マクガイヤー兄弟〜1974-1978 昭和の新日本プロレス創世記を支えた異色の巨漢双子コンビ

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今回は、新日本プロレス創世記を支えた異色のタッグチーム、マクガイヤー・ブラザーズ(マクガイヤー兄弟/マクガイヤー・ツィンズ)を取り上げます。

 

 

昭和の時代、「ストロングスタイル」を標榜し、華やかな全日本プロレスに比べ遊びのない、シリアスな路線でファンの支持を得た新日本プロレスですが、時折り「プロレスらしい」わかりやすいギミックや、キワモノ、イロモノ的なキャラクターもリングに登場しました。

 

こうした“わかりやすさ“、“振り幅の広さ“は、地方を含めて全国でチケットを売ってナンボ、の興行会社として、必要不可欠な要素です。

 

中でもこの“デブの双子“マクガイヤー・ブラザーズは、その見た目とミニバイクに乗って登場する入場シーンが当時流行の“世界ビックリ人間“、8時だよ!全員集合に登場する「ジャンボマックス」のようなインパクトがあり、当時のちびっこファンの記憶に鮮明に残っています。

 

 

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マクガイヤーブラザーズとは

 

ビリー・レオン・マクラリー(1946 年 12 月 7 日 – 1979 年 7 月 14 日)
ベニー・ロイド・マクラリー(1946 年 12 月 7 日 – 2001 年 3 月 26 日)

 

身長、体重は2人とも188㎝、300㎏前後の超巨漢の双子のコンビ。プロレス界にありがちな「ビジネスブラザー」ではなく、正真正銘の双子。海外では「マクガイヤー・ツィンズ」と呼ばれています。

 

2人は双子として、ノースカロライナ州ヘンダーソンビルで生まれました。

 

体重が増え始めた原因は、4 歳のときにかかった風疹による、脳下垂体の問題だったそうです。両親は身体活動を増やすため農場を購入、1 日あたり 1,000 カロリーの食事制限を行いましたが、体重増加を止めることはできませんでした。

 

彼らの体重はそれぞれ、10 歳までに 200 ポンド(90Kg)、16 歳までに 600ポンド(272Kg)に。2人は高校を中退、テキサスに移り、家畜のブランディングの仕事に就きました。

 

その後、彼らは「サーカス ラスベガス」で 3 年間働いた後、ロサンゼルスで数か月間ミニバイクの練習をしました。

 

やがてプロモーターの目に留まり、メキシコのシウダーフアレスでレスリングのトレーニングプログラムを開始。そして1972 年 7 月、26 歳でモントリオールでデビュー。

 

 

本名の「マクラリー」ではなくフランス語読みの芸名「マクガイヤ」としたのは、「リングアナウンサーが発音しやすかったから」と言われています。

 

もっとも、彼らにプロレスラーとしての技術なんてものは必要ありません。彼らがリングに登場し、小さなレスラーに殴られても蹴られてもまるで効かず、最後は2人がかりで圧死して勝つ。それに観客はヤンヤの喝采。そういう役割のキャラクターです。

 

事実、プロレスの起源の一つに「カーニバルレスリング、ATショー(AthleticShow:運動競技者による見世物」というものが存在し、「興行」という一つのハコの中では「プロフェッショナルによるレスリング」と「フリークスによる見世物、残酷ショー」は渾然一体。

 

この猥雑さ、いかがわしさ、振り幅こそが他のスポーツと一線を画すエンターテイメントとしてのプロレスの奥の深さ、面白さでもあるのです。

 

 

彼らは「世界最重量の肥満双生児」としてギネスブックにも認定。「世にも珍しい超巨漢の双子レスラー」として、世界中のTVバラエティー番組でも頻繁に紹介され、その知名度はプロレスファンのみならず、一般層にまで届く人気者でした。

 

思えば日本でも、昭和の時代の「ギネス世界記録」は、今よりもっと価値の高い扱いを受けていましたね。

 

新日本プロレス登場!

 

その「見世物、キワモノ」的存在の2人が、誰よりも「真面目なプロによるストロングスタイルのレスリング」を標榜するアントニオ猪木率いる新日本プロレスに登場したのは、1974(昭和49)年。

 

 

当時、旗揚げまもない新日本プロレスは“世界の“ジャイアント馬場の政治力の前に太刀打ちできず、一流どころのガイジンレスラーが呼べませんでした。そのため「チケットを売るため、TV視聴率を取るため、なりふり構っていられなかった」というのが招聘の真相でしょう。

 

アントニオ猪木も後に「(新日旗揚げ初期の)マクガイヤーのときなんか、特に興行的に厳しい時期で。背に腹は代えられない部分もあったんです。」と語っています。(「アントニオ猪木の証明」木村光一著より)

 

 

実際、彼らが登場する興行のチケットはバカ売れし、TV視聴率も他団体を圧倒。アメリカから高いギャラを払って、当時“最高峰“と言われたNWA世界チャンピオンクラスを招聘していた全日本プロレスのジャイアント馬場と日本テレビは、さぞかし悔しい思いをしたことでしょう。

 

ミニバイクで入場!ユーモラスなキャラクターで人気者に

 

来日前には「ダブル攻撃で相手を圧殺する悪漢コンビ」的な紹介をされていた2人でしたが、実際来日してみると、どこから見ても人の良さそうな風貌で「ユーモラスな人気者」的なキャラになりました。

 

中でもその人気を決定づけたのが、ミニバイクに乗ってリングに現れる入場シーンです。

 

 

当時の営業部長、大塚直樹さんによれば「控室からリングに歩いて行くだけでバテてしまうので苦肉の策」「ミニバイクは新間(寿)本部長のアイデアで、ホンダに頼んで調達してきたのも新間さん」だそう。ちなみにバイクは「ホンダモンキー」より一回り大きな、「ダックスホンダ」。ちゃっかりパンフレットに広告も掲載されていました。

 

 

そして2人はタッグマッチでもエプロンに立たず、リング内のコーナー付近に待機するという「特別ルール」が適用されました。これも彼らがあまりの巨漢でサイズ的にエプロンに立てない、自力で何度もロープをくぐれないための特別措置でした。

 

そして、試合内容より注目されたのが2人の私生活です。

 

 

・あまりの巨体で巡業バスの椅子に座れないため、後部座席を外したワゴン車に2人を寝転がして“搬送”した

・トイレに入ったら壁も便器も壊れた

・浴槽に浸かったことがないというので大浴場に入れたら大喜び

・普通に背中を流しても効き目がなく、デッキブラシで洗ったら気持ちがいいと好評だった

 

などなど、ビックリ人間さながらのエピソードが語られています。

 

 

マクガイヤー兄弟のTV登場回

 

マクガイヤー・ブラザーズはその人気を物語るように、ほぼ毎週、TV中継「ワールドプロレスリング」(NET/現テレビ朝日)に登場しています。

 

1974年 新春黄金シリーズ

 

1974.01.11 放送(生中継)山口・徳山市体育館

永源&藤原&藤波&大城 vs マクガイヤー・ブラザース

坂口征二 vs トニー・チャールス

アントニオ猪木&山本小鉄 vs マイティ・カランバ&ピート・ロバーツ

 

1974.01.18 放送(生中継)

柴田勝久 vs マイティ・カランバ

小沢&木村&山本&荒川&藤波&栗栖 vs マクガイヤー・ブラザース

アントニオ猪木&坂口征二 vs トニー・チャールス&ピート・ロバーツ

 

1974.01.25 放送(生中継)大阪・大阪府立体育会館

永源遥 vs ピート・ロバーツ

星野勘太郎 vs トニー・チャールス

アントニオ猪木&柴田勝久 vs マクガイヤー・ブラザース

坂口征二 vs ジョン・トロス

 

1974.02.01 放送(生中継)東京・大田区体育館

星野勘太郎&木戸修 vs トニー・チャールス&ピート・ロバーツ

坂口征二&永源遥 vs マクガイヤー・ブラザース

アントニオ猪木 vs ジョン・トロス

 

マクガイヤー・ブラザーズは前座の若手4人、6人(!)相手のハンディキャップマッチが指定席。

 

まだ若手時代の藤波辰巳や藤原喜明、木村健吾、小沢正志(キラー・カーン)などと対戦しています。大阪では柴田勝久(勝頼のお父さん)とタッグを組んだアントニオ猪木とも対戦しています。

 

 

2人の初来日が好評だったことで、翌1975(昭和50)年にも再来日。「お正月のお年玉」的な立ち位置を確保し、今回も毎週TVに登場する高待遇でした。

 

1975年 新春黄金シリーズ

 

 

1975.01.03 放送(生中継)埼玉・越谷市体育館

藤波辰巳 vs ヒューラカン・ラミレス

坂口征二&山本小鉄 vs マクガイヤー・ブラザース

アントニオ猪木&星野勘太郎 vs ピート・ロバーツ&コーリン・ジョンソン

 

1975.01.10 放送(録画中継)東京・東京体育館

小沢&栗栖&荒川&柴田&魁 vs マクガイヤー・ブラザース

ストロング小林 vs ピート・ロバーツ

アントニオ猪木&坂口征二 vs カナディアン・ワイルドマン&コーリン・ジョンソン

 

1975.01.17 放送(生中継)蒲郡市体育館

星野勘太郎 vs カナディアン・ワイルドマン

アントニオ猪木&柴田勝久 vs マクガイヤー・ブラザース

坂口征二&ストロング小林 vs ピート・ロバーツ&コーリン・ジョンソン

 

1975.01.24 放送(録画中継)山口・下関市体育館

柴田&永源&藤原&栗栖&荒川&橋本 vs マクガイヤー・ブラザース

坂口征二 vs カナディアン・ワイルドマン

アントニオ猪木&木戸修 vs ピート・ロバーツ&スティーブ・ライト

 

1975.01.31 放送(生中継)岡山・岡山武道館

ストロング小林 vs スティーブ・ライト

アントニオ猪木 vs カナディアン・ワイルドマン

坂口征二&木戸修 vs ピート・ロバーツ&ブルート・バーナード

 

1975.02.07 放送(録画中継)東京・大田区体育館

ストロング小林&星野勘太郎 vs ピート・ロバーツ&スティーブ・ライト

坂口征二 vs ブルート・バーナード

アントニオ猪木 vs マクガイヤー・ブラザース

 

ここで遂に、アントニオ猪木との対戦が実現します。

 

アントニオ猪木との対戦

 

リング上のおふざけを誰よりも嫌うアントニオ猪木ですが、これだけの人気者としっかり試合で決着をつけないわけにもいきません。幾度かのタッグでの対戦経験もあり、遂に“直接対決“が組まれました。

 

ただし、この試合はいつもとは逆で、マクガイヤー・ブラザーズ2人vsアントニオ猪木の“逆ハンディキャップマッチ“。格の差を見せつけます。

 

 

さほど動けず、技もなく、かけられる技も少ない超巨漢コンビ相手ではアントニオ猪木もやりにくさ爆発…とはいうものの、そこはさすがの猪木。ヘッドシザースを仕掛け場外に投げ飛ばされてみせるなど、観客を盛り上げます。

 

ベニーが羽交い絞めし、そこにダブルで圧殺しようとビリーが突進すると、猪木はキックで切り返し。その反動でビリーをロープで腕を絡めて動けなくさせると、リング中央で倒れたベニーにコーナーポスト最上段からのニードロップ。

 

 

6分14秒、ピンフォールで猪木の圧勝でした。

 

▲まだ家庭用ビデオが普及してない時期の、貴重な試合映像です。

 

 

最後の来日

 

少し間が空いて3年後の1978(昭和53)年、マクガイヤー・ブラザーズはまたもや、お正月の新春黄金シリーズに久々の来日を果たします。

 

この頃の新日プロはタイガー・ジェット・シンら自家製の人気者に加え、アンドレらスターガイジンレスラーも登場するようになっており、2回のみのTV登場にとどまりました。

 

 

1978年 新春黄金シリーズ

 

1978.01.06 放送(生中継) 神奈川・川崎市体育館

木戸修&長州力 vs マクガイヤー・ブラザース

アントニオ猪木&坂口征二 vs タイガー・ジェット・シン&バディ・ロバーツ

 

1978.01.13 放送(生中継) 岡山・岡山武道館

山本小鉄&星野勘太郎 vs マクガイヤー・ブラザース

アントニオ猪木&長州力 vs タイガー・ジェット・シン&上田馬之助

 

この年、猪木戦と並ぶ彼らのハイライト、山本小鉄&星野勘太郎のヤマハ・ブラザーズとの“ブラザーズ対決”がマッチメークされました。

 

 

ヤマハはベテランらしい試合運びで観客を沸かせますが、最後は肉弾重爆撃の前に敗戦。この試合は後にDVD化され「マクガイヤー・ブラザーズの新日本プロレスでの試合」として唯一、公式に観ることができる試合です。

 

その後のマクガイヤー・ブラザーズ

 

2人はモントリオールで出会った姉妹と結婚。

 

しかし最後の来日の翌年、ビリーがバイク事故で33歳の若さでこの世を去ります。ベリーはアンドレ・ザ・ジャイアントと提携してプロレスラーを続けようとしましたが、1人では成功しませんでした。

 

その後、ベニーはヘンダーソンビルで質屋を開き、ノースカロライナ州ウォーカータウンに移り、クリスチャン・ゴルファー・ミニストリーで働きました。プライベートではゴルフを楽しんでいたベニーでしたが、膝の軟骨がすり減り、ついには寝たきりになります。

 

そしてベニーは 2001 年 3 月 26 日、心不全のため 54 歳で亡くなりました。

 

兄弟はヘンダーソンビル近くの墓地に、並んで埋葬されています。彼らの墓石には2 台のホンダのオートバイの画像が表示され、「世界最大の双子」と刻まれています。

 

 

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