「日本レコード大賞」歴代受賞曲②~昭和の黄金時代から権威失墜の歴史

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昭和の「レコード大賞」黄金時代を、授賞曲・エピソードと共に振り返るシリーズ、その②です。

>①はこちら

 

*歴代レコード大賞受賞曲のYouTube再生リストも作りました。
併せてお楽しみください!
https://youtu.be/2Duf9W4tXTY

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続・黄金時代 1981-1986年 「レコード大賞」受賞曲一覧

 

1981(昭和56)年は、まさにレコ大の創設理念である「その年度を強く反映、代表したと認められた作品」が受賞しました。

 

第23回(昭和56年・1981)「ルビーの指輪」寺尾聰
東芝EMI 作詩/松本隆 作曲/寺尾聰 編曲/井上鑑

 

「ルビーの指輪」は発売から約1か月後から徐々に売上を伸ばし、1981年12月時点で公称売上160万枚の大ヒット。相乗効果で「SHADOW CITY」「出航~SASURAI」もヒットし、TBS「ザ・ベストテン」に3曲同時ランクイン、「ルビーの指輪」は12週連続1位の番組最長記録を達成しました。このヒット後に建てられた溜池山王の東芝EMIビルは「寺尾ビル」と呼ばれました。

 

第24回(昭和57年・1982)「北酒場」細川たかし
日本コロムビア 作詩/なかにし礼 作曲/中村泰士 編曲/馬飼野俊一

 

第25回(昭和58年・1983)「矢切の渡し」細川たかし
日本コロムビア 作詩/石本美由起 作曲/船村徹 編曲/薗広昭

 

「レコ大史上初の二連覇」を達成したのは、過去に惜しくも逃した沢田研二、五木ひろし、八代亜紀ではなく、細川たかしさんでした。「北酒場」は「欽ちゃんのどこまでやるの」(テレビ朝日)で人気に火が付き、受賞時には大将・萩本欽一さんがお祝いに駆けつけました。

 

翌年の「矢切の渡し」は、元々はちあきなおみ「酒場川」(1976 昭和51年)のB面の楽曲。細川たかしさんは「(所属していたバーニング・プロダクションの)周防社長が見つけて来た」と語っています。こうして再び世に出た「矢切の渡し」は、細川の他に10組が歌う競作として計300万枚のセールスを記録。

 

さらに細川たかしさんは翌1984年「浪花節だよ人生は」のカバーも大ヒット。前人未到の3連覇も狙えましたが、最優秀歌唱賞で決着。「さすがにV3はやり過ぎ」との配慮が垣間見えます。

 

第26回(昭和59年・1984)「長良川艶歌」五木ひろし
徳間ジャパン 作詩/石本美由起 作曲/岡千秋 編曲/斉藤恒夫

 

細川たかしさんのV3を制したのは、同じ演歌勢の五木ひろしさん。TBS「ザ・ベストテン」では週間8位止まりながら、年間1位および「12年間ベストテン第1位」を獲得。オリコン売上でも最高位10位、登場週数47週、65万枚を超える売上げを記録したロングセラーでした。

 

第27回(昭和60年・1985)「ミ・アモーレ(Meu amor é…)」中森明菜
ワーナー・パイオニア 作詩/康珍化 作曲/松岡直也 編曲/松岡直也

 

新人時代、賞レースとは縁がなかった中森明菜さん陣営は、この年「レコ大獲得」に本格的に乗り出します。対抗馬は、オリコン売上年間1位の「ジュリアに傷心」など同じく大ヒットを連発していたチェッカーズでした。

 

ところが審査員の中ではCBSソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)に移籍したばかりのマッチ(近藤真彦)有利の声が上がっていたのだとか。共演映画の公開や熱愛報道もあり、“明菜vsマッチの一騎打ち“に話題が集中しますが、セールス実績などでは明菜の圧勝であり、実際に大賞受賞となりました(チェッカーズは「最優秀スター賞」を受賞)。

 

第28回(昭和61年・1986)「DISIRE」中森明菜
ワーナー・パイオニア 作詩/阿木燿子 作曲/鈴木キサブロー 編曲/椎名和雄

 

明菜人気はさらに勢いを増し、「DISIRE-情熱-」で史上2人目・女性では史上初の2連覇を達成。中森明菜さんはこの年、「日本歌謡大賞」との二冠も達成していますが、歌謡大賞は本作ではなく「Fin」での受賞です。

 

一方でこの年、会場を国立劇場から日本武道館に移してさらに豪華さをアピールするなどさまざまなテコ入れを図りますが視聴率が30%を割り込むなど、黄金時代に陰りが見え始めました。

 

意外にも受賞していない山口百恵と松田聖子

 

中森明菜さんと並び「昭和の歌姫」として名高い、山口百恵さんと松田聖子さんの2人は、意外にもレコ大とは縁がありませんでした。

山口百恵 松田聖子

山口百恵さんがレコ大受賞にもっとも迫ったのは1978年「プレイバックPart2」。しかし人気絶頂のピンク・レディ「UFO」が強すぎました。実は、百恵さんは他の音楽賞もノミネート止まりで、1つもグランプリ相当の賞は獲得していません。

 

これは80年代に数々のヒット曲を立て続けにヒットさせた松田聖子さんも同様で、所属していたサンミュージックの名誉顧問 福田時雄氏は当時を振り返り「80年代は演歌の方々、ジャニーズの方々もいましたし、うちの事務所の力不足」と語っています。

 

衰退期~1987-1990年 「レコード大賞」受賞曲一覧

 

第29回(昭和62年・1987)「愚か者」近藤真彦
CBSソニー 作詩/伊達歩 作曲/井上堯之 編曲/戸塚修

レコ大の権威失墜と人気凋落のきっかけになったのが、この1987(昭和62)年でしょう。

 

この年は史上初の3連覇を狙う中森明菜「難破船」、オリコン年間シングルチャート1位の瀬川瑛子「命くれない」、TBS「ザ・ベストテン」年間ベスト1位の五木ひろし「追憶」が本命視されていました。ところが受賞したのはまさかのマッチ・・・。

 

「愚か者」はオリコン年間シングルチャート35位。「目に余るジャニーズのゴリ押し」と批判が集まります。

 

さらには授賞式直前に近藤真彦の母親の遺骨が何者かによって盗まれ、ジャニーズ事務所に「レコード大賞を辞退しろ」との脅迫状が送られる事件まで発生しました。

近藤真彦_遺骨盗難事件

 

2019年、音楽プロデューサーの福田裕彦氏が、ツイッターで亡くなったジャニー喜多川さんの訃報に際し「もう25年以上前、『××にレコ大よこさなければ今後お前の局にはうちのタレントは一切出さない』の一言でレコ大放送の数日前に局の決定事項をひっくり返せた人です(事実)。綺麗事で生きていた人ではない。まさに大権力者。美辞麗句は似合いません。合掌。」とつぶやき、「この時のことでは?」と話題になりました。

 

第30回(昭和63年・1988)「パラダイス銀河」光GENJI
ポニー・キャニオン 作詩/飛鳥涼 作曲/飛鳥涼 編曲/佐藤準

 

結果的に昭和最後の日本レコード大賞となった1988(昭和63)年。前年のマッチ受賞で勢いに乗るジャニーズは、この年デビューした光GENJIの3rdシングル「パラダイス銀河」で事務所として2連覇を達成(ちなみに最優秀新人賞も男闘呼組「DAYBREAK」)。

 

もっともこの年の光GENJIの人気は凄まじく、オリコンチャート5週間連続で1位を独走、年間売上ランキング1位も獲得していたので、納得感は高かったように思います。

 

この年は昭和天皇の病状に配慮し国内に自粛ムードが広がり、日本歌謡大賞・日本テレビ音楽祭・全日本歌謡音楽祭は開催を中止。菊池桃子ら賞レースを辞退する歌手も増えて、世間で「賞レース不要論」が巻き起こります。

 

視聴率は前年から7.7ダウンの21.7%。この年を最後に、20%超えはなされていません。

 

第31回(平成元年・1989)「淋しい熱帯魚」Wink
ポリスター 作詩/及川眠子 作曲/尾関昌也 編曲/船山基紀

 

そして平成の幕開けとなった1989年。「レコ大」にさらなる逆風となる事態が、立て続けに起こります。

 

1つ目がそれまで夜9時開始だった「NHK紅白歌合戦」が二部制を導入、7時20分スタートに変更したこと。

 

「レコ大」と時間帯がかぶる第1部は「昭和を振り返る」懐メロ企画でしたがその影響は大きく、レコ大の視聴率は14.0%まで下落しました。

 

2つ目が中森明菜・近藤真彦の「金屏風会見」です。

 

この年7月、近藤の自宅で自殺未遂し活動休止中だった中森明菜さんは「紅白復帰」オファーを断り、よりによって大晦日のこの時間帯に、釈明会見を開きます。

 

この模様はテレビ朝日系特番で生中継され、近藤真彦さんの同席、背景に金屏風であることで「婚約発表なのでは」との臆測を呼び、高い注目を浴びました。

明菜金屏風会見

 

そして3つ目が、この年に亡くなりレコ大受賞を本命視されていた美空ひばりさん「川の流れのように」ではなく、Winkが受賞したことです。

 

「故人の歌手に大賞を与える」ことに前例がないため審査がまとまらず、「最優秀新人賞」のマルシア、「最優秀歌唱賞」の石川さゆり、この年新設された「美空ひばり賞」の松原のぶえが全員コロムビアレコード所属で「コロムビアの総獲りになってしまう」との背景もあって、「最終的に多くの票がWinkに流れた」と言われています。

 

美空ひばりさんには「特別栄誉歌手賞」が贈られ、Winkもこの年の年間ベストテンで3曲ランクインするほどの人気でしたので、それほどおかしな差配とも言えないのですが・・・

 

「レコ大の権威」という視点で”大御所”の美空ひばりさんと”新人”のWinkを同列で比べることや、一般曹には関係のない「所属レコード会社」が投票に影響したこと、昨年も受賞しV2を狙うもう1組の大賞候補者が光GENJIだったことなどなどが重なり、違和感を覚えた人が少なくなかったのです。

 

この一件が、翌年からの「演歌・歌謡曲部門」「ポップス・ロック部門」への分割につながります(ちなみにこの年の年間チャートは、1位と2位がプリンセス・プリンセス、3位は長渕剛、4位は光GENJI、5位がWinkでした)。

 

第32回(平成2年・1990)

「恋歌綴り」堀内孝雄
ポリスター 作詩/荒木とよひさ 作曲/堀内孝雄 編曲/川村栄二

 

「おどるポンポコリン」B.B.クィーンズ
BMGビクター 作詩/さくらももこ 作曲/織田哲郎 編曲/織田哲郎

 

この年からレコ大は「歌謡曲・演歌部門」と「ポップス・ロック部門」の2部門制を導入、それぞれで大賞や新人賞、歌唱賞などを選ぶようになります。この2部門制は3年間続き、現在ではもっぱら「悪手」「迷走」と言われています。

 

「賞の権威が半分になる」ことに加えて、近年めっきり旗色が悪くなった「歌謡曲・演歌勢への忖度」が丸見え。創設時に目指した「作曲、作詩、編曲を通じて芸術性、独創性、企画性が顕著な作品とする。優れた歌唱によって活かされた作品で大衆の強い支持を得た上、その年度を強く反映、代表したと認められた作品に贈る」という理念を、自ら棄ててしまう“愚挙“でした。

 

さらにはこの2部門制は「ジャニーズ勢の撤退」も招きます。1990年「お祭り忍者」でデビューした忍者が「歌謡曲・演歌部門」での受賞を望んだにも関わらず「ポップス・ロック部門」に回されたことに不満を覚え、これが「ジャニーズが賞レースからの撤退を決めたきっかけの1つ」とされています。

 

第36回(1994年)は、大賞受賞のMr.Childrenが欠席という異常事態。大賞受賞者が欠席したのはこの1回のみで、この年から会場がTBS放送センターとなりました。

 

第46回(2004年)からは紅白や「年忘れにっぽんの歌」の出演で渋谷のNHKホール、新宿コマ劇場とを移動する出演者への配慮で、会場を新国立劇場(渋谷区)に移します。

 

第47回(2005年)には視聴率が過去最低の10.0%を記録。常連スポンサーの多くが降板します。第48回(2006年)からは裏番組とのバッティングを解消すべく開催日を1日繰り上げて12月30日に変更。代わりに大晦日には総合格闘技番組が放送されました。

 

その後の「レコード大賞」

 

ここからのレコード大賞は、衰退を通り越して、暗黒期といってもよいでしょう。

 

1995年からはTRF、安室奈美恵、globe、浜崎あゆみ、倖田來未、EXILEなどエイベックス勢と、AKB48、乃木坂46らがレコ大を占拠します。

 

そして2016年、週刊文春が「レコ大」受賞を巡り「三代目JSB (J Soul Brothers)が所属する株式会社LDHと、大手芸能プロのバーニング・プロダクションとの間で1億円の買収取引があった」と報じ、証拠となる請求書の写しを公開。

 

2015年に約180万枚を売り上げたAKBを退けてセールス20万枚の三代目JSBが2015年のレコ大を受賞した裏に、芸能界のドン、バーニング・プロダクション社長の周防郁雄氏による「私物化」があると話題を呼び、レコ大の最高責任者(公益社団法人・日本作曲家協会の7代目会長、レコ大制定委員長)の叶弦大氏が謝罪する事態となりました。

 

ところが「決定的証拠」が出たこの記事は、「バーニングタブー」によって大手メディアに“黙殺“されたばかりか、子飼いマスコミに「私物化しているのは叶氏である」という論調の記事が掲載されるという、”報復措置”が発動。そして翌2016年のレコ大はバーニング推しの西野カナが受賞、というオチまで付きました。

 

そして今度は週刊文春2017年11月30日号で叶氏自らが「レコード大賞を私物化したあの男は許せない」として周防氏を糾弾。叶氏がさまざまなレコ大「改革」を試みたものの、ことごとく周防氏により潰された経緯が語られています。

週刊文春_叶氏告発 週刊文春_叶氏告発

 

これだけコンプライアンスと言われる時代にも関わらず、もはや自浄作用は期待できず、権威失墜どころか「受賞したらイメージダウン」の“罰ゲーム“化しているレコード大賞。

 

かつては「レコ大の国立劇場から紅白のNHKホールまで出演者を乗せた車が移動する際、信号機が全部青になった」とまで言われた国民的番組時代を知っているだけに、現在の有様は残念極まりないです。

 

冷え切った世間の目をよそに、“業界の論理とニーズ”を根拠に、これからもこのまんま、続いていくのでしょうか・・・。

 

おまけ TBS「輝け!日本レコード大賞」歴代司会者

 

歴代最多の司会者は堺正章さんの16回(1996~2011年)。

堺正章

2位が高橋圭三さんで15回(1969~1983年)。

高橋圭三

現役の安住紳一郎アナウンサーは、2012年から11回となっています。

安住紳一郎

 

このほかには森本毅郎さん、関口宏さん、西田敏行さん、板東英二さん、布施明さん、神田正輝さん、宮本亜門さんらが務めています。

コメント

  1. 大石良雄 おおいしよしたか 本名 より:

    拝啓 よろしくお願いいたします。今回の自分の寄稿に対して「もう少し、科学的な論理的な音楽的な反論や事実や証拠」が来るものと期待しておりました。
    *「日本レコード大賞とドラえもんSPとの視聴率因果関係は現在、さほど認められない」
    これは現在手元に在るデータ検証が「正しいもの」としたらの前提条件ですが、少なくとも「大晦日12/31にドラえもんSPが日本レコード大賞を脅かしたのか?」の事実は確認できませんでした。この「ドラえもん」は元々自分が高1の1973年NTVで初回放映後にトラブルや不人気で半年で消滅。その後TVAで1978年にリメイクされて今日に至るが、下記の方が言われる「大晦日ドラえもんSP初回放送が1980年=視聴率は?」この時の同時放映の日本レコ大は視聴率=34%。
    此の翌年の1981年より87年まで毎年12/31大晦日のドラえもんSPは、手を変え品を変えて延々と続くわけですが、ドラえもんSPの視聴率もなかなかのものでしたがしかし「日本レコ大の視聴率も1981年=35%をキープし、以後87年まで悪くて20%、良くて30%をキープ」していました。
    88年にはどらえもん一本のみで大晦日復活し、この時のレコ大は21%と言う微妙な数字でした。この後必ずしも大晦日にこだわらずに前日放映に移動したり、95年から再び大晦日になりましたが、この時のレコ大は17%とかなり低い数字でした。なお「ドラえもんの視聴率としては1983年2/11=31%(VR調べ)となり80年代は平均視聴率20%とかなり善戦していた事は確かでした。この数字が正しいとして言えます事は「必ずしもドラえもんが日本レコ大を、驚異のごとく脅かしていた?とは考え難い」状況です。またこの「大晦日ドラえもんSPは必ずしも新作では無くて過去旧作の編集再放送」であり更に途中から「パーマン等の応援」もあったりして、「ドラえもんと言うよりも藤子不二雄劇場」と言えましょう。またひとつ?なのは「当時は急激に録画機=VTR(アンペックス商標=ビデオレコーダー=B&VHS)が急激に一般に普及してきた頃でした。自分は977年からB一号機を更に1980年からはVHSをと使い始め、これは一説によれば例の「洗濯屋ケンちゃんビデオ」を見たいがためにビデオレコーダーが普及し始めた?のが本当としたら1982年頃にはかなりの録画機が家庭に浸透していました。確かに当時から自分の様に馬鹿みたく10数台の録画機を抱えて馬鹿にされていた?のも実は結構仲間がおりましたし、あの「大瀧詠一師匠等は常時30台の録画機が作動していた」との情報もあります。
    つまりもうこの当時は「別段無理して=昔言われたチャンネル争いなんてぇ死語はもう無くて、一度録画して後からじっくり見る」文化は定着していたと思われます。ましてや暇な正月ですから時間は在ったでしょう。つまり「ドラえもんにしろレコ大にしろ、実はもっと沢山の通称視聴者達が見ていた」と。この当時は録画までのリサーチは無かったですからね。
    確かに「ドラえもんや藤子不二雄はかなりレコ大に影響を及ぼし、それなり以上のインパクトを与えた事は事実だが、日本レコ大を完膚なきまでに駆逐する事は出来なかった」と。
    現在の自分なりのリサーチではそう結論付けられます。サイトへっと様、ご訪問の皆様方の科学的論理的音楽的なご意見、ぜひお願い申し上げます。

    後の88年は21%でした

  2. アンジェラマオ より:

    いつもこの話題に対して思う事があるんだけども、なぜ80年代に大晦日ドラえもんスペシャルが放送開始された影響を語らないんだろうか。
    レコ大の衰退の最大の原因は、これでしょう?だってこれ以降いずれかの世代から、大晦日にレコード大賞を見るという習慣が途絶えた筈なんですよ。だって子供の世界で藤子不二雄に勝てる人間等80年代の歌謡界、音楽業界に誰一人いませんから、ドラえもんの影響はとてつもなく大きかった筈ですよ。

  3. 大石良雄 おおいしよしたか 本名 より:

    拝啓 サイトヘッド(SH)様、ご訪問の皆様には久々大変興味深い話題に感謝し、参加させて頂きます。
    *「レコ大始め各種様々な音楽祭 全ては昭和の遺物/魑魅魍魎の跋扈/銭の切れ目が縁の切れ目」
    ご承知の通り過去、日本国内には「レコ大、歌謡大、東音際、世歌謡祭」等など実に百花総覧であり思えば日本が一番良くて輝いていた時代でした。不思議と解るのは例の「泡がはじけてぶっ飛んだ頃=1990年代初期にほぼ全ての音楽祭が、何かと表面上にはもっともらしい=こざかしい言い訳を取り繕っては消えて」行きました。何を言おうと「銭金の切目が縁の切れ目」でした。
    何せ当時は今日とは異なり大半全て「アナログ時代」であり今日では考えられもしない贅を尽くした舞台構成と、弦や特殊楽器まで入れた大編成の伴奏オケ、更に途中のバンド/オケの交代なんかも在り、まぁ銭金が無くてはどうしようもない時代でしたが、良い時代でもありました。
    *「上記の本文やSH様の文章にもある通り、根幹を牛耳っていたのは昭和の魑魅魍魎」
    つまり、今日の日本の政治と同じであり、実に21世紀も此処まで来て、更に平成の世も終わり令和も数年経過してきたにも関わらず「未だ昭和時代を引きずる爺婆の魑魅魍魎が、政治の根幹に居座り続け、更にエンタメの根幹すらも魑魅魍魎が巣食うこのていたらく」こそ諸悪の根源なのですね。(お詫び=これを書かせて頂いている自分もいよいよ後期高齢者の仲間入りを果たす昭和の戦犯?の一人として、改めましてお詫び申し上げます)
    *「ご承知の通り、芸術スポーツ医療等全て根幹は政治であり純粋な物等は一切存在しない」
    これが、実にこの問題を1970年から52年かけて考え議論して来た自分の結論でした。情けないと反省しております。本当に純粋であれば、決して上記の様な事は起こらなかったはず。
    此処に「根幹を牛耳る魑魅魍魎の私欲思念」が存在し、己が実は裸の王様である事にすら気づかずに牛耳ろうとする。まさに醜く化け物そのものでありましょう。しかしながらそんな中でも不思議とこの「レコ大」だけは存続し、よくもまぁ此処まで続いたなぁと感心いたします。
    まぁよっぽど何か、潤うのか?止められない何かが在るのか? 不思議です。
    *「SH様のご意見に一部異論在り=ジャンルで賞を分離するのは必ずしも忖度?とも言えない」
    この忖度だか二宮尊徳だか損得だかの言葉は大嫌いですが、そもそも「レコ大の基準が何なのか?」にもよりますが、どんなジャンルをも超えて一番売れたってぇのを賞するのならば、まぁ良いと思われますが、これは極論を申せば「クラシックとポピュラーをごった煮で考える事」にも繋がるのでは?と。正直年々パイの狭まるクラシックと、大衆受けするポピュラーとは当然違う。やはりどうしても「同じ歌謡曲としても、J-Pop(当時は和製ポップス) 演歌(更に細分化すれば、ド演歌/ポップス演歌に分離) を一緒くたにして味噌も糞もドミソも一緒と言うのは、何か少々無理があるかなぁとも思われるのですが、、、ぜひぜひSH様やご訪問の皆様の厳しいご意見を頂戴したいです。
    *「全て昭和が駄目で捨てるのでは無く、良き物は残し改良発展させ駄目な物は容赦無く切れ」
    此処が今、日本が一番解っていない愚かな点です。これには早急に少なくとも「平成」生まれの者達が早く政治中核の実権を握り、昭和の魑魅魍魎を殲滅させる事こそ大切です。
    そうすれば、間違い無く日本の音楽業界も変わる。驚くのはあまりの急激な状況変化のテンポの速さであり、予想以上に速く「現行の放送法改正=NHKの解体 電波オークション、キー局の消滅」等も充分に予想される事態となりました(何より本家手本のBBCが数年後に大改革と場合によってはそれ以上の激変が計画されている) もう何時までも過去のノスタルジーにふける暇や余裕など一切無い。自分も昭和を引きずる魑魅魍魎の一人として反省し、少しでも良い状況にしたいと努力いたします。またよろしくお願いいたします。 敬具

  4. UGS より:

    こんばんは。
    レコ大について色々言いたい事はあるのですが、絞って書き込みます。

    まずマッチの受賞ですが、私も当時のゴリ押し感が凄まじかったのを覚えています。
    そして何より、「愚か者」は誰の曲なのかと今私に聞かれたとしたら、それはどう考えても「ショーケンの曲」と答えます。
    当時私は中学生であり、ショーケンも愚か者(よ)を歌っているとどっかで聞いた事があったのかもしれませんが、当時ショーケンがこの曲をテレビで歌っているのを一度も見た事がなく、何十年も経ってからYouTubeで初めてその映像を見たと言う感じです。
    なので競作と言う意識が全くありませんでした。
    つまりマッチの「愚か者」でのレコ大受賞は、ショーケンを上手く利用して&抑え込んでまでマッチの曲として世間を用意周到に誘導した結果であると言えるかもしれません。
    とにかくマッチ(と言うかジャニー氏)の為にショーケン(元テンプターズ)だけでなく、バックバンドの井上堯之さん(作曲者、元スパイダース)、ミッキー吉野さん(元ゴダイゴ)、樋口晶之さん(元クリエイション)等と言ったそうそうたる顔ぶれまでもが噛ませ犬に使われたのかと思うとかなり憤る部分もあります。

    一方、90~92年の2部門に分かれて大賞新人賞を決める件ですが、これは止むを得ない措置だと捉えています。
    それこそマッチが大賞を受賞した後くらいから「J-POP」なるものが突如音楽界を席巻し出し、CDがめちゃくちゃ売れると言った現象が起き始めますね。
    そうなると演歌・歌謡曲とJ-POP(ロック含む)を旧来の基準で横比較する事が大変難しくなったので両者を分けて評価せざるを得なくなったのかもしれませんね。
    そこは理解しております。

    と言った感じで自分の思っている事は素直に書き込もうと考えておりますので、これからも宜しくお願い致しますm(_ _)m

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