「ビートたけしFRIDAY襲撃事件」~1986年12月9日

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今回は、1986年12月9日に起きた大事件「ビートたけしFRIDAY襲撃」をお送りします!

※文中敬称略


●写真週刊誌ブーム

 

1981年、新潮社「FOCUS」創刊。写真週刊誌という新ジャンルが誕生しました。「FRIDAY」(講談社)、「FLASH」(光文社)、「Emma」(文藝春秋)、「TOUCH」(小学館)と、続々と大手出版社が参入。

 

1985年に起きた日本航空123便墜落事故などの大事件では現場の惨状を生々しく伝える一方で、取材者が遺族の名を騙って遺体安置所に潜り込む事件が発生。1986年の岡田有希子自殺では遺体写真を掲載するなど、「言論、報道の自由」や「悲惨な事故を繰り返さないために」など大義名分の下に遺族やファンの気持ちを踏みにじる行為、売れるためならなんでもアリか、などと賛否両論となります。

 

それでもこの5誌合計で約460万部を売り上げるなど隆盛を誇り、各誌のスクープ合戦が過熱していました。

 


●人気絶頂のビートたけし

 

ビートたけしは当時39歳。マンザイブームを経て「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)「天才たけしの元気が出るテレビ!」「SUPER JOCKEY!」(日本テレビ)「たけしのスポーツ大将」(テレビ朝日)などなど、各局でレギュラー高視聴率番組を持つ人気絶頂期でした。

 


●事件の発端

 

たけしの「愛人」である専門学校生の女性(21歳)に対しFRIDAY契約記者が学校前の路上で強引な取材を行い、立ちふさがってテープレコーダーを彼女の顔に突きつける、手を掴んで引っ張るなどで頸部捻挫、腰部捻傷で全治2週間の怪我を負わせます。

 

これに激怒したたけしは、講談社FRIDAY編集部に自ら電話をかけ抗議。口論となり「今から行ってやろうか」「来るなら来い」となります。

 


●襲撃事件

 

1986年12月9日 深夜3時過ぎ、たけしとたけし軍団12人はタクシー3台にそれぞれ4人ずつ分乗、東京都文京区音羽にある講談社本館のFRIDAY編集部へ突入。

 

当初、たけしは軍団に「手を出すなよ」と言っていましたが、編集次長の「俺は空手の有段者」などの挑発的な態度で火がつき、一斉にもみ合いになります。たけしとたけし軍団は「ぶち殺すぞこの野郎」と消火器を噴射、拳や傘で殴打、蹴りなどで編集長、編集部員らに暴行。

 

たけしと軍団は通報を受けて駆けつけた警視庁大塚署の警官に住居侵入、器物破損、暴行の容疑で現行犯逮捕されます。

 

編集長および編集部員らは肋骨骨折など1ヶ月から1週間の怪我を負いました。


●襲撃した軍団メンバーとエピソード

 

ビートたけし、ガダルカナルタカ、そのまんま東、松尾伴内、柳ユーレイ、大森うたえもん、サード長嶋、グレート義太夫、ダンカン、キドカラー大道、大阪百万円に当時19歳少年を加えた総勢12名。

 

後にメンバーからさまざなエピソードが語られています。

有名なところでは、つまみ枝豆はあまりに武闘派のため外された、とか、そのまんま東が行くのを嫌がり渋々着いていったらエレベーター降りる際に先頭になってしまった、など(実際の先頭はキドカラー大道だったそうですが)。

ちなみに、井出らっきょはたまたま実家に帰っていて、ラッシャー板前は痔の手術のため不参加だったそうです。

 

また、たけしの侠気エピソードとして「襲撃前に『これでオマエらが芸能界干されたら、オレが一生面倒見る』と殿に言われた」や、「襲撃後に『こんな事になって悪かったな、感謝してるぜ』と言われて号泣した」なども軍団メンバーから語られています。

 


●事件翌日

 

たけし所属事務所、太田プロダクション社長は翌9日朝、講談社に電話で、正午には直接出向いて謝罪。

FRIDAY側は10時、12時、18時と記者会見を開き「言論・出版の自由を脅かす暴挙に対して、断固たる態度で臨む」との声明を発表、負傷した様子を公開するなどして糾弾を開始。

17時、たけしら12人は犯罪の事実を認め反省、逃亡の恐れもないとして、釈放されます。

 

ちなみに事件後のFRIDAY第一報は「本誌編集部で集団暴行した『一部始終』」とのタイトルで、釈放され車に乗り込むたけしの姿を掲載しています。写真週刊誌の編集部が現場にも関わらず、暴行時の写真は撮影されていませんでした。

 

そして夕方頃、後藤田正晴官房長官が「写真週刊誌の取材の行き過ぎもあり、ビート君の気持ちはよくわかる。かといって直接行動に及ぶのは許されることではない」と発言。この「ビート君」はちょっとした流行語になります。

 


●その後の展開と世論

 

事件当初のワイドショーなどでは、たけしよりもFRIDAY側に非がある、とする擁護が大勢を占めていました。

 

翌9日の20時には収録済みの「たけしのスポーツ大将」も予定通り放送(ただし、この番組は11月4日に収録されたものです、のおことわりテロップ付き)。これにはテレビ局にとってドル箱の超人気タレント、ビートたけしをこの年末年始の時期に失いたくない、という計算もあったと思われます。

 

これに追従して12月14日には日本テレビ「天才・たけしの元気が出るテレビ」(収録済)もテロップ付きで放送。

 

しかし新聞系メディアが「テレビも問題当事者である」と取り上げたことで、テレビ局としてもスルーしにくくなります。

 

12月15日、ビートたけしが事件後、初めて日本テレビ「元気が出るテレビ」28日放送分の収録に参加。

12月16日には、たけしとたけし軍団がテレビ朝日「たけしのスポーツ大将スペシャル」の収録に参加。

 

これを「人気者なら何をしても許されるのか」「警察の処分も決まっていない容疑者を出演させるテレビ局のモラルはどうなっているのか」と報じられ、世間の風向きが擁護から批判に大きく傾きます。

 

12月17日、たけしはフジテレビ「オレたちひょうきん族」の収録を疲労を理由に取り止め。

そして所属事務所は「謹慎」の名目で、たけし及び軍団メンバーの半年間芸能活動の自粛を発表。

 

12月22日に記者会見を開くことになり、たけしはそれ以降、半年間公式メディアから姿を消しました。

 


●伝説の記者会見

 

この記者会見はYouTubeで観ることができます。いまのビートたけしとは別人のような、精悍で色気に溢れた姿が見られます。

YouTube

 

たけしは「手段として暴力を使ったこと、たけし軍団を一緒に連れて行ったことに関しては、非常に反省しております」とした上で、「やり方は悪かったけど、こちらにも自分の大切なものを守る権利がある」と毅然とした態度で語ります。

 

芸能レポーター、記者はわざと怒らせようとしたり、あの手この手で長時間のやり取りとなりますが、たけしの「悪い点は認めるが、主張があってやったことだ」という姿勢は、写真週刊誌側の「とにかく暴力反対、言論の自由を守れ」だけで自らの姿勢をまるで顧みない態度とは好対照に感じられます。

 

たけしは「これまで、テレビやマスコミがあってやってこれた人気商売だから、仕事をくれれば行くし、いらないと言われたらそこまで」「お互い因果な商売だな」と語ります。

 

レポーターからの「引退はしないのか」という質問に、本気で面倒くさくなっていたたけしがよく「辞めますよ」と言わなかったものだと思います。

 


●政府の介入?

 

また、たけし側と講談社との間に示談の方向で話がまとまりつつある中、後藤田正晴官房長官が「これは(略式起訴による罰金刑ではなく)裁判にしなければいけない」と主張。たけし、記者の双方が起訴されて裁判にかけられることになりました。

 

これは、この事件をきっかけに「政治家のスキャンダル報道を狙う写真週刊誌の暴走を食い止めようとする意図」があったのではないか、と言われています。

 

1987年6月10日、東京地方裁判所からたけしに懲役6カ月、執行猶予2年の判決が下ります。たけしは控訴せず、刑が確定しました。(たけし軍団メンバーは不起訴処分となりました)

 

この裁判では裁判長から写真週刊誌記者に対して過剰な取材を諌める発言も多くあり、講談社側は「これは何を裁く裁判なのですか」と不満の声を漏らしたといいます。

 


●後年のたけしが明かす襲撃の真相?

 

襲撃の理由は前述の通り「愛人女性を傷つけられたこと」なのですが、事件後の記者会見ではそれに加えて「子どもとカミさんが学校の面接の写真を撮られたり」とも語っています(その報道が元で学校側から入学を断られた、とも)。

 

さらに後年、たけし本人が明かした話によれば「フリーのライターが『全然お金がないんだけど、あなたの取材をさせてくれたら、それを出版社に売っていくらかになるので、悪口は書きませんから』って手紙をくれて、かわいそうだから会ったんだよ。で、『現場に行っていいですか?』って言うから来るようになって、楽屋にいつもいるの」しかしそれから「FRIDAYに、なんか芸能界のスキャンダルがやたらと出るようになってさ、みんなが『あいつじゃねーか? スパイやってたのは』ってなって、やっぱりそうだった。それで、編集部に「そいつはいるか?」と電話すると「来い」と言われたので行ったものの、「『実はいないんだ』ってなってケンカになっちゃった」と明かしています。

 


 

●この事件の残したもの

 

今回、改めて振り返ってみると、事件直後、テレビ局はたけし番組を放送するだけでなく、新たな収録まで行っていたのは驚きます。

そしてそれに対して段々と批判が高まると、慌てて態度を改めた、というのがこの時期の成熟度だったワケです。コンプライアンスなんて言葉もまだ認知されていない時代です。

 

たけしの「愛人」への嫌悪感や、「暴力」への批判は仕方のないところですが、もう一方の論点であるはずの「写真週刊誌の行き過ぎた行為」については、マスコミ側から反省や批判はあまり見られなかったのが、不公平感がありました。

 

新聞社系の週刊誌は写真週刊誌のあり方について批判もしていましたが、各出版社は写真週刊誌が売上を叩き出す媒体であるが故に、身内からそれを批判するのはタブー、というのが「報道しない自由」的で気持ち悪い感じでした。

 

公権力や権力者への批判的なジャーナリズムではなく、野次馬、ゴシップまみれでプライバシーを無視した「売れるならなんでもやる」写真週刊誌が振りかざす「言論の自由」には、違和感を感じた人が多かったように思います。

 

この事件を巡る論争の本質は「報道、言論の自由」と「その手段としてどこまでが許されるのか」という難問でした。そこに「有名人にプライバシーはあるのか」「タレントとマスコミの共存関係」などが絡んで来ます。「解決手段としての暴力」はたけし本人が非を認めているので、もはやどうでもよいのです。

 

当然、結論が出るわけもないのですが、それまで右肩上がりだった写真週刊誌の売上が減少に転じ、事件後2ヶ月半で発行部数が2割減った、と言われ、全盛を誇った写真週刊誌時代の終焉の一つのきっかけになった事は事実です。

 

いまの時代にこの事件が起きたとしたら。コンプライアンスやプライバシー、SNSの発達などいろいろと状況は変わりましたが、果たしてあの頃よりまともな対応がとれるのでしょうか?

 

私はそうは思えないのですが。

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