「鉄の爪一家」~その栄光と悲劇 “呪われた“フォン・エリック ファミリー物語

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2024年4月公開の映画、「アイアンクロー」。

今回はその“原典”である、プロレス界で“呪われた一家”と呼ばれる、フリッツ・フォン ファミリーの栄光と悲劇の歴史を振り返ります。

 

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“鉄の爪“ フリッツ・フォン・エリック

一家の父親であるフリッツ・フォン・エリックは、1929(昭和4)年生まれ。1954(昭和29)年にプロレス・デビューし、「ナチスの残党」ギミックのヒールとして活躍。

当時、このナチ・ギミックの悪役レスラーは多く、フリッツはハンス・シュミットや、「弟」設定のワルドー・フォン・エリックなどと共闘します。

1960年代に入ると、アマリロでドリー・ファンクJr.と抗争。パット・オコーナー、バディ・ロジャース、ルー・テーズ、ジン・キニスキーらが保持するNWA世界王座にもたびたび挑戦。

フリッツはNWA世界王者にはなれませんでしたが、1962(昭和37)年には“帝王”バーンガニアを破り、AWA世界ヘビー級王者となっています(第9代)。

1966(昭和41)年、フリッツはテキサス州ダラスで「NWAビッグタイム・レスリング」を設立。オーナー兼・看板タイトルのNWAアメリカン・ヘビー級王者のエースとして、一時代を築きます。

 


日本プロレスでG馬場と抗争

フリッツの初来日は、1966(昭和41)年11月。同年8月に豊登・猪木が旗揚げした東京プロレスへの対抗策として日本プロレスが招聘した目玉が、このフリッツでした。

スパン32cm、120kgを超える握力から繰り出される「アイアンクロー」は、昭和のプロレスを代表する必殺技となりました。

フリッツは来日第1戦(11/28・大阪府立体育館)でジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。

帰国前の12月3日の馬場との再戦は、日本武道館でのプロレス初興行でした。

1971(昭和46)年には、アントニオ猪木のUNヘビーにも挑戦。

1967(昭和42)年5月、1970(昭和45)年2月、1973(昭和46)年4月の参戦時は、その名も「アイアン・クロー・シリーズ」の外国人エースとしての来日。その他の通常シリーズへの来日時も、いずれも「数日間の特別参加」という“超大物扱い“でした。

  

 

その後もフリッツは、ジャイアント馬場のライバルの1人として全日本プロレスにたびたび来日。1979(昭和54)年には、ジャンボ鶴田「試練の十番勝負」の最終戦の相手を務めています。

 


ダラスのフリッツ帝国

 

フリッツ・フォン・エリックは1975(昭和50)年にはNWAの会長も務め、1982(昭和57)年に引退。引退後もプロモーターとして、改称した自らの団体「WCCW(World Class Championship Wrestling)」のボスとしてホテルやスーパー、さらには銀行まで共同経営するなど絶大な権力を誇りました。

子宝にも恵まれ6人の息子が誕生したフリッツは、息子たちをプロレスの世界チャンピオンに育て上げる夢を抱いていました。

 

しかし、長男のハンスが6歳のとき、誤って高圧線に触れて感電死するという不幸に見舞われます。

 

残った5人の息子達は皆プロレスラーになりますが、本当の悲劇はここからでした。

 


“フリッツ3兄弟“がプロレス・デビュー

1976(昭和51)年にケビン、1977(昭和52)年にデビット、1979(昭和54)年にはケリーと、息子達は続々とプロレス・デビュー。

 

細身ながら跳躍力と身体能力に優れたケビン
もっとも体格に恵まれプロレスセンスにも長けたデビッド
天性の華があり、筋骨隆々のケリー

 

エリック3兄弟は、フリーバーズらとの抗争で大ブレイクを果たします。

ケビンとデビットは1979(昭和54)年に全日本プロレスに初来日。1981(昭和56)年にはグレート小鹿&大熊元司の“極道コンビ”からアジアタッグ王座を奪取するなど、頭角を現します。

 

中でも「次期NWA世界王者の有力候補」と目されていたのが、三男のデビッドでした。

 

デビッドは1984(昭和59)年2月3日、マイケル・ヘイズからUNヘビー級王座を奪取。天龍源一郎との防衛戦を行うために来日し、帰国後は、フレアーの持つNWAヘビー級王座への挑戦が決まっていました。

 


デビッド、日本での急死

天龍とのUN防衛戦直前の1984(昭和59)年2月10日。宿泊中の高輪東武ホテルで倒れているデビッドが発見され、病院に搬送されますがすでに死亡していました。

 

このニュースは当時、「フリッツの息子、次期NWA王者と目された25歳の若きスター候補プロレスラーが謎の急死」として、全日本プロレス中継をはじめ、ニュースやスポーツ紙でも大きく報じられました。

 

デビッドの死因は当時「薬物中毒?」との噂も飛び交いましたが、デビッドはもともと腸に持病があり、警察の検視結果では「急性腸炎で感染症を起こして腸が破裂、出血に心不全も併発したもの」とされました。

 


ケリーがNWA世界王者に

1984(昭和59)年5月6日。テキサス・スタジアムで行われたデビッドの追悼興行で、四男のケリーがリック・フレアーを破って第67代NWA世界ヘビー級王者となり、一家の宿願を達成しました。

ケリーはすぐさま、23歳の若きNWA世界王者として全日本プロレスに来日。“アイ・オブ・ザ・タイガー”のテーマ曲の乗り、5月22日には東京・田園コロシアムでジャンボ鶴田の挑戦を退けます。

  

しかし、ケリーはその2日後の5月24日、横須賀で前王者フレアーに敗れ、わずか18日でNWA王座から転落しました。

 

 


フリッツ兄弟、新日本プロレスに登場

ケビンとケリーのフリッツ兄弟は、1985(昭和60)年10月から新日本プロレスに参戦。この裏には、WWFの攻勢に押されNWA体制が崩壊し始めたことや、父フリッツからケビンにプロモーターとしての実権が移譲されていたことなどが関係しているようです。

ケビンとケリーのフリッツ兄弟は、藤波辰巳&木村健吾のWWFインターナショナル・タッグ王座に挑戦。

翌1986(昭和61)年には、ケリーvs前田日明とのシングルマッチも行われています。


ケリー、バイク事故で右足切断から奇跡のカムバック

1986(昭和61)年6月、ケリーがオートバイ事故で右足首を切断する重傷を負います。当然、再起不能と言われましたが、ケリーはなんと1987(昭和62)年、義足を付けて奇跡的なカムバックを果たします。

ケリーは義足であることを隠し、1988(昭和63)年には地元WCCWでNWAアメリカン・ヘビー級王座の後継タイトルであるWCWA世界ヘビー級王座を獲得。その後もWWFに参戦し、1990年のサマースラムでインターコンチネンタル・ヘビー級王座を奪取するなどして活躍します。

 


マイク、クリスが相次いで自ら命を絶つ

1987(昭和62)年4月、五男のマイクが23歳の若さで自ら命を絶ちます。

マイクはリング上で負った傷が元で「毒素性ショック症候群」に悩まされており、その苦しみから逃れるための精神安定剤としてドラッグを過剰摂取したことが原因でした。

さらに1991(平成3)年9月。六男のクリスが21歳でピストル自殺。

兄弟でもっとも華奢な体格で持病の喘息にも苦しんでいたクリスは、なんと10代になる前からステロイド(筋肉増強剤)を常用しており、その副作用で不安定な精神状態にあったと言われています。

 


ケリーにも悲劇が

 

そして1993(平成5)年2月。バイク事故から奇跡のカムバックを果たし、プロレスラーとしてもっとも成功していたケリーが、33歳でピストル自殺。

ケリーは右足首を失った事故以降、鎮痛剤としてコカインが手放せなかったと言います。華やかなリング上の裏側で、プライベートでは税金未納や離婚問題など、多くのトラブルを抱える中での幕引きでした。

 


 

呪われた一家

こうして、プロレスラーとなった5人のうち、4人がわずか6年の間に立て続けに死去。残ったのは次男のケビンだけになってしまいました。

これらの裏には、プロレスラーとしての成功を宿命づけられた息子たちの“ドラッグとステロイド”という闇があります。

 

こうして、エリックファミリーは「呪われた一家」と呼ばれるようになりました。

5人の息子を失ったフリッツは、プロレス事業から撤退。
妻とも別れ、1997(平成9)年に68歳でその生涯を閉じました。

 

 

時は流れて2009(平成21)年。

WWFの殿堂「Hall of Fame」に、フリッツ/ケビン/デビッド/ケリー/マイク/クリスの「フリッツ一家」が迎えられました。

インダクターは長年のライバル、マイケル・ヘイズが務めました。

 

 

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