1983夏 新日本プロレス「クーデター事件」~①当事者たちの思惑

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初代タイガーマスク、藤波-長州の名勝負数え歌、そして燃える闘魂 アントニオ猪木。

1983年当時、新日本プロレスは日本全国に社会現象ともいえる一大ブームを巻き起こしていました。

 

新日プロの「ワールドプロレスリング」は金曜夜8時のゴールデンタイムに生中継。「太陽にほえろ!」(日テレ)「3年B組金八先生」(TBS)といった強力裏番組を向こうに回して年間平均視聴率20%超えを叩き出し、試合会場も小中学生から大人まで、軒並み超満員札止めの盛況。82年には元旦のゴールデンタイムに生中継されるほどの人気番組でした。

「世界に乱立するチャンピオンベルトを統一する!世界制覇の野望」IWGP構想をブチ上げ、ライバル団体の馬場全日プロに人気と売上で大きく水をあけていました。

 

まさに我が世の春を謳歌…とみられていた新日プロですが、この時期、実は団体内部でクーデターが勃発していた事は、プロレスファン以外の方はほとんど知らない事実でしょう。

 

また、このクーデター事件は当時、マスコミでは部分的にしか報じられず、ようやく年月が経ったここ数年でかなりの関係者が証言をしているのですが、関係当事者が多い上に各自がそれぞれ、自分目線でしか語らないために、実に複雑怪奇、プロレスマニアからしても全貌がわかり辛い事件です。

 

私自身、当時は中学生で毎週TV中継を観て、雑誌や書籍などもたくさん読み漁っていましたが実態はさっぱり掴めず、全貌が掴めたのはほんのここ数年です。

 

今回は、長くプロレス関連でお付き合いのあるすけこう氏がまとめてくれた論文を基に、私ならではの編集、再構築をした上で、この事件の全貌に迫りたいと思います。

 

と、いうのも、この年齢になり、会社の経営やマネジメントに携わるようになって改めてこの事件の詳細に触れると、ヘタな企業ドラマや、戦国歴史モノよりもリアリティと迫力があり、権謀術数、人心掌握など、いろいろと感じるところが多いのです。

 

ここでは大きく

◆第1部 クーデターを企てたキーパソン達のそれぞれの思惑

◆第2部 クーデター決行から鎮圧まで

◆第3部 クーデターを受けた側、猪木らの思惑

という3部に分けて、解説していきます。

*文中、一部敬称略


 

すべての事の発端は、前章で触れた「アントンハイセル事業」。数十億に膨らんだ負債と、ちょうどこのタイミングで発覚したアントニオ猪木の糖尿病の悪化でした。

 

「いまはいいが、この先この団体はどうなってしまうのか」

強い危機感を抱いた団体フロントスタッフ、選手それぞれが、さらにそれぞれの理由から不満を蓄積していて、それぞれの大義もあり、折からのプロレスブームの追い風を受けながら、いまこそ何か行動を起こさなければならない、という大きな塊となり、動き始めます。

 

大枠では「社長であるアントニオ猪木、副社長の坂口征二、そして営業本部長で猪木のマネージャーである新間寿氏の権力を削ぎ、それ以外のフロント、選手達が主導権を握ろうとしたクーデター」という話なのですが、そのクーデター派の中にいたそれぞれが、別の目的と思惑を持ち、個別に動いていた事が、事件を複雑にしていました。

 


 

◆第1部 クーデターを企てたキーパソン達のそれぞれの思惑

 


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◆山本小鉄氏

猪木が日本プロレスを追放され新日プロを旗揚げする時から猪木と行動を共にした側近中の側近であり、道場で若手を鍛える鬼軍曹としてストロングスタイルの屋台骨を支え、この時期は現役を引退して審判部長TV中継の解説者としても活躍していました。

しかし、そんな山本小鉄氏も、内心思うところがありました。

 

猪木に後進の指導に集中する事を命じられ、現役引退せざるを得なかった点。(1980年)

そして、真面目で清廉潔白なイメージと裏腹に狂信的なギャンブル好きが高じて巡業費に手をつけ、ついに返済できなくなり巡業責任者(現場監督)から降ろされた、という点。

それ以来、小鉄氏は猪木と、新たに巡業責任者になった坂口、特に猪木の側近として団体内外で発言力を増していた新間氏に対して、逆恨みに近い感情を抱いていました。

 

そんな小鉄氏に、タイガーマスクの原作者である梶原一騎氏と、日プロの生き残りであるユセフ・トルコ氏が接近。彼らはなんと、市場を独占している猪木と馬場の二大巨頭を排除して、鶴田と藤波、長州らをエースとした新団体設立、という謀議を図っていたのです。

▲梶原一騎氏、ウィリー戦でレフェリーを務めるトルコ氏

 

梶原一騎氏は新日プロでのタイガーマスクデビューの前から、異種格闘技戦で極真空手、大山倍達氏との仲介役を務めたり、全日プロからのブッチャー引き抜きを実現させたり、と猪木新日プロや新間氏とは非常に近い関係にありましたが、この頃には超人気レスラーとなったタイガーマスクの利権などを巡って猪木、新間氏サイドと溝が深まり、遂には猪木監禁事件へと発展。さらには83年5月に雑誌編集者への暴行事件で逮捕となり、この計画は頓挫してしまうことになります。


◆大塚直樹氏

当時、新間氏の右腕として新日プロ営業本部の部長を務める人物です。

1983年、大塚氏は役員会や株主総会で「総売上20億円、繰越利益720万円」という経理状況を目の当たりにし、経理処理の不透明さから、会社の将来に絶望感を抱きます。

大塚氏は部下である同じ営業部の加藤氏と共に新日プロを退社して興業会社を設立する事を決意し、同年6月、山本小鉄氏にその計画を打ち明けます。

大塚氏に対し小鉄氏は「藤波やタイガーを筆頭に他の社員や選手の不満も限界だ。こうなったら我々だけで新団体を設立しないか?」と持ちかけ、大塚氏は小鉄氏と行動を共にする事を決意し、水面下で営業と経理スタッフを取りまとめ始めます。

その際の計画は「藤波がエースの新団体、8月までに設立資金を集めて全員で辞表を提出。来年2月の旗揚げを目指そう」となっていました。


◆藤波辰巳

猪木の愛弟子であり生え抜き、副社長の坂口を除いては実質ナンバー2、ポスト猪木の最有力であり、Jr.ヘビー時代には新間氏の辣腕によりニューヨーク、マジソンスクエアガーデン(MSG)での戴冠から帰国後のサクセスストーリーなどで新間氏の寵愛、売り出しを受けていたスター選手であり、一見なんの不満もなさそうな藤波ですが、彼もまた内心は複雑でした。

 

新間氏によるアントンハイセルへの資金協力で最も被害に遭ったのが藤波と言われ、資産家であるかおり夫人の実家にまで協力を仰ぎ、新日プロの社債を購入。その額は数千万円にも達し、さすがの藤波も新間氏に対する不満が蓄積していました。

 

さらには自身のギャラアップは見送られ、長州やキラーカーン、木村健吾らの売り出しへの協力をさせられ、さらにはタイガーマスク、新間氏のプッシュする前田が台頭。前田は自らが予選落ちしたIWGPに欧州代表で出場する事になります。

 

そして第1回IWGPの次期シリーズ、1983年サマーファイトシリーズ中の札幌大会宿舎において、山本小鉄氏、大塚氏らから「藤波がエースの新団体設立構想」を打ち明けられます。

 

「クーデターの成否は藤波の決断次第」と口説かれた藤波は、これに前のめりで賛同を表明しました。


◆タイガーマスク(佐山聡)

1981年の衝撃のデビュー以来、超人気者として活躍を続けていましたが、徐々に環境変化が現れ始めていました。

 

一つ目は原作者梶原一騎の逮捕によるイメージダウンを懸念した新間氏主導による改名騒動。それは梶原サイドからの高額な著作権料要求を嫌う判断でもあり、タイガーマスクではない新たなマスクマンとしての再デビュー。83年6月のIWGP優勝戦のリング上で発表された新ネーミングファン投票や永井豪に依頼しての新たなマスクデザインなど、着々と進んでいました。

 

もう一つは自身の結婚問題です。デビュー当初、国籍不明とされていたタイガーマスクは1982年に日本人宣言、そして1983年に一般女性との結婚を希望していました。

しかし、かつて藤波が婚約と同時に女性人気が低迷したトラウマのあった新間氏は、タイガーの結婚に反対します。

結局「8月にロスの教会で関係者のみで極秘に挙式」ということで決着しましたが、これを機にタイガーマスクと新間氏の仲に亀裂が生じます。

 

そしてこの頃、タイガーマスクには謎の個人マネージャーがいました。その名はショウジ・コンチャ氏

この人物は純粋なタイガーマスク佐山聡に近づき「君は団体からギャラを搾取されている」と半ば洗脳に近い形で、いつの間にか私設秘書、個人マネージャーとなっていました。

新間氏はなんとかこの人物とタイガーマスクを引き離そうとしますがそれがかえって軋轢を生み、コンチャ氏はタイガーを新日プロから独立させプロダクションを作ろうと画策し、極秘に全日プロにも接触します(佐山本人は関与していません)。

 

クーデター計画においてタイガーマスクに声をかけたのは藤波で、サマーファイトシリーズ北海道巡業中の苫小牧といわれています。

もちろんコンチャ氏もタイガーマスクの後見人として合流しますが、コンチャ氏は新日プロ社内の混乱に乗じ、ほかの営業部員2人に「タイガープロダクション構想」を持ちかけ懐柔するなどしていました。


◆長州力

アマレスのオリンピック代表で鳴り物入りで新日プロ入りするも、地味な見た目でブレイクせず、生え抜きの藤波の下、中堅選手として鳴かず飛ばずの日々が続いた長州力。

 

1982年、メキシコからの凱旋帰国直後、試合中にパートナー藤波に猛然と噛み付き、試合そっちのけで仲間割れ。「俺はお前の噛ませ犬じゃない」との下剋上宣言からの抗争で、一躍「革命戦士」として大ブレイクを果たします。(一説ではこの抗争をけしかけたのは猪木であるとされます)

 

いまや興行的にもTV的にも欠かす事のできない人気レスラーになった長州ですが、団体内部の人間関係の煩わしさに嫌気がさし、兄貴分であるマサ斎藤に憧れフリーランスになりアメリカマットへ進出しようと考え始めていました。

 

長州は折からタッグパートナーになった元国際軍団のアニマル浜口と共に、IWGPシリーズ中の5月16日、三重県津大会を無断欠場。ホテルのフロントを通して猪木へメッセージを送ります。その内容は、新日プロから脱退したいというものでした。そしてシリーズ後に記者会見を開き、フリー宣言しました。

当時のプロレスファンは、IWGPでストーリー的にあぶれた長州を使った話題作り、いわゆるアングルだと認識していましたが、真相はマサ斎藤にAWAへのブッキングを依頼してのガチの離脱計画でした。

 

当然、新間氏は説得を試みますが長州の頑なな態度に激怒し、猪木に対して「売り出してもらった恩も忘れ、長州の身勝手な行動を認めては示しがつきません。馬場さんとも話をして長州を日本マット界から追放処分にしましょう」と進言します。

しかし猪木は「選手として長州の気持ちもわかる」と、IWGPの次期シリーズには出場し、藤波に星を返した上でなら、と辞表を受託。「その後はフリーとして新日マットに上がれ」と温情を見せました。

猪木が長州の行動を認めた裏には、自身が日プロを追われた経験と、さらにはIWGP優勝戦でKO負けし、自らの欠場する次期シリーズに、人気レスラーの長州まで不在ではTV局にも地方のプロモーターにも示しがつかない、という計算もあっての判断でした。

 

そんな折、長州にもクーデター派からの誘いがかかります。大塚氏と長州は仲が良く、クーデター派からしても長州はいてもらわないとならない存在でした。長州は猪木、そして新間氏を排除した新日プロというものはあり得るのか?と疑問を抱きますが、自らの売り出しに貢献してくれたライバルである藤波から「団体を良くするために協力してくれ」と熱心に依頼され、クーデター派の団結誓約書にサインをしましたが、内心はあくまでフリーランス、そして温情を示してくれた猪木寄りでした。

 

第2部につづきます!

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