「1970年代の女子プロレス」〜マッハ文朱からビューティペアの第一次ブーム


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クルマのラジオから懐かしい歌が流れて来ました。「駆け巡る青春」ビューティ ペア

♪あなたーから わたーしへ
わたしーから あなーたへ

ビューティ ビューティ、ビューティペア〜

実にわかりやすく、覚えやすい歌詞とメロディ唄がうまい、とはお世辞にも言えませんが、なんとも応援したくなる感じなんですね、この素朴さが。「やらされ感」満載の気だるい雰囲気と、そしてあのたどたどしいボックス ステップを思い出します(笑)

 

WWEでは女子プロがいま、アツイようです。ASKA、カイリ セインなど日本人選手も数多くグローバル市場で”スーパースター”として活躍しています。それよりはるか昔の日本で、ほんとうに社会現象的な”女子プロレスブーム”が何度も巻き起こっていたことは、いまの若い世代からすると信じられないでしょうね。

 

今回は、そのすべての源流である、80年代の「クラッシュギャルズ」以前の、70年代「マッハ文朱からビューティペアの第一次女子プロレスブーム」を取り上げます。

 

 


 

意外と古い、全日本女子プロレスの歴史

 

ビューティペア、クラッシュギャルズで一世を風靡した「全日本女子プロレス」

その旗揚げは1968(昭和43)年6月4日、品川公会堂。
なんとジャイアント馬場の全日本プロレス、アントニオ猪木の新日本プロレスよりも古いのです。

 

そもそもの女子プロレスの歴史も古く、力道山の日本プロレス協会発足とほぼ同時期の1955(昭和33)年頃にはすでに、多くの女子プロレス団体が相次いで設立されていました。ただし、その頃は戦後の混乱期の「お色気的見世物」要素が強かったと言われています。

 

そして1967(昭和42)年。団体を統合して「日本女子プロレス協会」が設立され、”スポーツとしての女子プロレス”がスタートします。なんとNWA(ナショナル レスリング アライアンス)とも提携し、当時のNWA世界女子チャンピオン(ファビュラス ムーラ)を招聘する本格派ぶり。しかし、最初のシリーズ後にさっそく内部対立が起こり、分裂して旗揚げしたのが、「全日本女子プロレス」ということになります。

 


 

初のアイドルレスラー、マッハ文朱のデビュー!

 

最初の転機は1975(昭和50)年。

ジャンボ宮本からWWWA世界シングル王者を奪った、16歳のマッハ文朱が大人気に。

マッハ文朱は歌手志望で「スター誕生!」決戦大会で山口百恵さんと同期という話題性もあり、女子プロレスラーとして「花を咲かそう」でアイドル歌手デビューを果たし、「唄う女子プロレスラー」の先駆けとなりました。

▲ド演歌、というよりもはや軍歌(笑)

奇しくもこの年は、会長で右翼活動家の万年東一氏が辞任し、社長であった松永高司氏が跡を継いだタイミングでした。

 


 

「ビューティペア」大ブレイク、第一次女子プロレス ブーム

 

1976(昭和51)年、マッハ文朱が引退して芸能界へ転身することに。

そこへ登場したのが、赤城マリ子&マッハ文朱ペアに勝利し、デビューから1年余りでWWWA世界タッグ タイトルを獲得した、ジャッキー佐藤とマキ上田のタッグチーム、「ビューティ ペア」でした。

ビューティペアは1977(昭和52)年11月、「かけめぐる青春」で歌手デビュー(RCAビクター)。しかし当初はパッとせず、観客席も閑古鳥で全日本女子プロレスは倒産寸前。

 

関係者によると、そのブームはある日突然、始まったのだそうです。最初は福山での興行後にジャッキー佐藤の元にハチマキ姿のファンが2~3人現れ、その後の千葉公園体育館でほぼ満員、横浜文化体育館で超満員、という具合だったのだとか。

 

観客層も一変。女子高生が大半を占めるようになり、黄色い歓声がひっきりなしに飛ぶ「宝塚」の“王子様“的な人気でした。

 

試合後に歌唱するマッハとは違い、ビューティペアは試合前のリング上で唄うのが斬新でした。

デビュー曲の「かけめぐる青春」、セカンドシングルの「真っ赤な青春」は共に80万枚を売り上げる大ヒット。

▲「かけめぐる青春」1976.11.25発売 作詞:石原信一/作・編曲:あかのたちお

    

 

人気もうなぎ登りで当時絶頂のピンクレディーと並び称されるほど主演映画も公開されました。

▲『ビューティペア 真赤な青春』(1977年/内藤誠監督/東映)、仁侠映画か!と言いたくなるキャプションが必見。

 

もちろん試合でも、ブラック ペア(池下ユミ&阿蘇しのぶ)とのライバル対決で人気爆発。

王者マキにジャッキーが挑戦したWWWA世界シングル王座戦は、”賞金1千万円!夢のビューティペア対決”として超盛り上がり。(60分フルタイム引き分け、判定でジャッキーが新王者に)。

日曜お昼のフジテレビ「全日本女子プロレス中継」は高視聴率をマークし、日本列島は“第一次女子プロレスブーム“に沸きました。

ちなみにこのテレビ中継はフジテレビのスポーツ部ではなく芸能部の制作で、契約に「番組中に必ず歌を入れること」が明記されていたのだそうです。

▲いま改めて試合を観ると、特にジャッキーの佇まいは実に魅力的。人気が爆発したのも納得できます。

 


 

人気絶頂で解散!しかも、「負けた方が引退」の直接対決へ!

 

こうしてある日突然、一大ブームを巻き起こし時代の寵児となったビューティ ペア。その終焉もまた、突然でした。

 

なんとビューティペアの2人はお互いタイプがまったく違い、プライベートはおろか試合後もほとんど会話することがなかったとか。コンビ結成から3年、性格の違いからペアとしての活動に限界を感じたマキが、ジャッキーに一言の相談もなく一人で解散を決意、松永社長に直談判します。

 

その訴えを受けた松永社長は

「それなら最後にお前たち2人で試合をやって、負けた方はプロレスラーを引退しろ」

 

これだけでもスゴイ話ですが、さらにスゴイのはこの裏事情をジャッキーに知らせないままに、突然「ビューティペア解散と引退を懸けた直接対決」が組まれてしまった、という・・・これが全日本女子プロレス、松永社長の恐ろしいところです。

 

(マキは後年「ジャッキーに好きな人ができて本業がおろそかになり、それが我慢できなかった」と語っていまして…その相手が当時の新人アイドルから女子プロレスラーに転身したミミ萩原で、2人が取り合いしたのではないか?・・・などと囁かれています)

 


 

阿鼻叫喚のラストマッチ!

 

1979年2月27日、日本武道館で「敗者引退」、王者ジャッキーに挑戦者マキが挑む、ビューティペア同士のWWWA世界シングル王座戦が行われました。

超満員、観客席の女子ファンは号泣、大絶叫。どちらも負けて欲しくないワケですから、もはや声援ではなく悲鳴が上がり続ける、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。

 

試合も壮絶な展開となり決着がつかず延長戦へ。48分7秒の熱戦の末、最後はジャッキー佐藤のエビ固めが マキ上田に決まり、ジャッキー佐藤の勝利。マキ上田は宣言通り引退し、約4年におよぶビューティペアは「解散」となりました 。

 

試合後、2人はお互いの控室を訪れることもなく、一言の会話することもなく…全日本女子プロレスは、とてつもないガチンコなのです。

https://www.nicovideo.jp/watch/sm11345809

 


 

その後のビューティペア

 

ジャッキー佐藤は1981(昭和56)年、後輩のジャガー横田に 敗れ王者転落。翌1982(昭和57)年に引退します。

そして1986(昭和61)年、新団体「ジャパン女子プロレス」創設と共に復帰。
元柔道日本一の神取忍との壮絶な喧嘩マッチは伝説
です。

そしてその2年後の1988(昭和63)年、プロレス界から完全に身を引きました。

 

一方のマキ上田は女優として活動した後、引退して鳥取でスナックを経営していました。

 

それから10年、「あの人はいま」的なTV番組で再会し、一夜限りの再結成で「かけめぐる青春」を熱唱。

その後、マキからジャッキーに連絡を取り、後日2人きりで温泉旅行に。現役時代からは考えられないほど楽しく過ごします。

その後ジャッキーから手紙が届き「この前は本当に楽しかった。また、今度一緒にどこか行きましょう」。

 

しかしその1年後、1999(平成11)年8月9日。ジャッキー佐藤は胃癌のため、41歳の若さで亡くなりました。

生前のジャッキーは関係者にマキに自身の病気のことを口止めしていて「マキには弱っている自分を見せたくない、病気を治して元気になった時に笑顔で会いたい」と話していました。

 

後年、マキ上田さんはこう語っています。

「今でも大親友だと思っている。相棒にするならやっぱりジャッキー」

 

 

<おまけ>

”赤いベルト”WWWA世界シングル王座の歴史 初代~第27代

(創成期からジャンボ宮本、赤城マリ子、マッハ文朱、マキ上田、ジャッキー佐藤、モンスターリッパーまで)

▲いま観てもビックリするほど、”超ストロング スタイル”です。


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