ミズーリ州ヘビー級王座とは?~「NWA世界への登竜門」の謎

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昭和のプロレス界で、「NWA世界ヘビー級王座への登竜門」と呼ばれたベルト。

 

それが、ミズーリ州ヘビー級王座です。

ミズーリ州ヘビー級王座

 

おそらく、このミズーリ州という地名は昭和のプロレスファン以外、ほぼ知らないでしょう。

さらに、この「登竜門」というワードも、このタイトルによってはじめて知ったちびっ子ファンが多かったのではないでしょうか。

それでは一体このミズーリ州王座は、どのようなタイトルだったのか?

そして、本当に「NWA世界チャンピオンへの登竜門」だったのか?

その謎に迫ります。

 

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NWA世界王者への登竜門

 

昭和の全日本プロレス中継で、このミズーリ州ヘビー級王座は「次期NWA王者が巻くベルト」「この王座を獲得すると、NWA世界王者に
なる日も近い」と紹介されていました。

 

いつ頃の時期からそういわれていたのかには諸説ありますが、「右のテリー」「喧嘩番長」のニックネームで知られるディック・スレーターが
戴冠した、1977(昭和52)年くらいからのようです。

 

中でも印象深いのが、ケリー・フォン・エリックが1983(昭和)年にこのベルトを巻いて来日して、日本で天龍や石川孝志を相手に、防衛戦を行ったことでしょう。

 

実際にケリーはこの後、1984(昭和)年5月にNWA世界タイトルを奪取。

 

そのことでこの「ミズーリ州ヘビーのベルトは、NWA世界王者への登竜門である」という説が、信憑性を増しました。

 

ケリーフォンエリック

ミズーリ州ヘビー級王座とは?

 

そもそもミズーリ州とはどこなのか。

 

地図で見ると、アメリカ合衆国中西部、ミシシッピ川沿いにある内陸の州です。ミズーリ州よりも、セントルイスという街の名前の方が有名ですが、州都は、ジャファーソンシティという聞いたこともない街です。

 

ミズーリ州ヘビー級王座は、サム・マソニックの「セントルイス・レスリング・クラブ」が1972~1986年頃まで認定していたタイトルです。

 

プロモーターのサム・マソニックは1950~60年、そして1963~75年まで長期にわたってNWAの会長を務めたお方。

 

 

そのため、マソニックの地元、キール・オーディトリアムは、日本で
“NWAの総本山”と呼ばれていました。

 

そして、このセントルイス・レスリング・クラブが認定する「セントラル・ステーツ・ヘビー級王座」が、いろいろあって(笑)1972年に、ミズーリ州ヘビー級王座となりました。

 

なんでもセントラル・ステーツ・ヘビー級のタイトルマッチでパット・オコーナーがハーリー・レイスに勝ったものの、プロモーターらが王座の移動を拒否。

レイスを王者として支持したことから新たに創設された、とありますが、よくわからない説明です。

 

当時のアメリカやカナダでは、地区ごとにテリトリーが分かれ、各地区の有力プロモーターが興行を仕切っていました。

 

そしてNWA世界ヘビー級王者は各テリトリーを回り、自分の地区に来ると、地元の王者が世界チャンプに挑戦する、というのが通例でした。

 

そのためこうしたローカルチャンピオンは各地に存在し、たとえばノースキャロライナ州ではUS王座やミッドアトランティック王座、ジョージア州にはナショナル王座やジョージア州王座、フロリダ地区にはフロリダ州王座などが存在しました。

 

錚々たる歴代チャンプ

 

歴代のミズーリ州ヘビー級チャンピオンには、錚々たるビッグネームが並んでいます。

その顔ぶれは、以下の通り。*()は初戴冠日

 

ハーリー・レイス(1972-09-16)
ジョニー・バレンタイン(1973-01-19)
テリー・ファンク(1973-02-10)
ジン・キニスキー(1973-03-16)
ドリー・ファンク・ジュニア(1974-05-24)
ボブ・バックランド(1976-04-23)
ジャック・ブリスコ(1976-11-26)
ディック・スレーター(1977-08-12)
テッド・デビアス(1978-02-12)
ディック・マードック(1978-02-26)
ディック・ザ・ブルーザー(1978-07-14)
ケビン・フォン・エリック(1979-11-23)
ケン・パテラ(1980-04-25)
ケリー・フォン・エリック(1983-01-23)
ジェリー・ブラックウェル(1983-04-15)
リック・フレアー(1983-07-15)
デビッド・フォン・エリック(1983-09-16)

 

この中でNWA世界王者経験者が、レイス、テリー、キニスキー、ドリー、ブリスコ、ケリー、フレアーと、7名もいます。

 

これだけ見ると、やはりNWA総本山の王者だけに、やはりミズーリ州ヘビー級王座は「NWA世界王者への登竜門」と呼ばれるのに相応しい気がします。

 

ボブ・バックランドとNWAの関係

ユニークなのが、後にWWF世界王者になるボブ・バックランドの名前が、ミズーリ州ヘビーの歴代王者の中に入っていることでしょう。

 

 

いまではWWFのイメージしかないバックランドは、1976年4月にレイスを下して同王座を獲得し、11月までの約7か月間、このベルトを保持。

 

10月にはテリー・ファンクの挑戦も退けています。

 

バックランドは1976年にWWFに移り、1978年2月にスーパースター・ビリー・グラハムを下して当時のWWWF王座を獲得。“NYの若き帝王“となりましたが、バックランドが後にレイスとのNWA&WWFの王座統一戦を行った背景には、こういった出自も関係していることが分かります。

 

ミズーリ州王座とNWA世界王者の関係

 

話を本題に戻します。それではもう少し、ミズーリ州王座とNWA世界王者の関係について詳しく見ていきましょう。

 

セントルイス・レスリング・クラブがこの王座を認定していた1972年9月から1986年2月の間、NWA世界ヘビー級チャンピオンになった(再戴冠を除く)のは、次の8人です。

 

第47代 ハーリー・レイス(1973年 5月24日)
第48代 ジャック・ブリスコ(1973年7月20日)
第49代 ジャイアント馬場(1974年12月2日)
第51代 テリー・ファンク(1975年12月10日)
第53代 ダスティ・ローデス(1979年 8月21日)
第59代 トミー・リッチ(1981年4月27日)
第62代 リック・フレアー(1981年9月17日)
第67代 ケリー・フォン・エリック(1984年5月 6日

 

この中で、アメリカマットを拠点としていないジャイアント馬場と、
フロリダ州王者だったローデスを除く6人が、ミズーリ州王座を獲得しています。

 

しかし。

 

この中で「先にミズーリ州王者となり、その後にNWA世界タイトルを奪取した」のは、レイス、テリー、ケリーの3人のみです。

 

ブリスコとフレアーは、NWA世界のベルトを失ってから、このミズーリ州タイトルを獲得しています。

 

さらに、元NWA王者ではキニスキーとドリーもミズーリ州王座を、後から奪取しています。

 

こうしてみると、確かにこのミズーリ州王座はNWA世界王者に近いタイトルではありますが、どちらかと言えば登竜門というよりも、「元世界王者が巻くベルト」ということになります。

 

 

「次期NWA王者候補」なのに、なれなかった男たち

 

そしてお気づきのように、「ミズーリ州ヘビー級のベルトを巻いたのに、NWA世界王者になれなかった男たち」が存在します。

 

それは、

ジョニー・バレンタイン、ディック・スレーター、テッド・デビアス、ディック・マードック、ディック・ザ・ブルーザー、ケビン・フォン・エリック、ケン・パテラ、ジェリー・ブラックウェル、デビッド・フォン・エリック

の9人。

この中でバレンタインやブルーザー、ブラックウェルにはあまりそのイメージはありませんが、スレーター、デビアス、マードック、そしてケビンとデビッドのフリッツ兄弟は、確かに当時、「次期NWA世界王者候補」と呼ばれていました。

 

彼らは実力的にはいつ世界王者になったとしてもおかしくはなかったのでしょうが、それぞれ、何らかの理由でNWA世界チャンピオンには
なり(なれ)ませんでした。

 

 

 

なので、やっぱりミズーリ州ヘビー級王座は必ずしも「NWA世界王座への登竜門」ではない、ということになります。

NWAとWWFを股にかける男、ケン・パテラ

 

ここでちょっと興味深いのは、ケン・パテラです。

 

 

パテラは1977年に全日本に初来日しますが、1980年から新日本プロレスに登場。猪木とNWF王座を賭けて2度も戦っています。

 

パテラはWWFとNWAを行き来して、WWFにもNWAにも何度も挑戦するというユニークな存在でした。

 

1980年にはバックランドのWWFに挑戦、4月にWWFインターコンチネンタルタイトルを獲得(2代目王者)し、なんとその4日後にケビン・フォン・エリックから、ミズーリ州ヘビー級王座を奪取。

 

なんと、WWFとNWAの実質的なNo.2タイトルを同時に獲得する、二冠王となりました。

 

その後、ミズーリヘビーはテッド・デビアスに、WWFインターコンチはペドロ・モラレスに、それぞれ敗れてタイトルを失いますが、1980年9月の武道館、翌1981年2月に、アントニオ猪木のNWFに挑戦。

 

そして10月には今度はジャック・ブリスコを破って、ミズーリ州ヘビー級チャンピオンに返り咲いています。

 

正直言って当時、パテラが猪木のNWF王座に何度も挑戦するのは知名度や実力の点でなんとなく違和感があったのですが・・・

 

それはパテラがローデスと同様、新日に参戦する外国人レスラーの中ではNWAに最も近かったから重用されていた?と考えると、納得いく気がします。

 

IWGP構想が立ち上がる前、この1980年頃はまだギリギリ、アントニオ猪木はNWA挑戦を諦めていなかったのかもしれません。

コメント

  1. 昭和プロレス最高! より:

    YouTubeでいつも動画楽しみに拝見させて頂いております。
    今回のミズーリ州ヘビー級の動画を見て、???なんかよく似た内容を見たことあるなぁと色々検索してここにたどり着きました。
    両方やってられたんですね。
    安心しました。
    あまりにも内容が酷似していて、一瞬、え?大丈夫なの?と思ってしまいました。
    失礼致しました。

    確かにミズーリ州や登竜門と言うワードは昭和プロレスファンなら頭に叩き込まれていましたね。
    授業中、地図を見ててミズーリ州を見つけた時は「あぁここでチャンピオンになると後々NWA世界チャンピオンになる可能性が高いんだ」なんて先生の話も聞かずにいたものでした(笑)

    今とは違い情報が遅くSNSも無いから発信側の一方通行の情報を鵜呑みにするしか無かったけど、それはそれで自分なりに色んな想像も出来て楽しかったですね。

    これからも動画楽しみにしています。
    頑張ってください!

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