「ホテルニュージャパン火災」~1982 東京赤坂で未明の大炎上

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今回は昭和史に残る大事件、1982(昭和57)年の「ホテルニュージャパン火災」を取り上げます。

 

逃げ遅れた宿泊客が窓から助けを求める火災の悲惨なニュース映像は、この翌日の「日本航空350便墜落事故(K機長の逆噴射)」と併せ、当時小学6年だった私の記憶に鮮明に残っています。

後に赤坂の会社に勤務した私は、よくこの場所を通りました。そして、ここがかつて力道山が刺された場所だったことを知りました。

 

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火災事件の概要

 

1982年(昭和57年)2月8日未明、東京 赤坂見附駅前のホテルニュージャパン(地下2階、地上10階建)で大火災が発生。出火から約9時間も燃え続け、7階から10階を焼損。死者33人、負傷者34人を出す大惨事となりました。

 

 

その後、経営者である横井英樹氏の杜撰な防火対策などが公となり、大バッシングに。横井氏は消防からの注意義務に違反して被害を拡大させたとして刑事責任を問われ、「業務上過失致死傷罪」で禁固3年の実刑判決を受けました。

 

ホテルの成り立ち

 

この敷地は二・二六事件の際、部隊が立ち寄った日本料亭「幸楽」の跡地でした(戦時中、撃墜されたB-29が直撃、大破全焼)。

 

元々は藤山愛一郎氏率いる藤山コンツェルンが設立母体となり、高級レジデンス(当時はアパートメントと称された)として着工。

 

その後、1964年東京オリンピック開催や高度経済成長期に急増した宴会などコンベンション需要の増加を当て込みホテルに用途変更。1960(昭和35)年に開業しました。

 

 

他に先駆けた「都市型多機能ホテル」であり、TBSやNET(現 テレビ朝日)、国会議事堂からも近く、市川雷蔵が結婚披露宴を挙げ、1968年来日のモンキーズが宿泊。自由民主党藤山派や松野頼三氏が事務所を構えるなど芸能界、政財界との結びつきが強いホテルでした。

 

その後、ホテルニューオータニ、ホテルオークラ東京、東京ヒルトンホテル(後のキャピトル東急ホテル)、赤坂東急ホテルなどが続々と建設されると、経営面で苦戦を強いられました。

 

 

力道山が刺された場所

 

敷地の地下には高級ナイトクラブ「ニューラテンクォーター」があり、豪勢な社交場として政財界や芸能界の大物が、多く出入りしていました。

 

そう、1963年に力道山が暴力団員に刺され、搬送後の病院で死去した事件の舞台です。

 

このナイトクラブはホテルとは別経営で、ホテル廃業後も1989年まで営業を続けていたそうです。

 

横井英樹氏による”独裁”

 

赤字決算が続いた結果、大日本製糖の大株主である横井英樹率いる東洋郵船がホテルニュージャパンを買収。横井氏自らが社長に就任しました。

 

 

しかし横井氏はホテル経営については完全な素人。宴会場やロビーにシャンデリアやフランス製の古家具を置くなど、表面上は豪華さを演出する一方、社内では人員整理、経費削減などセオリー無視の徹底した合理化策を強行します。

 

「利益第一主義」を掲げた横井氏の“独裁“に退職者が続出。当初300名いたホテル従業員は130名になり、火災発生当夜の当直従業員は、わずか9人でした。

 

利益第一の横井氏は、安全対策予算も削減。館内のスプリンクラーはハリボテ、消防設備や館内緊急放送回路も故障したまま放置、改正消防法で定められた防火扉の設置も行っていません。

 

消防当局や専門業者による防火査察や設備定期点検も拒否し続け、東京消防庁麹町消防署より再三にわたり「館内防火管理体制改善」指導を受けていましたが、無視していました。

 

刑事裁判の記録によれば「社長の横井英樹は消防当局より『当時のホテルニュージャパンは建物の老朽化が著しかったため、改正消防法に適合させるにはスプリンクラーや防火扉などの新設のみならず、館内の電気設備や給排水設備の全面改修も必要である』旨を知らされていた。しかし横井は、関係当局や部下からの進言、勧告、上申に対して聞く耳を一切持たずに無視し、専ら儲けと経費削減のみで安全対策への投資はしない方針を貫いていた」と書かれています。

 

火災の状況

 

火元は938号室、外国人宿泊客のタバコの火の不始末が原因とされています。

 

従業員による非難誘導もなく、加湿空調も予算削減で止められていたため館内の空気がカラカラに乾燥、客室内の内装にはベニヤ板に壁紙を貼った可燃材が使われており、防炎加工なしの化繊を用いた絨毯やカーテン、シーツ、毛布類も使われていたことから、延焼した際に可燃性の有毒ガスが大量発生。

 

 

都心のど真ん中、深夜の大火災に消防はポンプ車48台、はしご車12台、救急車22台、ヘリコプター2機を出動させ、総勢650名の消防職員と隊員が、懸命の消火救助にあたりました。

 

 

その結果、宿泊客63名を救出しましたが、実に33名が亡くなりました。逃げ場を失った宿泊客が窓から助けを求め、転落する映像に世間は戦慄を覚えました。

 

 

横井氏への猛バッシング

 

社長である横井英樹氏は火災発生翌日、現場に蝶ネクタイ姿で登場。報道陣に拡声器で「本日は早朝よりお集まりいただきありがとうございます」「9階10階のみで火災を止められたのは不幸中の幸いでした」などと空気の読めない不謹慎発言を連発。「悪いのは火元となった宿泊客」と責任転嫁するコメントを発して、世間の反感を買います。

 

さらに火災当時、人命救助よりもホテル内の高級家具の運び出しを指示したと報じられ、連日ワイドショーをはじめとしたマスコミの猛バッシングを浴びました。

 

難を逃れたビートたけし&吉本芸人

 

 

ビートたけしさんは「火災当日にホテルニュージャパンに宿泊しようとしたが持ち合わせがなく、やむを得ず新宿在住の高田文夫さんに金を借り、そのまま新宿プリンスホテルに宿泊して難を逃れた」と明かしています。

 

また、当時吉本興業が東京での定宿としてホテルニュージャパンを利用していましたが、事件の数ヶ月前に6代目桂文枝さんが「廊下が霞がかっていたり、寝つきが悪い」「追加料金を出すから宿を代えてくれ」と頼み、それ以降、吉本は当ホテルを使わなくなっていました。

 

その後のこの場所は

 

火災後、東京都より営業禁止処分を受け、ホテルは廃業。

 

横井氏に対し多額の貸付を行っていた千代田生命保険が競売により売却することで資金の回収を図ろうとしましたが、いわくつきのこの土地を購入する投資家は現れず。結局、千代田生命が自己落札して敷地を保有することになりました。

 

その間、都心のど真ん中で廃墟のまま放置され続けましたが、14年後の1996年、ようやく建物が解体。

 

その千代田生命も2000年10月に経営破綻し、その後、プルデンシャル生命がこの土地と建設途中のビルを買収。森ビルと共同でオフィスと外国人向け高級賃貸住宅から成る「プルデンシャルタワー」として再開発し、2002年12月にオープンしました。

 

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