。
    とにかくこれ以降も試合は悪くないのに客席がヒートしない、何とも気の毒でした。
    せめてもの恩返し、今も私はメガネスーパーの眼鏡しか使いません(笑)。

    • MIYA TERU より:

      いつもコメントありがとうございます!
      ホントに、この時の失敗は大きかったですね・・・

  2. ロック より:

    最後のパンフレットが泣ける!

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