「やなせたかし」さん〜オトナのための アンパンマン講座

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今回は「それゆけ!アンパンマン」に込められたやなせたかしさんの想いについて、「オトナのためのアンパンマン講座」をお送りします!

 

やなせたかしさんは1919(大正12)年生まれ、2013年に93歳でお亡くなりになりました。

お亡くなりになる直前まで、現役最高齢のデザイナー、絵本作家、シナリオライター、作詞、作曲、歌手、キャラクターデザイナー、漫画家、編集者として活躍されました。


 

●手のひらを太陽に

 

「手のひらを太陽に」がアンパンマンの作者であるやなせさんの作詞、と知らない方もいるかもしれないですね。

1960(昭和35)年、やなせさんは永六輔さん作演出のミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の美術を担当します。そのとき知り合ったいずみたくさんと組み、翌1961年に作詞したのが「手のひらを太陽に」です。この詞はやなせさんが仕事や健康について悩み迷い続けた中、生まれたものと言われています。

 

子供心に、この「手のひらを太陽に」を唄うたびにヘンテコな唄だな、と思っていました。カエルにミミズにオケラにアメンボ…生き物のチョイスが実に謎ですし、「手のひらを太陽に 透かしてみれば 真っ赤に流れる僕の血潮」…血潮!強烈なワーディングです(笑)。

 

しかしながら、後にこの楽曲の作詞が「アンパンマン」のやなせたかしさんで、そして「アンパンマン」に込められた深いテーマを知るにつれて、ようやく意味がわかった次第です。

 


 

●心血を注いだアンパンマン

 

私の幼少期の「アンパンマン」は絵本でした。アニメ化されたのは1988年ですから、アニメ作品は、子どもが生まれるまで、見たことがありませんでした。

 

それでもさすがにアンパンマンが幼児に大人気で、「なんとかパンマン」的なキャラがたくさんいて、幼児玩具などの関連グッズも山ほど売られているのは知っていましたが「もはや作者であるやなせさんは名義を貸しているだけで、TV局や玩具メーカーなどの“製作委員会”が、カネ儲けのためにアコギな商売してるんだろう」と勝手な偏見を持っていました。

 

小1の頃、学級文庫で読んだ「アンパンマン」の絵本は、「アタマを空腹の人に食べさせる」というくらいしか記憶になく、「なんであのアンパンマンがそんなに人気者に?」と不思議だったのです。

 

ところが、30過ぎて子どもと共にアンパンマンのアニメを観て、劇場版を観て、そんな勝手な思い込みをしてすみませんでした、とやなせ先生にお詫びしたい気持ちになりました。

 

やなせたかしさんは、90歳を超える高齢でも、全キャラクターデザインから設定、全楽曲の作詞、そしてお亡くなりになる直前まで、劇場版の原作を描き続けていました。

決して「名ばかりの原作者」ではなく、文字通り心血を注いでアンパンマンを描き続けていたのでした。

 


 

●劇場版の素晴らしさ

 

お約束のルーチンで安心して子どもに観せられるTVアニメも楽しいのですが、劇場版のアンパンマンを観て欲しいです。

ばいきんまんとアンパンマンの戦闘シーンの動画の多さ、動きのなめらかさとキレなど、アニメ作品としてのクオリティの高さも凄すぎて笑ってしまうほどですが、とにかく、どの作品も、描かれたテーマが深すぎます。

中でも私は「勇気の花が開くとき」「いのちの星のドーリィ」に猛烈に感動しました。まさかアンパンマンで大の大人が号泣させられるとは、思ってもみませんでした(笑)。


 

●アニメ「それゆけ!アンパンマン」誕生

 

TVアニメ「それいけ!アンパンマン」は1988年10月3日に放送開始しました。

幼稚園で絵本を見つけた日テレのプロデューサーのオファーだったそうですが、当時はまったく期待もされず、すぐに終わる、とやなせさんご本人も思っていたそうです。

 

「主人公が自分の顔を食べさせる」というショッキングな設定は「残酷、グロテスク」とPTAからの批判もあったそうです。

しかし幼稚園の子どもたちから人気が爆発、いまや多くの「子どもが最初に覚える言葉はアンパンマン」というほどの、国民的人気者になりました。

 

やなせさんはこの「アンパンマン」で売れっ子になった時はすでに50代後半。

それまではデザイナーやら作詞家やら編集者やらをして食いつないでいました(前述の「手のひらを太陽に」の作詞、三越デパートの包装紙もやなせ氏の作品)。

漫画家としてはずっとパッとせず、後輩たちのブレイクをずっと歯ぎしりして眺めていたのです。

 


 

●やなせさんと手塚治虫さん

 

手塚治虫さんとは1960年代から手塚さんの晩年に至るまで親交があり、やなせさんは虫プロダクションで制作した劇場アニメ「千夜一夜物語」(1969年)に美術監督として参加し、キャラクターデザインも手がけました。手塚さんはそのお礼として、やなせさん原案によるアニメ映画「やさしいライオン」を制作しています。

 

やなせさんは手塚さんを評して、
「ぼくが学んだのは、手塚治虫の人生に対する誠実さである。才能は努力しても、とてもかなわないが、誠実であることはいくらかその気になれば可能である。もちろん遠く及ばないにしても、いくらかは近づける。手塚治虫氏はその意味でぼくの人生の師匠である。」

と語っています。ちなみに、やなせさんは手塚さんより9歳年長なのです…。

 


 

●東日本大震災と引退撤回

 

時は流れ、「アンパンマン」で遅咲き過ぎる超売れっ子になったやなせさんは年齢が90歳を超えた2010年(平成22年)には引退も考えますが、翌年3月に東日本大震災が起こりました。

 

被災地ではどこからともなく「アンパンマンのマーチ」を唄う、放送する、というムーブメントが起こります。疲弊した子ども達を励ますつもりが、多くの大人たちはようやくそのとき、その歌詞の本当の意味を知り、涙しました。

 

やなせさんご本人も、被災地の子どもたちからの手紙でアンパンマンへの想い知ったことから思いとどまり、その後も最期まで現役で活動を続けました。

 


 

●やなせさんの戦争体験と「アンパンマンのマーチ」

 

1941年から大東亜戦争が始まり、やなせさんは1943年、中国に赴くことになりました。

赴く際、輸送船に乗せられ航路をごまかすために南シナ海あたりをウロウロしていました。その時既に日本本土は空襲が始まっていて、小倉も門司も火の海でした。

「或る日のなんだか解らない夜が明け、鉄舟にのせられて敵前上陸というのがはじまった。白鉢巻をして、軍刀の柄には白い包帯をぐるぐる巻きにして、一見決死隊風でヒロイックな気分になったあら哀れである。どこか解らないところに上陸したが、敵の抵抗というのはまったくなくて、少しあっけなかった。上陸したのは台湾の川岸の福州だった。つまり日本司令部は、アメリカ軍は台湾を攻めると考えて、そのためにはまず中国の対岸に基地をつくり、そこから対岸の台湾を攻撃すると考えたのだろう。しかし、アメリカは台湾を飛ばして沖縄を直接攻撃したので、ぼくらの部隊は空振りであった。・・・ぼくは覚悟していた。多分ここで戦死すると思った。この戦力で勝てるわけがない。異郷で果てるのは残念だがしかたがないと観念していた。」

やなせさんが送りこまれた部隊は空白地帯。敵は台湾ではなく沖縄へ。戦死する覚悟でしたが、肩すかしをくらいます。芋畑の中に陣地を設営していましたが、本部から離れた陣地、訓練もなければ戦争もない。仕事は防空用の穴掘りぐらいだった為、宣撫班(せんぶはん)のように紙芝居をつくって村をまわっていました。

その後、上海に召集命令が入り再び部隊に合流することになるも、結局そのまま敗戦。

故郷に帰ることになったやなせさんは「戦争が人を狂わせることや飢えの苦しさなどを知り、反戦主義者になった」といいます。

 

2006年8月の高知新聞夕刊、「オイドル絵っせい」で人間魚雷「回天」の特別特攻隊員としてフィリピン島バシー海峡で戦死した弟の千尋さんのことが偲ばれることや、平和ボケも戦争の悲劇に比較すればよほどいい、とあります。

「正義のための戦いなんてどこにもない。正義はある日逆転する。正義は信じがたい。」

これが、戦後のやなせたかしさんの思想の基本となりました。

 

逆転しない正義とは献身と愛。目の前で餓死しそうな人がいるとすれば、その人に一片のパンを与えること、これが苦しみの中から生まれる願いなのでしょう。

正義は絶対ではなく、そして正義を掲げて戦えば自分も傷つく、ということ。

大切な人を失って、なんのために生きるのか、を問い直すと、それはこれまで誰かと何をしてきたのか、そしてその誰かのために何をしたのか、ということが人生だと気がつきます。

そして、やがて自分にとって大切なことは何なのか、にたどり着き、だからこそこう生きよう、となる。

「アンパンマンのマーチ」の歌詞は、まさにそんなやなせさんの想いが込められています。

なので、普段何気なく聴き流していたのに、震災など命の大切さと直面したときに、どうしようもなく多くの人の心に響いたのでしょう。

 


●「アンパンマン」と「食」

 

「アンパンマン」は主題歌だけでなく、挿入歌やそれぞれのキャラクターのテーマソングに至るまで、すべてやなせさんご本人が作詞しています。

ジャムおじさんとバタコさんが歌う「生きてるパンを作ろう」という楽曲があります。

赤ちゃんは はだかで 生まれてくる 

ひもじいことは がまんできない
どんなえらい人だって 
たべずにいれば死んでしまう 
死んでしまう 死んでしまう

「手のひらを太陽に」と同じく、どじょうやミミズが出てくるあたりが「やなせ節」です。ユーモラスな曲に合わせて楽しそうに歌われるこの曲ですが、この歌詞は大人が聴くとかなりショッキングです。

注)「死んでしまう」の歌詞は震災後は「食べずにいれば生きられない」となりました

 

「ひもじい」という概念自体、モノが溢れた現代ではもはや絶滅してる気がしますが、この歌詞はやなせさんがアンパンマンに込めた「食」への想いが現れています。

お腹が空くと口数が減る。イライラする。自分のことしか考えられなくなる。

飢えると心も貧しくなる。人を思いやる優しい気持ちを失わせるのは「飢え」である、そしてそれは「食べもの」だけでなくあらゆる「飢え」を満たそうとする「欲」が間違いの始まり、と考えたのではないでしょうか。

 

アンパンマンの世界の住人は互いにお腹の空いた人、困った人を助け合っています。そこに食べものを横取りして独り占めしようとするばいきんまんが現れて騒動を起こしますが、最後は失敗してお仕置きを食らっておしまいです。

ばいきんまんが独り占めしようとせずに「一緒に食べよう」と言えば分けてもらえるのですが。

 

誰もが平和で豊かな生活を望むこと。それは生きていく上でのやなせさんの永遠の理想であり、叶えたい望みでした。

やなせさんが戦後、さまざまな職を経て、人生の集大成としてたどり着いた理想郷が、アンパンマンの世界でした。

 

生き残るため、食べるために争うのではなく、ほかの誰かに希望を与えるために生きよう、それが「愛と勇気だけがともだち」であり、「アンパンマンは君さ」なのです。

 


 

●号泣必至の名作「いのちの星のドーリィ」

前述の劇場版「勇気の花が開くとき」(1999年)「いのちの星のドーリィ」(2006年)の2作品は、この作品の根幹のテーマが見事に描かれています。

 

特に印象深いのは、当時人気子役だった安達祐実さんが演じる、持ち主に捨てられた恨みから身勝手に生きる人形ドーリィが、アンパンマンに投げつける「アンタは自分の力を自慢して、空を飛んだり人を助けたりしてるだけなんでしょ」というセリフと、それに対して反論もせずニコニコして「そうかなぁ」としか言わないアンパンマンのやりとり。

 

そしてその後、暴走して造り主のばいきんまんの手に負えなくなった巨体メカの吐く火に包まれて、ドーリィを救うために身を呈して黒焦げになったアンパンマン。

いつものルーティンではバタコさんが新しい顔を投げたら再び蘇り「元気100倍」になる…のですが、この時のアンパンマンは本当に命を落としてしまいます。

 

そんなシーンの後ろで、男性合唱団によるカンタータ バージョンの重々しい「アンパンマンのマーチ」が流れるのです。

なんために生まれて
何をして生きるのか
わからないまま終わる
そんなのはいやだ…

 

自分のためだけに身勝手に生きることがほんとうに自由で幸せなのか。人はなんのために生きるのか。

 

やなせさんの思想の根っこが、幼い子どもと、それを育てる親世代に、説教くさくなくじんわりと染みる。だからこんなに長きに渡って愛され続けるキャラクターになったのだろうと思います。

 

▼「アンパンマンのマーチ」弾き語りカバーです

 


 

●やなせたかしさん語録

 

やなせさんに学ぶ点は、その思想だけでなく、遅咲き過ぎるが故の「プロ意識」というか「人生いつからでも遅くなく」そして「やり続けることの尊さ」みたいなものがあります。

美術界では若手にチャンス、仕事を配分する神さまみたいな人、という評価もある一方、大御所になっても決して偉ぶらず、時にギャラなしで地方自治体のキャラクター制作を請け負ったりするために業界の価格破壊に繋がった、と批判する声まで、さまざまあります。

以下に、そんなやなせさんの哲学がわかる名言をいくつかご紹介して終わりにします。

 

「ヘン だれもが解る ごくやさしい表現で 詩や絵や文章をかきたい 通俗の俗でいたい けれどもそれができなくて いつまでたっても なんかヘン やさしいことが むずかしい」

 

「ボクは何をやらせてもおそいし、頭もよくないから、普通の人が三日でわかることが三十年ぐらいかかってやっとわかったりします。いまも勉強していることがありますが何年やってもほんの少しも進歩しないのでおかしくて笑ってしまいます。アンパンマンも絵のほうのこともそんなぐあいにして超ノンビリ超スローモーションでやってきましたが、年月が経ってみるとそれなりの足跡ができていてボクよりもはるかにはやくとびだした人たちがもうリタイアしているのを見ると、自分はあまりきらめくような才能に恵まれなくて良かったかなと思うこともあります。」

 

「つくづく思うんだけど、人生の7割は運です。努力は1割かなあ。売れるか売れないかなんてものも、本人の運。僕も風の吹きようでこうなった。でも、人生が運で決まるならば、その運に巡りあうようにいろんなことをやらなきゃいかん。「これはちょっと自分には向かないんじゃないか」なんて考えないで、ただやることです。」

 

「やっていくなかで巡りあう「人」がすごく大事なんです。僕の人生を振り返ってもそう思う。永六輔に連れられていった舞台美術の仕事で、作曲家のいずみたくと出会った。そしてテレビの仕事でいずみたくに作曲を頼み、僕が作詞したのが「手のひらを太陽に」という歌です。「アンパンマン」を書くきっかけをつくったのだって、やっぱり人との巡りあいだった。 」

 

「新しい世界に飛び込むことはすごいチャンスなんですよ。だから、自信がなくとも何でも引き受けたほうがいい。声をかけられたことは「できない」と断らずに、無理やりにでもやってしまえばいいんです。やっていくうちに身につくから心配しなくて大丈夫。大事なのは、どんな仕事でも一生懸命やること。一生懸命やったことなら、たとえ失敗体験だとしても、後になって全部役立ちます。
全然、縁のなかった絵本を描くことになり、皆が売れないと言っていた「アンパンマン」がヒットする。何がどうつながっていくかはわからない。だから流れに身を任せながらも、来た仕事は一生懸命にやる。ウケるかどうかなんて考えず、自分自身が納得できる作品をつくる。それしかないんです。」

 

「俺、まもなく死ぬんでね(笑)。あと2年、生かしてほしい。そしたら来年は25周年で映画を1本作って、この世にはサヨナラだ!」

 

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