幻の全日本プロレス・クーデター事件~1972 サムソン・クツワダの新団体構想

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今回は、知る人ぞ知る昭和プロレスのミステリー。サムソン・クツワダによる全日本プロレス・クーデター事件と、ジャンボ鶴田をエースに計画された幻の新団体計画の謎を解明します。

 

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全日本プロレス旗揚げ

 

1972(昭和47)年10月にジャイアント馬場が旗揚げした全日本プロレス。先に船出したアントニオ猪木率いる新日本プロレスがノーテレビで苦戦したのとは違い、最初から日本テレビの全面バックアップ付きで、その船出は順風満帆に見えました。

 

 

全日本プロレスは新日プロとの差別化のため、常に豪華なガイジンレスラーを大量に招聘することが求められました。そしてこの時期、社長であるジャイアント馬場の頭を悩ませたのが、「日プロ残党」レスラーの合流問題でした。

 

 

視聴率に貢献するガイジンレスラーのギャランティは日本テレビが補填してくれますが、日本人レスラーについてはそうではありません。そもそも1興行で組める試合数には限度があり、そのために試合からあぶれる選手が出てきます。

 

興行会社としてはレスラーの人気や集客力で試合を組む・外すを見極めるのが当然ですが、そこは狭くて濃いレスラーの世界。かつての「同門」であるだけに、ゴタゴタするのが必定です。

 

 

日プロ残党と馬場との確執

 

古巣・日本プロレスは1973(昭和48)年4月、猪木・馬場の二枚看板と、さらには日本テレビの中継も失ったことで興行の不入りが続き、遂に崩壊。同月にNET(現テレビ朝日)は「ワールドプロレスリング」の日本プロレス中継を打ち切り、坂口征二が合流した新日本プロレス中継に切り替えます。

 

そして坂口と共に新日プロ入りした木村聖裔(健吾)、小沢正志(キラー・カーン)、大城勤(大五郎)を除く日プロ残党は「日本テレビと契約、日本テレビからの派遣」という形で、全日本プロレスに合流しました。

 

 

この時、全日本プロレスに「移籍」したのは大木金太郎、上田馬之助、松岡巌鉄、高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ)、羽田光男(ロッキー羽田)、ミツ・ヒライ、桜田一男、伊藤正男の9選手。

 

 

しかし6月30日に「サマーアクションシリーズ」が開幕すると、興行ポスターに顔写真入りで掲載されたのは大木と高千穂のみ。上田と松岡が「高千穂なんて小僧が・・・」と不満を抱いていると、大木が「それにしてもオレの写真が小さいな」。この発言で大木と上田、松岡らとの間にも亀裂が生じます。

 

そしてメインやセミファイナルあたりでカードが組まれる大木、中堅扱いでガイジンとの対戦もある高千穂に対し、開幕戦から上田はカードから外され、松岡は前座扱いされるなど、明らかに「冷遇」されました。この2人、いわゆる”セメント”には強いものの、上田はかつてのクーデター事件を巡って馬場と因縁があり、松岡は若手に対するイジメや先輩への讒言、マスコミに対する横柄な態度などで選手間の評判が悪かったと言われます。

 

 

全日本プロレスのギャランティのシステムは1試合当たりの歩合制。日本プロレスや新日本プロレスのような「試合単価×年間試合数」とは異なります。すなわち、試合が組まれない(干される)とファイトマネーが得られないのです。

 

ここでうまく立ち回ったのがグレート小鹿でした。小鹿は自ら馬場の「運転手」を買って出て、後に大熊元司との「極道コンビ」を結成。中堅どころでしぶとく生き残りました。

 

 

一方、そうした世渡りがヘタなのが上田と松岡です。彼らは同年10月9日、新人である鶴田友美(ジャンボ鶴田)がデビュー戦で馬場のパートナーに抜擢され、蔵前国技館でザ・ファンクスのインターナショナルタッグ王座に挑戦するというカード編成に嫌気がさし、全日本プロレスを飛び出し、アメリカマットに活路を見出します。

 

 全日本プロレス旗揚げ1周年

 

残る大木金太郎も鶴田が帰国すると3~4番手に降格。ファンクスへの挑戦も「日本プロレス伝統のインターナショナルタッグ王座には、全日本代表の馬場と日プロ代表の自分が組んで挑戦するのが筋だろう!」と馬場に猛抗議するも無視され、中堅外国人相手にお茶を濁すしかなくなりました。

 

そして大木は1973年暮れのシリーズいっぱいで姿を消し韓国へ帰国。翌年にストロング小林戦を控えるアントニオ猪木に挑戦状を叩きつけ、新日マットに戦場を移して行きました。

 

大木金太郎

 

マシオ駒とサムソン・クツワダ

 

こうした中で、ジャイアント馬場が右腕として買っていたのがマシオ駒でした。マシオ駒は馬場の最初の付け人で、全日本プロレス旗揚げ時にも二代目付け人の大熊元司と共に真っ先に合流。同じ野球出身、細かく気が利くことで馬場の全幅の信頼を得ていました。

 

 

さらに当時アマリロ遠征中だった駒はファンク一家と全日本プロレスの提携にも一役買い、旗揚げ後はジョー樋口と共に外国人選手の招聘、対戦カードを組む、選手の取りまとめ役を務める、新人の鶴田の育成役も任されるなど、馬場の右腕としてなくてはならない存在でした。

 

ここで今回の重要人物であるサムソン・クツワダこと、轡田友継が登場します。クツワダは駒、大熊、グレート草津に次ぐ4人目の馬場の付け人でした。大相撲(四股名は二瀬海)から日本プロレス入りし、全日本プロレスには旗揚げから参加しました。

 

 

このクツワダなる人物、大相撲を廃業した理由がバクチを巡るトラブルだったことからも分かる通り、かなり常識外れなキャラで、大ボラ吹きで気が利かず、付け人時代からよく馬場に怒られていたようです。しかし190cm近い恵まれた体格もあって1973年には高千穂と共にオーストラリアに遠征。帰国後の1976(昭和51)年10月にはジェリー・オーツ&テッド・オーツ組からアジアタッグ王座奪取するなど、中堅クラスとして活躍していました。

 

 

そしてクツワダにはもう一つ、興味深いエピソードがあります。それは新日本プロレスで(初代)タイガーマスクが誕生するより5年も前に、マスクを被って「タイガーマスク」としてファイトしていた経歴があるのです。それは1971(昭和46)年6月、大木金太郎が日本プロレスの協力を得て企画した韓国ツアーでの出来事でした(当時、韓国ではアニメの「タイガーマスク」が人気で、それを当て込んでの企画だったようです)。

 

 

ところが1976(昭和51)年3月、マシオ駒が腎不全で35歳の若さで急逝します。この出来事は旗揚げ以来、駒に全幅の信頼を寄せていたジャイアント馬場にとって、大きな悲しみでした。

 

駒がいなくなったことで、団体内での選手の取りまとめ役などの役割が、自然とクツワダに回ってきます。クツワダは大ボラ吹きで非常識とされる一方、大相撲時代からタニマチに顔が利き、出身地である北海道を中心にプロモーターとして興行を仕切ったりもしていました。また、政財界や裏社会まで妙に人脈が広かったとも言われています。

 

こうしてクツワダは、必然的に他の選手からの相談ごとを聞く機会が増えました。当時、全日本プロレスに所属する日本人レスラーの多くは、「ガイジンにばかり高額なギャラが支払われて、自分たちのギャラが安過ぎる」という不満を抱いていました。

 

クツワダはプロモーターも請け負い、興行のカネの流れを把握していたことから、「馬場は日本プロレス時代の幹部連中と同じように、日本人選手のギャラを低く押さえ、私服を肥やしているのでは?」との疑念を抱くようになっていたようです。

 

 

クツワダ 新団体構想 ~背景に「笹川マネー」

 

ある日、クツワダはタニマチの一人である岩田弘氏に自らの構想を持ち掛け、億単位の資金バックアップを取り付けます(この発端には諸説あり、岩田氏側から持ち掛けられたという説も)。

 

クツワダの構想とは「馬場だけでなく猪木も排除して、新団体を設立する」というものでした。クツワダは以前から馬場に対し「ジャイアント馬場の名前を使って事業を興し、引退した選手の受け皿にしましょう」と持ち掛けていましたが、それが聞き入れられず実力行使に出た、と後に語っています。

 

この岩田弘氏という人物は、三ツ矢乳業社長にして国際プロレスをTBSで放送する際のTBSプロレス元社長。そして、そのバックには政界のフィクサー、笹川良一氏の存在がありました。笹川氏は当時、日本船舶振興会の創設者として高見山と共にCMに主演し「一日一善のお爺ちゃん」として知られ、新日本プロレス「ワールドプロレスリング」のスポンサーでもありましたが、戦後の”政財界の黒幕” ”右翼のドン”と呼ばれた超大物です。

 

 

この潤沢な「笹川資金」をバックに付けたことでクツワダは、新団体設立に向けて動き出します。

 

クツワダは日本プロレス界を発展させるには馬場と猪木を排除する必要があると考え、馬場、猪木に多額の「功労金」を支払って引退させ、「それでも拒否したらガチンコで潰すつもりだった」と語っています。

 

新団体のエースはジャンボ鶴田と藤波辰巳。そうです、クツワダの計画は単なる団体内クーデターの枠を超えて、全日本プロレスだけでなく新日本プロレスからも選手を集めて団体を統一することでした。そして、笹川氏がタニマチであるハワイ出身の人気力士、高見山を大相撲からプロレスに転向させるという、仰天計画まで練られていました。

 

高見山

 

何者かの「密告」で計画は失敗

 

クツワダはこの計画を鶴田に打ち明け、そのほかの全日本プロレス所属レスラーを勧誘していきました。クツワダ本人によれば「多くのレスラーが賛同し、参加すると言っていた。」

 

当然、この情報は社長であるジャイアント馬場の耳に入ります。1977年1月、馬場はクツワダと鶴田を呼び、この件を追及。するとクツワダは馬場に辞表を出し、全日本プロレスから去りました。

 

クツワダは自身が行動を起こすことで、追従するレスラーがいると期待していたようです。しかし現実には誰一人ついてくる者はおらず、クツワダの計画はこれにて終了。クツワダが全日本プロレスから姿を消す、という事実だけが残りました。

 

怒り心頭の馬場は国際プロレス、新日本プロレスにもこの件を伝え、クツワダは完全にプロレス界から「追放」されます。

 

クツワダは後に「自分に人望がなかった」「皆に裏切られた」と語っていますが、誘われたレスラー達は「どうせいつもの大ボラだろう」と本気にしていなかったのです。そしてそれは、クツワダからすると共犯のハズの鶴田もそうでした。

 

そのため、「クーデター事件を馬場に密告したのは鶴田では?」という説もあります。しかし、後述するその後の流れを見ると、そうではない気がします。そうするといったい誰が?

 

これについて、2020年4月の東スポのコラムで、天龍源一郎と和田恭平レフェリーがこのように明かしました。

 

 

天龍「サムソンがテレビ局と大物スポンサーを『ジャンボが来るから』って口説いたんだよ。結局、事前にバレてサムソンは即刻クビになったんだ。まあ、ジャンボは相づちを打った程度だったらしいけど。誰かが密告したんだろう。」

 

和田「誰でしょう。」

 

天龍「犯人はグレート小鹿しかいないな…。」

 

和田「間違いなく小鹿さんでしょうね。」

 

(中略)

 

天龍「『犯人』は言い過ぎたな…。小鹿さんこそ全日本プロレスのお家騒動を収めてくれた陰の大功労者ですよ。」

 

和田「馬場さんのそばにいて、あれこれ話ができたのは小鹿さんが一番でしたからね。」

 

この記事について、小鹿本人がこの4日後に同じく東スポのインタビューに答え、「事実は違うな。オイラは犯人じゃないぞ。」と完全否定。

 

グレート小鹿

 

そして「当時ジャンボは完全に馬場さんに囲われてしまい『かごの中の鳥』になっていた。ストレスが爆発寸前になっているところへクツワダが新団体のおいしい話を持っていった。当然、ジャンボは彼に一直線で引かれる。誰の目にも異変は分かったんだ。馬場さんが自ら感づいたというのが本当のところだと思うよ」とコメント。

 

当時、新弟子だった渕正信も「クツワダさんは新弟子である俺らにも『お前らも何とかしないとな』と新団体の話をしていたくらいだったから、おそらく馬場さんにも筒抜けだっただろう。」と語っています。

 

この事件の影響~その後の馬場と鶴田の関係

 

この一件は長く伏せられ、大騒動になった新日本プロレスのクーデターに比べると長く、「知る人ぞ知る」事件でした。しかし、ジャイアント馬場とジャンボ鶴田の関係性に、深いしこりを残す形となりました。

 

 

「クツワダの口車に載せられただけ」ということで無罪放免となった鶴田はその後、全日本プロレスのグッズを取り扱う関連会社「B&J」の社長になりました。また、世田谷区砧の全日本プロレス道場兼合宿所も鶴田所有として団体から家賃が支払われ、収入面での待遇が改善されました。

 

しかし、その代償として鶴田はこれまで以上に馬場と常に行動を共にすることを命じられ、他のレスラーから「隔離」。子会社の社長業も名ばかりで、実権は馬場元子夫人が握っていました。

 

1981(昭和56)年、全日本プロレスに日本テレビから経営テコ入れのために松根光雄氏が社長として送り込まれ、ジャイアント馬場は会長職に棚上げされます。実はこの時、松根氏(日本テレビ)は馬場にレスラーを引退させ、さらには経営からも引かせてジャンボ鶴田に社長を移譲させる計画を抱いていました。

 

馬場_松根社長

 

しかし鶴田はこの一件以来、政治的なことや経営に関わることを極端に避けるようになっていたようです。この時期、鶴田は社長就任はおろか、レスラー引退まで考えていたと言われます。その後、佐藤昭雄氏がブッカーに就任して馬場と鶴田の間に入り、リング上は「馬場一強」から鶴田・天龍の「鶴龍コンビ」エース時代へと、ゆるやかに移行していきました。

 

 

実はこの時期、鶴田は新日本プロレスから引き抜きのオファーが来ていましたが、鶴田はこれも断り、未遂に終わっています。

 

この一件以降の馬場と鶴田の関係性を物語るエピソードとしては、1990年4月の天龍退団・SWS移籍を巡る騒動もありました。

 

天龍SWS

 

この時、天龍はメガネスーパーの新団体SWSへの移籍を馬場に打ち明け、馬場から「全日本の社長になれ」と慰留された、というのです。天龍は「ジャンボの立場はどうなるんですか?」と固辞したそうですが、この時期でも馬場には鶴田を跡目として社長にする気はなく、「もし継がせるなら天龍を」と考えていたことがわかります。

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その後、鶴田は1992年、B型肝炎であることが発覚。全日本プロレスにスポット参戦しながら筑波大学へ進学する道を選びましたが、この時も馬場は鶴田に後を継がせる意志はありませんでした。1999年に馬場が逝去すると元子夫人は「鶴田クンを社長に」と考えていたようですが、結果として三沢光晴が社長に就任。三沢も鶴田がその気なら社長は鶴田に任せたかったと思いますが、鶴田本人は最期まで、その気はなかったと思います。

 

ジャンボ鶴田引退

>ジャンボ鶴田についてはこちら

 

その後のクツワダ

 

プロレス界から追放されたクツワダのその後。1982年にクツワダが全日本プロレスの会場に現れ、馬場に現役復帰を直訴しています。しかし「一度裏切った人間は使わない」が信条の馬場からは案の定、断られました。その後も度々、全日本プロレスの会場に観客として表れていましたが、馬場は「またクツワダが見に来てるぞ」と笑うだけでした。

 

2003年10月26日、クツワダがこの一件以降初めて全日本プロレスのリングに上がり、武藤敬司に社長就任2周年記念の花束を渡します。

 

これは後年までクツワダと唯一交流していた渕正信による、名誉回復への配慮でした。この頃、クツワダは体調を崩しており、淵によればいつも病床の上で「オレは馬場さんのことが大好きだったんだ…」と涙を流していたそうです。

 

クツワダは2004年10月12日、急性骨髄性白血病で享年57歳で亡くなりました。

 

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