「1980年代のオールナイトニッポン」〜タモリ、ビートたけし、とんねるず、小泉今日子、山口良一


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今回は、1980年代の「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)を取り上げます。


 

●スタート当初の「オールナイトニッポン」

 

番組スタートは1967(昭和42)年10月2日。

 

首相は佐藤栄作、巨人がV3、「巨人・大鵬・卵焼き」。ビートルズが世界を席巻して日本でGSブームが起こり、ツィギーのミニスカートが流行り、「天才バカボン」「パーマン」「あしたのジョー」「ルパン三世」が連載開始した年。

 

そして「団塊の世代」が大学生だった時代です。

 

放送時間は現在と同じ月曜日〜土曜日の深夜1:00 – 5:00。

 

この番組は当時激しさを増す“受験戦争“の真っ只中にいる中・高校生、そして大学生をターゲットに、「孤独な寂しがり屋の若い人々に、若者の広場をつくろう」というコンセプトで始まりました。

 

当時の番組冒頭のフレーズは「君が踊り僕が歌うとき、新しい時代の夜が生まれる。太陽の代わりに音楽を、青空の代わりに夢を、フレッシュな夜をリードする オールナイトニッポン」

 

サブタイトルの「ビバヤング」は、「若者バンザイ!」の意味です。

 

ビートルズやツェッペリン、ジミヘンなどの洋楽や日本のフォークソングなど最先端の音楽をふんだんに流し、1年も経たず若者層に絶大的な支持を受ける看板番組に成長。TBS「パックインミュージック」や文化放送「セイ!ヤング」と並ぶ、深夜の人気番組になりました。

 

スタート当初のパーソナリティ(当時はDJと呼ばれた)は、全員が「ニッポン放送の局アナ」でした。


 

●テーマ曲

 

もはや「オールナイトニッポンのテーマ」として認知されているあの曲は

「BITTERSWEET SAMBA(ビタースウィート・サンバ)」
作曲:ソル・レイク/演奏:ハーブ・アルパートとティファナ・ブラス

です。

 

私の中学の給食時間になぜかこの曲がかかり、リスナーの友人達は一様に「昼間にかけるなよ」と笑いが起こりました。

 


 

●1970年代

 

1969年10月、土曜日担当にアナウンサー出身の亀渕昭信氏が登場、一躍人気パーソナリティになりました。翌1970年7月1日放送回から全国ネットになります。

そして1970年代中盤から1980年にかけて、あのねのね、笑福亭鶴光師匠、タモリさん、所ジョージさん、つボイノリオさん(金太の大冒険)などの新進気鋭のお笑い勢に加え、

 

武田鉄矢さん、南こうせつさん、イルカさん、山田パンダさん、加藤和彦さん、北山修さん、桑田佳祐さん、長渕剛さん、松山千春さん、吉田拓郎さんなどのニューミュージック界のシンガーソングライター達が次々にパーソナリティを務めます。

 

この時期には「オールナイトニッポンのパーソナリティが若者世代の人気者の証」とブランド化しました。

 

秋元康さんは「長渕剛のオールナイトニッポン」に関わったことで芸能界入りしたのは有名です。

 

そして、1979(昭和54)年に中島みゆきさん、1981(昭和56)年にビートたけしさんが登場。

 

1980年代に「オールナイトニッポン」は第2期黄金時代を迎えるのです。

 


 

●タモリ ブレイクのきっかけ

 

タモリさんのブレイクのきっかけが、この「オールナイトニッポン」でした。

1975(昭和50)年、ニッポン放送のディレクターが「新宿のバーでデタラメな外国語を話す面白い男がいる」との噂を聞きつけ発掘したのが、デビュー2年目のタモリさんでした。

 

当時のタモリさんはセンター分けにアイパッチ姿、「中洲産業大学教授」を名乗り、イグアナのモノマネやデタラメ外国語(ハナモゲラ語)の4カ国語マージャンなどで笑いをとる“謎の芸人“でした。

 

タモリさんは1976(昭和51)年から「オールナイトニッポン」木曜日のパーソナリティを務め、当時交友のあった赤塚不二夫さん、近田春夫さん、山下洋輔さんなども出演し、「NHKつぎはぎニュース」など多彩な話芸で一躍深夜の人気番組になりました。

 

その後、タモリさんは1982(昭和57)年に昼の帯番組「笑っていいとも!」の司会に抜擢され、それがきっかけで降板することになりますが「オールナイト」への愛着は深く、「いいとも」放送開始から1年後の1983(昭和58)年までパーソナリティを務めました。

 


 

私が「オールナイトニッポン」を聴き始めたのは中学1年(1983年)の夏休み。

 

ラジカセを買ってもらった当初はカセットばかり聴いていましたが、この頃にラジオの面白さに目覚め、「大橋照子のラジオはアメリカン」(TBS)や、地元福岡のRKB、KBCの深夜番組を聴き始め、その後に放送される「オールナイトニッポン」にたどり着きました。

 

土曜日の1部2部ぶっ続けの「鶴光のオールナイトニッポン」は、明るいエロ路線で、禁断の匂いがプンプンしていました。

 


 

●1984(昭和59)年 山口良一

 

月曜日 中島みゆき /上柳昌彦
火曜日 桑田佳祐/白井貴子
水曜日 アルフィー/小山茉美

木曜日 ビートたけし/谷山浩子
金曜日 山口良一/鴻上尚史
土曜日 笑福亭鶴光

 

中でも私は、金曜日の「山口良一のオールナイトニッポン」のファンでした。

当時の山口良一さんは、欽ちゃんファミリーとして「欽ドン!良い子悪い子普通の子のヨシオ」「イモ欽トリオ」としてブレイク中。

大のプロレスファンであり、番組中に「闘魂スペシャル」として新日本プロレスのアントニオ猪木さん、タイガーマスク、新間寿さんなどが、ほぼ毎週のように生出演していたのです。

 

金曜夜8時の「ワールドプロレスリング」からの深夜の「山口良一のオールナイトニッポン」流れが、当時の新日本プロレスファンの間で確立しました。

 

山口良一さんは1983(昭和58)年に宇崎竜童さんプロデュースのソロアルバム「ABOUT」をリリースするなど、当時の欽ちゃん&プロレスブームの追い風を受けて、絶好調。

 

私はこの番組とアルバムのカセットテープをいまも所蔵しています(笑)

 

★この番組のエンディングで流れていた「炎のファイター(イノキボンバイエ)」の音源が誰のアレンジによるものなのか、何のアルバムに収録されているのか、長年の謎です。。。どなたかご存じの方がいたら教えてください!

 


 

●1985(昭和60)年 とんねるず

 

月曜日 中島みゆき/上柳昌彦
火曜日 とんねるず/白井貴子
水曜日 小峰隆生/バブルガムブラザーズ
木曜日 ビートたけし/谷山浩子
金曜日 サンプラザ中野/中村あゆみ
土曜日 ABブラザーズ

 

この中ではなんといっても、火曜日の「とんねるず」登場がセンセーショナルでした。

とんねるずはこの時期、文化放送「新てるてるワイド 吉田照美のふッかいあな」内で「とんねるずの二酸化マンガンくらぶ」という10分帯コーナーを担当していましたが、「オールナイトニッポンをやりたい」と熱望していたそうです。

 

1983(昭和58)年「オールナイトフジ」、1984(昭和59)年「夕焼けニャンニャン」で既に破竹の勢いにあったとんねるずですが、ようやく来たオファーは「2部(曜日不明)」。

 

これに激怒した2人は当て付けにTBSラジオの深夜番組のレギュラーに内定をもらいますが、慌てたニッポン放送から「火曜日1部」のオファーをもらい、スタートしたという経緯がありました。

 

当時の「とんねるずのオールナイト」は120分カセットテープに録音して聴き逃した友達の間で貸し借りされる程、絶大な人気がありました。

 


 

●1986(昭和61)年 小泉今日子

 

月曜日 杉山清貴/うじきつよし
火曜日 とんねるず/越前屋俵太
水曜日 小泉今日子/バブルガムブラザーズ (→THE東西南北→ちわきまゆみ)
木曜日 ビートたけし/谷山浩子 (→寺田恵子)
金曜日 サンプラザ中野/中村あゆみ
土曜日 ABブラザーズ/いんぐりもんぐり

 

世の中の「ロックブーム」を受けて、バンド系ミュージシャンが続々と登場。中でも水曜日の「小泉今日子のオールナイトニッポン」が大人気でした。

超人気アイドルであるKYON2が深夜番組、しかも生放送のパーソナリティを務めるというのは異例で、同期や後輩アイドルも続々とゲスト出演。中高生男子の熱狂的な支持を集めました。

 


 

●伝説の「ビートたけしのオールナイトニッポン」

 

80年代のオールナイトニッポンを語る上で、1981(昭和56)年から木曜日のパーソナリティを務めたビートたけしさんの存在感は“別格“でした。

たけしさんは「この番組はナウな君たちの番組ではなく、完全にオレの番組です」と宣言。

 

タブーなしの毒舌、速射砲のようなスピード感、時事ネタから社会問題、芸能界裏話から下ネタまで、幅広い内容のフリートークを展開し、影響を受けた後のお笑いタレント、芸能人は数知れず。芸能関係のみならず文化人など、ファンを公言する人は無数に存在しました。

 

深夜にも関わらずニッポン放送前には出待ちのファンで溢れ、弟子志願者が続出。これが後の「たけし軍団」につながっていきます。

常連投稿者である「ハガキ職人」という文化もこの番組が発祥と言われています。

 

ちなみに、同じ木曜日の2部を明石家さんまさんが務めていた時期もあり、タケちゃんマン→ブラックデビルという豪華リレーが深夜のスタジオで繰り広げられていたことになります。

 

たけしさん曰く、オールナイトニッポンを引き受けたのは「(放送作家の)高田文夫から誘われて」「漫才ブームも終わりだから、ちょっと暇だししゃべるか」くらいのものだったとか。当初は「前任のダディ竹千代さんの3ヶ月限定の後任」の予定だったそうです。

 

スタート当初はたけしさんのフリートークの危険性から生放送ではなく録音、さらにはご本人の希望で綿密な台本とリハーサル付きでのスタート付きだったのだそうです。

 

しかしすぐに生放送、フリートークになり、そこから過激な言動で数々の事件、伝説を残しながら「たけし信者」と呼ばれる熱狂的なフリーク達の絶大な支持を集める超人気番組となりました。

 

1986年12月の「フライデー銃撃事件」では、前週の記者への苛立ち発言からのリアルタイム性が、世間を震撼させました。

 

事件後、局内では当然の如く番組打ち切りが協議されますが、当時のニッポン放送トップである鹿内春雄さんは「続けろ」と番組続行を指示。「ご本人が出ると言うなら、今週も出していい。スポンサーが降りるのであれば、それはそれで構わない。彼の気持ちを大事にしろ」と擁護したのだそうです。

 

事件後の初放送は上柳昌彦アナウンサーが事件に対するリスナーからの意見を紹介する番組を行い、翌年3月から6月の復帰の間は「代役」として大竹まことさんが起用されました。

 

番組終了は1990年12月。文字通り、80年代と共に「ビートたけしのオールナイトニッポン」は惜しまれつつ、その幕を下ろしたのでした。

 


 

「深夜で音声のみ」の治外法権的な、自由で、顔も知らない孤独な“同士“が集う場所。

それが、今なお続いている「オールナイトニッポン」の魅力だと思います。

 


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