昭和特撮「うしおそうじ氏とピー・プロダクション」~後編 伝説のクリエイター うしおそうじ氏


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昭和特撮シリーズ、「ピー・プロダクション作品の魅力」に続いては創業者うしおそうじ氏の足跡をたどり、その功績をご紹介します。

うしおそうじ氏(鷺巣 富雄 1921(大正10)年12月4日 – 2004年3月28日)

 


 

●東宝時代

 

1939(昭和14)年、大学を中退して東宝線画室に入社。「特撮の神様」円谷英二氏に師事します。

当時、円谷氏が研究中の国産オプチカル プリンターの技術助手を「私的に」務めています。実はうしお氏の所属は円谷氏とは異なる部署でしたが、部下のいない円谷氏を上司や同僚にも内緒で手伝っていたため、円谷氏はうしお氏に感謝し、うしお氏は円谷氏の一番弟子を自認していた、のだそうです。

 

1941(昭和16)年、東宝 線画係は全員「特別映画班」に編入され、軍の「教材映画」を専任。

 

うしお氏は機関銃のメカニズムや、信号や航空機の仕組み、爆撃理論などを手描きアニメーション(と実写の組み合わせ)で解説する作品を手がけます。そしてそれらの「教材映画」を基に兵隊を訓練し、日本軍は真珠湾攻撃から大東亜戦争に突入していくのです…。

 

1942(昭和17)年、東宝は海軍省至上命令による「ハワイ マレー沖海戦」を制作。これは開戦1周年を記念した娯楽作品で、うしお氏は円谷氏に軍側のスタッフとして協力。この作品は終戦後、GHQがあまりにリアルな真珠湾攻撃の特撮シーンを実写と信じ込み「どうやって撮影していたのか」と追及した、という伝説の映画です。

 

1943年(昭和18年)、22歳のうしお氏は滋賀県の陸軍航空教育隊に写真工手として入隊。航空練習兵の写真記録では事故でコクピットから脱出できないまま焼死する練習兵を目の前にカメラを向ける、という凄絶な体験もあったとか…。敗戦までに数多くの特攻隊を見送り、遺影も撮影。ここで出会った三船敏郎氏とは、生涯の友となりました。

 

当時うしお氏が担当した作品のほとんどは「国策映画」、軍人教育用の「文化映画」日本の敗戦と同時にGHQの追及を恐れ焼却処分されてしまい、現存していません。

 


 

●戦後、赤本漫画家へ

 

1945年(昭和20年)、24歳時に終戦を迎えますが、東宝は労働争議が勃発。いまでは信じられませんがこの労働争議は苛烈を極め、「空には飛行機、陸には戦車、来なかったのは軍艦だけ」と言われるほど。連合国軍までが出動する激闘でした。

 

これでは映画制作どころではなく、うしお氏は「赤本漫画(当時の児童向けマンガ)」家に転身。当初は「牛尾走児」名義、後に「うしおそうじ」に名義をかえ、「どんぐり天狗」「おせんち小町」「チョウチョウ交響曲」「ぽっくり物語」「スットコトンちゃん」などの人気作を発表。

 

そして1951(昭和26)年「マンガの神様」手塚治虫氏と出逢います。

手塚治虫氏との出逢いは、向こうから訪ねて来られたのだとか。手塚治虫氏が神戸から東京に進出し、連載を持っていたものの多忙のため手が回らず、売り上げが落ちてきていた「漫画少年」(学童社、石森章太郎氏や赤塚不二夫氏も連載していた)への応援を、直々に依頼されます。

手塚氏はうしお作品を神戸時代から読んでいたそうで、お2人は伝説の“「トキワ荘」や当時日本にできたてのビジネス ホテルでカン詰になりながら、共に作品を創作するなど、交流を深めました。

 

ここから1959(昭和34)年、38歳までの長い期間、うしおそうじ氏は、主に時代劇を得意とする漫画家として活動します。

 


 

●再び動画の世界へ

 

1959年(昭和34年)、38歳。東映動画の「少年猿飛佐助」のヘルプ、教育映画などで動画制作現場に復帰。

同年には「鷺巣プロダクション」を設立。新聞公募で4人の社員を採用し、大映映画のタイトルなどを請け負います。

 

そして1960(昭和35)年、玉川学園の土地を処分して当時の価格で600万円をはたいて動画合成機材を購入、39歳にして「株式会社ピー・プロダクション」を設立。

 

円谷氏はピー・プロダクションの機材を羨ましがり、後に「ゴジラ対キングコング」のアニメ合成などの仕事を依頼したり、となにかと気にかけてくれたのだそうです。

 


 

●幻の円谷プロとの合体&ハリウッド進出

 

この1960(昭和35)年、ハリウッドのカーク ダグラス スタジオから長編アニメ映画制作の依頼を受けた円谷英二氏はうしお氏に協力を持ちかけ、2人の頭文字「円谷・鷺巣」をとった「TSプロダクション」構想に発展。機材や社屋用地の確保まで話は進んだそうですが、アメリカ側の提示した条件と合わず、頓挫しています。

 

ダグラス プロの後ろにはウォルト ディズニーがいたというウワサもあり、もし実現していたら…と思うと残念でなりません。

 

円谷氏とはその後も師弟関係にあり、1963(昭和38)年には「円谷特技プロダクション」設立の7人の発起人の1人として、取締役に(名義上のみ)就任しています。そう、ピー・プロダクションは円谷プロより創設が早かったのです。

 


 

●第1作はアニメ「0戦はやと」

 

1964年(昭和39年)、1月からピー・プロダクション初のテレビアニメ「0戦はやと」がフジテレビで放送開始。この作品の原作は「タイガーマスク」作画で有名な辻なおき氏(少年キング連載)です。

その後、手塚治虫氏から請われて虫プロダクション「鉄腕アトム」制作を下請け、4クール分を担当。

 


 

●第一次怪獣ブームの先鞭「マグマ大使」

 

1966(昭和41)年、手塚治虫氏原作の「マグマ大使」を制作。

日本初のカラー特撮テレビ作品として、2週間遅れで放送がスタートした「ウルトラマン」と共に、第一次怪獣ブームの先駆けとなります。

 

ちばてつや氏原作のアニメ「ハリスの旋風」の制作と同時進行でした。

 


 

●トラブル続きの「怪獣王子」

 

1967(昭和42)年、「日本特撮株式会社」からの依頼で「怪獣王子」1968(昭和43)年松竹の劇場映画「吸血鬼ゴケミドロ」の特撮パートを担当。

 

「怪獣王子」はさまざまな制作を担当した「日本特撮」の杜撰なプランニングと予算編成ほか、さまざまなトラブルが発生し、うしおそうじ氏は尻拭いと残務整理を押し付けられました。

 

その後、テレビ放映を目指して「ジャガーマン」「豹マン」などのパイロット版を制作するも、放映までには至らず。

 


 

●「宇宙猿人ゴリ(スペクトルマン)からの全盛期

 

そして1971(昭和46)年。またも「帰ってきたウルトラマン」より、今回は3ヶ月先んじてスタートした「宇宙猿人ゴリ(のちに「スペクトルマン」に改題」)が大ヒット。第二次怪獣ブームの先駆けとなります。

 

ここから、フジテレビの土曜夜7時枠をピー・プロダクション が独占。

「快傑ライオン丸」
「風雲ライオン丸」
「鉄人タイガーセブン」
「電人ザボーガー」

を立て続けに制作。黄金期を迎えます。

とはいうものの、費用がかかる特撮はTV局の制作費だけでは賄いきれず、マーチャンダイズ、玩具売上の収入は支払いが遅く、台所は常に火の車。その独特すぎる世界観も災いし、視聴率も乱高下を繰り返します。

 

そしてついに1975(昭和50)年、5分間帯番組「冒険ロックバット」を最後に、特撮チームが解散。ピー・プロダクション による番組制作は、休止となりました。

 


 

●その後のピー・プロダクション

 

その後のうしおそうじ氏は、下請けでアニメ制作を行うかたわら、1980(昭和55)年には日仏(米)合作で「シルバージャガー」を企画、パイロット フィルムも制作しますが、紆余曲折の末、頓挫。

 

1980年代半ばには荻窪でビデオ ショップを開業し、自社作品のダビング販売サービスを行ないつつ、若手クリエイターの育成を試みますが、活動休止状態に。

 

晩年、深い関わりのあった円谷英二氏について「夢は大空を駆けめぐる」手塚治虫氏について「手塚治虫とボク」の評伝を出版されています。

 

並行して、生涯を通じて特撮の次回作企画に熱心に取り組んでおられましたが、2004年3月、心不全のため82歳で永眠。

 


 

その後は作曲家である実子の鷺巣詩郎氏が跡を継ぎ、キングレコードの大月俊倫氏らと共に版権を管理、会社を存続。

 

2006(平成18)年、ライオン丸のリメイク版「ライオン丸G」を制作。

2011(平成23)年、「電人ザボーガー」を35年ぶりに劇場用映画として復活。日活・キングレコード製作でピープロは企画・原作、監修(鷺巣詩郎)として参加。

 

2017(平成29)年からは庵野秀明氏が代表を務める株式会社カラーが著作権管理窓口業務を担当し、今なお会社は存続しています。

 


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