「はっぴいえんど」とは?〜1969-1973 “日本語ロックの始祖“説への賛否両論

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今回はリクエストにお応えして伝説のバンド「はっぴいえんど」をご紹介します。

最初にお断りしておくと、「このバンドを正当に評価する」のは、非常に難しい…。生半可なことを書くと、マニアな方から殺されてしまうので非常におっかないのですが(笑)

 

“世の中の多くの人が言う「はっぴいえんどは日本語ロックの創始者」という論調は、一部の音楽評論家の偏った見方であり、「はっぴいえんど史観」と言われている“

 

ということを敢えて最初に記した上で、いったいどんなバンドだったのか?を私なりにまとめてみたいと思います。

 

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●「はっぴいえんど」とは

 

1969(昭和44)年、

細野晴臣(ベース)
大滝詠一(ボーカル/ギター)
鈴木茂(ギター)
松本隆(ドラム)

の4人によって結成。

 

1970(昭和45)年、アルバム「はっぴいえんど」でデビュー。

バッファロー スプリングフィールドやモビー グレープなどのアメリカン ロックのテイストに日本文学風の詞を融合した、オリジナル日本語ロックを標榜。

 

続く2ndアルバム「風街ろまん」は、卓抜した演奏力による洋楽ロックに引けを取らないサウンドに、高度経済成長により失わた東京の原風景への郷愁と喪失感を綴った松本隆さんの歌詞を乗せて独自の世界観を創造。
このバンドの一つの到達点を経て、メンバーは「発展的解散」を決意。そんな中でロサンゼルス レコーディングによるラストアルバム「HAPPY END」を発表します。このアルバム最後に収録されている「さよならアメリカ さよならニッポン」は、後述の論争に対する、彼らなりのメッセージに受け取れます。

 

実質3年間という短い期間の活動で、「売れたのか」と言われればまったくそうではなく、後にメンバーと仕事をした荒井由美(松任谷由美)さんですら「そんなバンドは知らなかった」と言うレベル。

 

ではなぜ「はっぴいえんど」が今なお語られ、「はっぴいえんどから日本語ロックは始まった」という「修正史観」まで形作られ、フォロワーが続出するのか、と言えば…

 

解散後のメンバーの活躍が余りにも目覚ましかったことで注目され、聴いてみたらその先進性に衝撃を受けた人が続出したこと、そしてもう一つ、いまでは当たり前の「日本語でロックができるのか?」という「日本語ロック論争」の勝利者側に“見える“から、なのだと思います。

 

●時代背景

 

本題に入る前に、「はっぴいえんど」が登場した1971(昭和46)年当時の時代背景を整理します。

 

日本の「ポピュラー音楽」はこの当時、「歌謡曲」「フォーク」そして「ロック」という3つのジャンルに分かれ、それぞれのシンパが敵対し合う(それどころかジャンル内でも吉田拓郎はフォークじゃねぇとかアイツらはロックじゃねぇとか揉めてる)時代。

 

既にビートルズは前年に解散していて、日本ではGSブームが終焉。歌謡曲とフォークソングが全盛の裏側で、ボブ ディラン、グランド ファンク レイルロードやレッド ツェッペリンなどのハードロックをはじめエマーソン レイク&パーマー、ピンク フロイドらに代表されるプログレ、シカゴ、BS&Tなどのブラスロック、そして、デヴィッド ボウイやTレックスらのグラムロックが人気を呼んでいました。

 

●「日本語ロック論争」とは

 

1969(昭和44)年から70年代初頭にかけて、「日本語によるロックは是が非か」という論争が繰り広げられました。

 

この論争自体が複雑なのですが、大雑把にまとめると、

 

“英語で唄う派“とは、内田裕也さんや鈴木ヒロミツさんらを筆頭にした「ロックのメロディに日本語は乗らない、海外に進出するには英語で演るべき」と主張する方々

 

それに対する“日本語でのロックに挑む“派が、「はっぴいえんど」の面々

 

という図式でした。

 

その後、はっぴいえんどがアルバム「風街ろまん」でロックのメロディーに日本語の歌詞を乗せることに一応の成功を収め、一方の内田裕也さんがプロデュースするフラワー トラベリン バンドがカナダ経由で海外進出、アトランティック レコードと契約。

 

双方が主張を体現します。

 

そして1972(昭和47)年、「キャロル」がデビュー。日本語+英語チャンポン歌詞と、矢沢永吉さんの「巻き舌唱法」が商業的にも成功を収めます。

 

これにより「何語で唄うかはどうでもいいのでは」という流れが出来て、「ロックとは何か」という精神性な問いも答えが出ないため棚上げになり、この論争は収束して行きました。

 

ここでの重要なポイントは、

 

「はっぴいえんど」の契約したURCレコードは通信販売メーカー、のち移籍したBellwoodレコードはキングレコード傘下ではあるものの直轄外のインディーズレーベルであり、アングラな存在のまま解散

 

内田裕也さんの「フラワートラベリンバンド」はワーナーパイオニアのアトランティックレコードでメジャーレーベルである と、両者の発売元のレーベルの「格差」はあれど、

 

●この当時のアルバム レコードの販売は価格設定が高価で国内購買市場は小さく「どちらもセールスに大きな差はなかった」

 

●ラジオやテレビのマスメディア出演や、地方の演奏公演機会は両者とも少なく「知名度や人気はほぼ大都市圏の音楽マニアに限られていた」

 

ということです。

 

なのでこの当時の「日本語ロック論争」はあくまでミュージシャン、音楽マニアの“特別な人たち“の中での諍いで、一般世間からしたら「なんの話?」だったと思われます。

 

●「はっぴいえんど」の革新

 

こうした面倒くさい論争に巻き込まれながら活動した「はっぴいえんど」の革新性は、前述の「歌謡曲」「フォーク」「ロック」「日本語」「英語」の垣根を取っ払おうとしたこと、だと思います。

 

「若き音楽オタク」4人によるこの試みは当時、ほんの一握りの人にしか届きませんでしたが、この後かなりの時間を必要としながらフォークが歌謡曲に歩み寄り、フォークがロックに移行していったりの流れで「ニューミュージック」が生まれ、いまの「Jポップ」に続いて行くワケです。

 

その中でのメンバー4人の貢献ぶりから、後に「はっぴいえんど」が再発見され、偉大さが再認識されるようになっていきました。

 

●「はっぴいえんど」が日本語ロックのはじまり説に“異論“がある理由

 

再認識、再評価されるのは良いことなのですが、その際に喧伝された「はっぴいえんどが日本語ロックの創始者だったのだ」という論調には、異論反論が噴出しています。

 

これについてはまず「はっぴいえんどはフォークだろ、当時アイツらをロックミュージシャンとして認識してる人はいなかった」とする他のミュージシャンからの主張がある、とwikiには書かれています。

 

これについてはそれこそ偏見で、彼らは間違いなくロックを演っている認識で、69年に創刊された「ニューミュージック マガジン(後のミュージック マガジン)」主宰の「’71年第2回日本のロック賞金賞」は「はっぴいえんど/はっぴいえんど」なので、それこそ言いがかりじゃないのかと…。

 

そしてもう一つ、「彼らより前にGS(グループサウンズ)があったじゃないか」という反論があります。

 

事実、彼らより前のGSブーム創始期の1965(昭和40)年、日本クラウンレコードから田辺昭知とザ スパイダースがモンキーダンスとツイストに影響されたかまやつひろしさん作詞作曲によるオリジナル曲「フリフリ」で「日本人による日本語のロックンロール」を展開していました。

 

「はっぴいえんどがロックかどうか問題」は置いておくとしても、GS、中でもムッシュかまやつひろしさんの貢献を無視するのは、さすがにやり過ぎでしょう。日本の多くの若者はグループサウンズではじめてエレキに触れ、そこからロックに目覚めたのが歴史的事実です。

 

故に「すべての日本語のロックの創始ははっぴいえんど」という、80年代以降に(主に「ミュージックマガジン」が)広がった主張は「偏見」であり「修正史観」であり「〝権威のリデザイン〟である」という意見は、私も納得するのです。

 

しかしまたその一方で、GSがやっていたのは日本語ではあるけれど本当の意味でのロックなのか(洋楽の単なる剽窃や、歌謡曲のエレキサウンドではないのか)という視点もあり、「はっぴいえんどが真の意味での日本語ロックを“確立“した」という言い分であれば、それはそうかも、と思うワケです。

 

●それはさておき、偉大なる先駆者バンド

 

ともあれ、いま改めて聴いても「はっぴいえんど」の残した功績は、多大なものがあることは間違いありません。

 

欧米ロックの「模倣」ではなく、オリジナリティ溢れた日本語ロックの礎を築いたことは事実ですし、その裏にはメンバーの卓越した演奏技術と、際立ったプロデュース能力がありました。

 

そして解散後のメンバーの多方面での活躍と、日本の音楽の発展への貢献は言うまでもないでしょう。

 

数えきれないフォロワーを生み、いまだにその影響力が語られていることが、それを何より証明しているのです。

 

●ディスコグラフィー(オリジナル アルバム)

 

〈URCレコード〉

「はっぴいえんど」
1970(昭和45)年8月5日リリース/LP: URL-1015

Happy End – はっぴいえんど (1970) FULL ALBUM

「風街ろまん」
1971(昭和46)年11月20日リリース/LP: URG-4009

Happy End – Kazemachi Roman (1971) FULL ALBUM

〈Bellwood ⁄ キングレコード〉

「HAPPY END」
1973(昭和48)年2月25日/LP: OFL-8

Happy End – はっぴいえんど (1970) FULL ALBUM

 


 

1985年の再結成

 

1985(昭和60)年6月15日、旧国立競技場で開催された「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」で「はっぴえんど」が一夜限りの再結成。時流によりテクノっぽいアレンジになっています。

 

はっぴいえんど再結成 レコード音源版

「ニューミュージックの葬式」と後に細野晴臣さんが呼んだこのイベントが、図らずも2013年に亡くなった大瀧詠一さんの、最後の大舞台でのステージとなってしまいました。

コメント

  1. 大石良雄(本名) より:

    拝啓 サイトヘッド様にはよろしくお願いいたします。
    しかし驚きました、この若さで自分よりも正味13歳も年下の方がこれだけ勉強され、極めて的確な分析をされておられるとは、、、脱帽です。勉強不足お詫びいたします。
    自分は今回「大瀧泳一氏に絞り」書かせて頂きます。おっしゃられる通り自分も「日本語ロックの本家ははっぴいえんど」と思っておりました。この根源はどうも「戦後直ぐの洋楽=物凄く古い言い方で」の様です。しかし此処で不思議なのは当時から既に「洋物ポップス?の日本語訳や日本語カバー」が直ちに造られ歌われていましたね。必ずしも原語オリジナルが尊重されていた訳では無かった様です。此処でロックと言えば皆様ビートルズですが(正直自分は一切興味関心無く評価もしていません)、これ以後自分より一世代上の連中が猿真似し始め、直ぐに独自の日本のロック?=そう言えるなら が定着して来たと。此処でサイトヘッド様なら当然ご理解されておられるはずですが「日本語は西洋メロディーには乗り難い=大変難しいのですが、例えば?=乱暴な言い方すればアイラヴユーとオーマイガーで大抵は済む」と(本気かよと) 更に英語と日本語の持つ言葉のリズムの大きな相違なのかもしれませんね。
    其処で遡る事明治時代、明治開国から入ってきた西洋音楽の純クラシック作品、、、直ちに浅草オペラ?の「良いとこ取りのつまみ食い的な似非クラシック=藤原義江とか誰それとか」は、原語オリジナルはもちろん「通常の日本語まで西洋的な? 何と言うか今から考えれば相当におかしい異常な発音? イントネーション? で騒がせた」のですが、どうもこの「日本語をいとおかしくした?のがその後大瀧泳一師匠でありサザンの桑田」であると。
    特に大瀧詠一師匠は、その後「ナイアガラ関連の膨大な書籍」が出ており、色々書かれております中で例えば? 歌詞で「ラジオを聴いてふと思う」が「ラジオを聴いて布団を上げる」に聴こえて笑ったとか、、、ここらへんはどうも「明治初期の浅草似非オペラの変な日本語」に共通する点も大いに感じられます。おそらくは「日本語への劣等感、コンプレックスの裏返し」なのではないでしょうか。ここら辺を言わば開き直って(ご本人たちは全然そんな事考えても無かったと思われますが)日本語ロックなんてぇとんでもねぇものが生まれたのではないか?と推測されるのです。ご承知の通り「洋楽の日本語訳ってぇ物凄く難しい」ですね。
    正直訳者は「もはや翻訳直訳では無く、立派な日本語作詞者」と認められても良い。
    具体的には、自分は洋物ポップスよりも例えば「錨をあげて 北京の55日」とかのマーチが好きで日本語訳を研究しますと、原語オリジナルの歌詞は「非常に過激であり怖いまでの言葉が並んでいる」のですね。これをそのまま日本語訳には到底出来ないだろうと、、、ですから「錨を上げて」等の日本語歌詞はオリジナルとは全然全く一切違っている。まさに翻訳者や作詞者の才能実力センスにかかっていると言えます。まぁある意味日本語と割り切ってしまえば「もしかして楽だったのか?」もしれませんね。なお上記の「風町ろまん」は何と4t4chで録られ、当時アオイスタジオのチーフだった四谷修二郎が担当していました。当時から大瀧泳一師匠は「レコーディングやマスタリングなどに関心が在り、海外録音の走り等でもおそらくは、、、どうしたらこういう音に録れるのか?」等を探っておられた形跡が感じられます。
    その後の大瀧詠一の師匠の活躍はご承知の通りで、福生米軍ハウスの「福生45/45スタジオ」に籠り、ステューダー16t16chでプライベートスタジオの先駆者として驀進されるのです。
    スタジオには「DJマシン」も置かれ、常時数十台の俗称VTR=ビデオレコーダーが作動しTV番組を録画しておられたと聞き驚いております。現在「ヴォーカルや作曲レベルで大瀧詠一師匠に肉薄する輩は存在する様子」ですが、「レコーディングやメカニックにもこれだけ詳しく、更に文筆家 ライターとしても物凄く才能実力溢れた方」ってぇ今日おられますか?
    改めまして「大瀧泳一師匠」と言う方の物凄さってぇのを思い知らされます。最後に現在「後付けの知識やうんちく」にて「パクリの大瀧」等と言われる事について、後年大瀧泳一師匠は解っておられた様で「君は3つしか解っていないが、実は後2つ入っているのだよ」と言ったとか、、、、大瀧師匠の名言で「何事も、真似が全ての資本主義」ってぇのが物語っておりますね。今回は本当に勉強させて頂きありがとうございました。 敬具

    • MIYA TERU より:

      コメントありがとうございます。「日本語のロック」というものの起源は、非常に難しいテーマですね。。。「日本語でカバーする」のと「日本語で創る」は違うのか、そもそも何が「ロック」なのか。哲学的で、それこそ「猥褻か芸術か」に近いものを感じてしまいます。

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