「PWFの歴史」〜1973-1989 ジャイアント馬場、昭和 全日本プロレスの看板タイトル


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今回は昭和の全日本プロレス、ジャイアント馬場の代名詞タイトル「PWF」について、その発足から1978年〜79年の激しい王座移動劇を中心に、三冠統一までの歴史をご紹介します!


 

「PWF王座」とは?

 

1972(昭和47)年、日本プロレスを離脱、独立したジャイアント馬場が10月20日、力道山(百田)家から、力道山ゆかりのチャンピオンベルトを寄贈されました。

 

馬場はその王座を「世界ヘビー級王座」として争奪戦を提唱。10月22日のブルーノ サンマルチノ戦を皮切りに、テリー ファンク、アブドーラ ザ ブッチャー、ザ デストロイヤー、ウイルバー スナイダー、ドン レオ ジョナサン、パット オコーナー、ボボ ブラジル「王座争奪十番勝負」を行います。

 

そして1973(昭和48)年2月27日、王座争奪十番勝負を8勝0敗2分(引き分けたサンマルチノとスナイダーとは再戦して勝利)で終えた馬場が、王座を獲得。

 

3月16日、馬場はPWF(パシフィック レスリング フェデレーション:環太平洋太平洋レスリング同盟)を設立。初代王者となりました。

 

この年の2月3日、馬場率いる全日本プロレスが当時世界最大規模のプロモーター組織、NWA(ナショナル レスリング アライアンス)への加入が認可されたため、翌年1月には「世界」を外し、「PWF認定ヘビー級王座」に。

以降、「NWAが認可し、PWFが認定する」が決まり文句になりました。

 

以降、1985(昭和60)年頃まではジャイアント馬場の代名詞に。

1981(昭和56)年には「力道山直伝の至宝」インターナショナル王座も全日本プロレスで復活しましたが、馬場はあくまでPWF王座にこだわりました。

 

そして1989(平成元)年、PWF王座がインターナショナル王座、UN王座と共に統一され「三冠統一ヘビー級王座」となるまでの約16年間にわたり、「全日本プロレス」の看板タイトルとして計15代、9人のチャンピオンが誕生しました。

 


 

PWFといえばロード ブレアース!

 

PWFは団体ではなく「タイトル管理協会(?)」で、その実態は「=会長ロード ブレアース」。

ブレアースは元レスラーでハワイのプロモーター。ハワイが大好きな馬場さんがハワイに行く口実が欲しくて、“ハワイありき“での人選なんでしょうね。

 

創世記の全日本プロレス、ジャイアント馬場や倉持アナウンサーの言う「PWF本部に連絡して〜」は「ブレアースの家に電話して相談するわ」という意味で、「本部」とはブレアースの自宅だった、のだとか。

白髪の”ブレアースおじさん”はタイトルマッチのたびに頻繁に来日して、恭しくタイトルマッチ宣言を行い、ベルトを預かって本部席で観戦するという、なんとも羨ましい”名誉職”でした。

 


 

独特なPWFルール

 

特長は、場外リングアウトが10カウントであり、反則を含むあらゆる負けでタイトルが移動する点。

当時の一般的なタイトルマッチ ルールは「場外20カウントで、反則絡みではタイトルは移動しない」というもの。

馬場さんの慎重なキャラに似合わない、アグレッシブなルールがPWF王座の特長でした。

 


 

初期のWタイトル戦

 

初代王者、ジャイアント馬場は持ち前の政治力で、PWF王座と世界王座とのダブルタイトルを実現させています。

 

1974(昭和49)年1月と12月には、時のNWA世界チャンピオン、ジャック ブリスコと。12月の試合は馬場が日本人初のNWA世界チャンピオンとしての初防衛戦で、わざわざPWFも賭けてWタイトル戦とした辺りが馬場さんらしいですね。

 

そして1975(昭和50)年5月には、盟友ブルーノ サンマルチノの持つWWWF世界王座ともWタイトル戦を行っています。

 

これらは初期PWF王座の“箔付け“に一役買いました。

 


 

意外な2代目チャンピオン

 

1978(昭和53)年6月1日
秋田県立体育館

 

この日、ジャイアント馬場が5年間続けた39度目(!)の防衛に失敗。

2代目チャンピオンに輝いたのは伏兵の“流血大王“キラー トーア カマタでした。

カマタは「東洋系のブッチャー」的なキャラで、カラテ殺法とトップロープからのフライング ソーセージを得意とする悪役レスラー。この戴冠は予想外で、当時かなり衝撃的でした。

 

ただ、この試合は両者反則から馬場暴走の反則負け、という決着で、解説の田鶴浜御大は「ぼ、没収試合にすべきだなこりゃ」と憤っておられました(笑)。

 


 

3代目は人間風車

 

1978(昭和53)年6月12日
愛知 一宮市産業体育館

 

カマタの初防衛戦は、vsビル ロビンソン。20分を超える熱闘の末、見事なワンハンド バックブリーカーでロビンソンが勝利、3代目チャンピオンに輝き、カマタは僅か11日天下に終わりました。

国際プロレスのエースから憎きアントニオ猪木の新日本プロレスを1シリーズのみ経由して全日本プロレスに登場したロビンソンには直接負けられない馬場としては、ワンポイントでカマタを挟んだ格好。

 

ベビーフェイスとベビーフェイス チャンプの間にヒールのワンポイント、というのはプロレス界では定番で、WWFタイトルでのブルーノ サンマルチノ→スーパースター ビリー グラハム→ボブ バックランドや、ボブ バックランド→アイアン シーク→ハルク ホーガンが有名ですね。

 


 

4代目は黒い呪術師

 

1978(昭和53)年10月18日
栃木県体育館

 

5度の防衛を果たした王者ロビンソンに、アブトーラ ザ ブッチャーが挑戦。この試合は3本勝負で行われ、1-1で迎えた3本目、ロビンソンの膝の負傷によりレフェリー ストップで2-1でブッチャーの勝利、4代目チャンピオンに。

ブッチャーは1976(昭和51)年のチャンピオン カーニバル優勝に続く栄冠でした。

 


 

アメリカで馬場奪還

 

1979(昭和54)年2月10日
アメリカ イリノイ州シカゴ
インターナショナル アンフィシアター

 

王者ブッチャーに挑戦した馬場ですが奪回に失敗。再挑戦の舞台は海を渡り、アメリカ シカゴでの海外遠征でした。

この時の両選手の入場BGMが「スターウォーズ」のディスコ アレンジだったのが、時代を感じさせます。

 

この試合は1-1からの決勝の3本目でブッチャーが自らリング下へ転落してリングアウト負け。

馬場がタイトルを奪還し、5代目チャンピオンに返り咲きました。

 

ちなみに、この年は8月26日に「夢のオールスター戦」が開催された年です。

 


 

これ以降のPWF王座の変遷

 

第6代 ハーリー レイス

1982(昭和57)年10月26日、帯広で馬場から奪取

第7代 ジャイアント馬場

1983(昭和58)年2月11日、アメリカ ミズーリ州セントルイス キールオーデトリアムで馬場がタイトル奪回

 

第8代 スタン ハンセン

1983(昭和58)年9月8日、千葉で馬場から奪取

第9代 ジャイアント馬場

1984(昭和59)年7月31日 東京 蔵前国技館、馬場のスモール パッケージ ホールドでハンセンからタイトル奪回

 

第10代 スタン ハンセン

1985(昭和60)年7月30日、福岡スポーツセンターで馬場から奪取。馬場はこの試合をもってPWF戦線から退きました

 

第11代 長州 力

1986(昭和61)年4月5日、横浜文化体育館でハンセンから奪取

この試合はAWAとPWFの二冠を賭けた試合でしたが、ハンセンの反則暴走でPWFのみが長州に移動、というなんとも微妙な決着。しかしながら新日時代の両者の立場を考えると、長州も出世したものです。

しかし翌1987(昭和62)年3月、長州の新日プロ復帰のため王座を剥奪されました

 

第12代 スタン ハンセン

1987(昭和62)年4月24日、横浜文化体育館での王座決定戦で輪島大士を破り、ハンセンが王座返り咲き

 

第13代 天龍源一郎

1988(昭和63)年3月9日、横浜で天龍のUN(ユナイテッド ナショナル)とのダブルタイトル戦

天龍がスモールパッケージホールドで勝利し、PWF王座を初戴冠

第14代 スタン ハンセン
1988(昭和63)年7月27日 長野で天龍とのリターンマッチ

ハンセンがPWFとUNの二冠王に

 

第15代 ジャンボ鶴田

そして1989(平成元)年4月18日、東京、大田区体育館でインターナショナル王者のジャンボ鶴田が、ハンセンからPWF、UN王座を奪取し三冠王座を統一

 

以降は「三冠ヘビー級王座」の一つとなり、PWFの歴史は奇しくも昭和の終わりと共に、その幕を閉じました。

 

このPWFを含む3本のベルトは老朽化と損傷が激しくなり、2013年に馬場家(元子夫人)に返還され、馬場家が管理することになりました。元子夫人も亡くなられた現在、しっかり管理してほしいものです。


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