アントニオ猪木の強さ・格闘技術の源流~①アマレス・高専柔道と柔術

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「アントニオ猪木はカール・ゴッチの弟子」「猪木はゴッチ仕込みのレスリング・テクニックがあるから強かったのだ」・・・というのが通説です。しかし、全盛期のアントニオ猪木には「ゴッチ直伝」だけでは説明不能な、現代の総合格闘技にも通ずる高等テクニックがしばしば垣間見えます。いったい、これらの技術はどこで出会い、いつ身に着けたのでしょうか。

 

 

「アントニオ猪木の強さと、格闘技術」のバックボーンに迫るシリーズ。①は、あまり語られてこなかったゴッチ教室以前、日本プロレス道場時代のアマレスおよび高専柔道についての考察です。

 

参考文献/引用:
「Gスピリッツ Special Edition Vol.1 アントニオ猪木」(辰巳出版)
「プロレスの達人」Vol.13(BABジャパン)
「Gスピリッツ」Vol.45,51,61(辰巳出版)
「アントニオ猪木の証明」(木村光一著/アートン)
「日々是闘い。」(木村光一氏のブログ)https://kkimura.exblog.jp/
「アントニオ猪木全記録」(オープンハウス)ほか

 

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時折垣間見せる、猪木の格闘奥義・テクニック

 

少し前に、Twitterで猪木さんの技術の数々が、「現在の総合格闘技にも通じる」「この時代にいったいどうやって身に着けたのか?」と話題になりました。

 

百聞は一見に如かず、いくつか動画を見てみましょう。

 

pasin on Twitter
“猪木アリ戦前公開練習① 木村健吾にハイキックを放つ映像は有名だが藤原、木戸とのスパーはレアなのでは(と言っても短いけど)。股裂でタップを奪った後、亀になった猪木の脚をとり藤原がアキレス腱固め。猪木も脚を取り返し、掛け合いになる。10年後の師弟初対決で見せた光景がここに。(続く) ”

こちらは1976(昭和51)年の猪木vsアリ戦公開練習の映像です。アマレス流の「股裂き」でタップを奪った後、パーテレ・ポジションの猪木の脚をとり藤原が「アキレス腱固め」。すかさず猪木も脚を取り返し、掛け合いに。後にUWFで脚光を浴びた攻防が、すでにこの時点で行われています。

 

https://twitter.com/i/status/1255054290122452997
ガード・ポジションの猪木は、脚を絡めて藤原を倒しバックを奪います。藤原が「腕絡み」を狙うと、猪木は腕を腹側に差し込んで防ぎ、足のロックを外して腕を取り、「腕十字固め」へ移行します。

 

これらはもちろん、「猪木さんが強く見えるため」の公開スパーリングですが、見る人が見ればその技術がホンモノで、普通の「プロレスラー」とはレベルが違うことがよくわかります。結果としてアリ陣営は猪木さんの技術の奥深さにビビリまくり、あのガチガチのルールになっていったのです。

 

さらに興味深い映像がこちらです。

 

https://twitter.com/i/status/1255056122567770118
こちらも同日、木戸修とのスパーリング。タックルに入る木戸を、猪木は首と右腕を掴み阻止。そして自ら倒れながら引き込み、「キムラロック(腕絡み)」へ。そこから肩を極めてタップを奪います。これは後のアクラム・ペールワン戦(1976年)の「腕折り」とまったく同じムーブです。

 

https://twitter.com/i/status/1255514446203703296
これは1979(昭和54)年にパキスタンで行われた、ジャラ・ペールワンとの対戦。このシーンでも猪木さんは、バックに回られた体制から見事に腕を極め、俗にいう「キムラロック(腕絡み)」の体制に移行します。また、グラウンドでも下になった体制から相手を脚でコントロールし、決して極めさせません。これを胴着を着ていない、「ノーギ(No-Gi)」でごく普通にやってのけています。

 

この試合は、アクラム・ペールワン戦(1976年)のリターンマッチ。一族の名誉回復のために挑戦してきたアクラムの甥・ジャラに「花を持たせる」つもりで臨み、マスコミを帯同させず、当時報道されなかった「幻の試合」です。

 

アントニオ猪木vsジュベール・ジャラ・ペールワン

 

猪木さんは気温44度の敵地で10分5ラウンドを戦い抜き、結果は「時間切れ引き分け」。猪木さんは終始、ガチで極めにはいかず、全身にオイルを塗った19歳のジャラの若さとパワーに任せた猛攻を延々いなし続けるスタンスですが、随所にリアルな技術を見せ、相手に決定打を打たせません。

 

著作権の絡みもあって紹介できる動画はごくわずかですが、これ以外にも猪木さんは実戦、あるいはスパーリングにおいて時折、よく知られる「ゴッチ仕込みのキャッチ・レスリング」だけではなく、どうみても「柔術」を知っているかのような動きを見せています。日本でグレイシー柔術が紹介される遥か以前に、柔術でいうところの「ガード・ポジション」などを繰り出しているのです(アリ戦での戦術「猪木・アリ状態」がまさにソレだと指摘する声も多数)。

 

 

猪木さんと柔術の接点といえばイワン・ゴメスの招聘(1974年)が有名ですが、そこで身に着けたものだけではなく「猪木は遥か昔から、そういったテクニックを身に着けていたのでは?」と話題になったのです。

 

北沢幹之・マサ斎藤・山本小鉄が語る「日本プロレス道場時代のアントニオ猪木」

 

「ゴッチさんと猪木さんは師弟関係ということになってますが、2人が一緒に練習を始める前から猪木さんはすでに強かった。強すぎてみんなが猪木さんとのスパーリングを敬遠してたので、おかげでいつも自分が相手をさせてもらえたんです。」

 

そう語るのは、日本プロレスから新日本プロレスに参加、魁 勝司のリングネームで活躍し、後にUWFやリングスでもレフェリーを務めた、北沢幹之さんです。北沢さんはラッシャー木村、山本小鉄、藤波辰巳、百田光雄、佐山聡など数多くのレスラーのデビュー戦の相手を務め、同郷である藤波辰巳のプロレス入門をバックアップした人物としても知られています。

 

 

北沢さんは柔道経験者で、1961(昭和36)年に日本プロレス入門。猪木さんの1年後輩にあたります。北沢さんは当時の日本プロレス道場の様子を次のように語ります。

 

「毎回ガチンコです。道場では試合でやるような見せる技はやらない。ガチンコでやってましたからケガは絶えなかったですね。みんな、体のどこかは必ず痛めてました。」そして、当時の中堅どころの田中忠治、長沢秀幸、大坪清隆、吉原功などにしごかれて、腕を磨きます。「弱い人とやっても強くなれませんから、強い人としかスパーリングしませんでした。」

 

そして日本プロレス道場でのアントニオ猪木について、

「猪木さんは自分より1歳下なんですよ。自分は年下のもんには絶対に負けたくないという気持ちを強く持ってたんですけど、これがまた猪木さんは凄い身体してるし、その当時から強かったんです。道場の中で猪木さんはグラウンドでも、あらゆる面で強かったですよ。一緒に練習やった人はわかると思うんですけどね。サブミッションだけじゃなくアマチュアレスリングも強かったです、ズバ抜けて。」

 

 

「自分は大坪さんとやったとき、あっという間に腕を極められましたが、猪木さんもはじめは極められてたみたいです。でも、大坪さんも吉原さんも長沢さんも、すぐ猪木さんに追い抜かれちゃいました。猪木さんの強さは別格。いや、こんな強い人いるのかなって思うくらい強かった。それに腕なんか完全に逆を取っても極まらない…。あの感じは独特でした。大木金太郎さんともやりましたけど、レスリングでは猪木さんと比べると全然。上田馬之助さんは強かったですよ。体が硬いのにレスリングが強かったのは上田さんくらいじゃないですか。上田さんはほんと硬くて、猪木さんとは違う感じの強さでした。」

 

1963(昭和38)年、力道山が亡くなる直前に日本プロレスに入門した山本小鉄さんは、こう語ります。

 

 

「日プロ時代から猪木さんはトレーニングの虫!練習熱心だというのはプロとして当たり前で、本来は自慢になることじゃないんですけど、練習しないレスラーが少なくなかったんですよ。そのなかにいても猪木さんはいつも厳しい練習をしてましたし、頭抜けた存在でした。普通はシリーズが終わってオフに入ると休みたいですよね、ところが『カール・ゴッチさんがいまハワイにいる』とかいう情報が入ると、オフ返上で自費でハワイまで飛んで行ってコーチを受けてましたよ。まあ、そういう練習好きな人の周りには自然に仲間が集まるんです。大坪さんと猪木さんはとくに仲がよくて、僕もその仲間にいれてもらってしごいてもらいました。」

 

もう1人、「ゴッチ教室以前」のアントニオ猪木の強さについて語る貴重な証言があります。東京五輪 フリースタイル・レスリング ヘビー級日本代表の肩書を引っ提げてプロレス入りしたマサ斎藤。東京プロレスの旗揚げ時(1966/昭和41年)、アントニオ猪木との出逢いについて、こう語っています。

 

 

「ジムでスパーリングやった訳、グラウンドレスリングの。バァーっと俺が攻めて組み付いていったら、動かないんだよ。それでビックリして、レスラーってこんな強いのかって。あの頃、確か115キロぐらいあったのかなあの人。ターザンみたいな身体してんだよね。」「何しろ猪木さんっていうのは手足が長いでしょ、スタミナがあるし身体は柔らかいし。だから動じない訳よ。あーこの人がアマチュアレスリングやらなくて良かった、と思ったよね。だったら俺、オリンピック出られなかったよ。」

 

 

黎明期の日本プロレス道場

 

力道山が興した日本プロレスは、馬場・猪木が入門した当時(1960/昭和35)年は、東京日本橋浪花町(現在の日本橋富沢町)に道場を構えていました。道場の責任者として若手の指導にあたっていたのは、レフェリーとして有名な沖識名です。

 

 

沖識名は本名・識名盛夫。日系米国人でハワイ相撲の横綱、ハワイ柔道選手権者として活躍後、柔術家として海外を転戦した三宅タローにスカウトされてプロレス入り。

 

 

デビュー前の力道山にプロレスの基礎をコーチしたのもこの方で、猪木さんも若手時代を振り返り「その頃は沖識名さんから教わった技をベースに、割と天性の素質に頼ったレスリングをしていた。」と語っています。

 

1961(昭和36)年、渋谷に常設会場である「リキ・スポーツパレス」が完成、道場もこの地に移設しました。

 

 

余談ですがこの日プロ道場にはボクシングジムも併設され、力道山の招きで1962(昭和37)年に来日した名伯楽、エディ・タウンゼント(後にガッツ石松、井岡弘樹ら6人の世界チャンピオンを育成)がいたのも、特筆すべき点です。

 

 

北沢さんも「プロレスの練習が終わってから藤猛(日本ボクシング史上屈指のハードパンチャーで元WBA・WBC世界スーパーライト級王者)とスパーリングさせてもらってました。」と語っています。

 

 

柔道とボクシングを組み合わせた「柔拳」上がりの関係者も多かったこの当時、ごく普通にプロレスラー達もボクシングの練習を行っていました。

日プロ道場のキーマン・吉原功と大坪清隆

 

話を猪木さんに戻します。日本プロレス入門時、17歳だった猪木さんはブラジル移民中に農園の重労働や陸上競技で基礎体力を鍛えてはいても、格闘技経験はありません。

 

 

周囲は大相撲や柔道で鳴らした猛者ばかり。2mを超す巨体と「元巨人軍のプロ野球選手」というブランドのある同期のジャイアント馬場(馬場正平)に比べれば、特段セールスポイントもない猪木さんがノシ上がるには、強くなって周囲から一目置かれる存在になるしかありません。猪木さんはただひたすらに「どうすれば強くなれるか」だけを考え、日々の練習に明け暮れていました。

 

 

北沢さんの証言にある「中堅どころ」の中に、今回のテーマであるアントニオ猪木の格闘技術の源流を探るキーマンがいます。1人目は吉原功。そしてもう1人が山本小鉄さんのコメントにも登場する大坪清隆という人物です。

 

猪木の若手時代を知る東京スポーツの櫻井康雄氏は、「GスピリッツSPECIAL EDITION Vol.1 アントニオ猪木」のインタビューで、次のように語っています。「猪木に関しては、アマレスのテクニックは吉原が教えて、関節技は大坪が教えてましたよ。」「猪木は2人に基本を徹底的に教え込まれていましたね。柔道でいう裸締め、三角締め、逆腕固めとか、そういう技は全部、大坪が教えて。足関節技なら足首固め、膝固めとか。柔道では反則なんだけども、これはレスリング技ですから。」

 

 

吉原功氏は、後に国際プロレスを興した社長として有名ですが、元はアマレス出身のレスラーでした。「ネルソンの吉原」の異名を持ち、早稲田大学時代から風間栄一門下で鍛えられ、1953(昭和28)年に日本プロレスに入門。レスリング経験者がいない日本プロレスにとって吉原は貴重な存在で、力道山にもレスリングの動きをコーチしたといわれています。

 

 

大坪清隆氏について櫻井氏は「当時の日本プロレスでは、大坪が特に寝技が上手だった。元々高専柔道をやっていたし、実業団の柔道でも鳴らした選手だから。木村政彦のプロ柔道にも参加しているしね。身体は小さいけど、技は切れましたよ。」

 

 

大坪清隆、またの名を大坪飛車角。身長170Cm、体重93Kgと小兵ながら、柔道五段で将棋の有段者でもあり、それがリングネームの由来です。大坪氏が日本プロレスに入団するきっかけとなったのが、あの伝説の力道山vs木村政彦戦(1954年12月22日)です。

 

 

大坪氏はもともと、木村政彦氏が率いる「国際プロレス団」の一員でした。木村氏が力道山に敗れた後、日本プロレス所属選手となり前座、中堅で活躍。引退後は若手のコーチ役を務めていました。その実力は、後にカール・ゴッチが日本プロレスのコーチに就任した際、補佐役を務めたことからもわかります。

 

柔術ブームで再注目された「高専柔道」とは?

 

「高専柔道」とは、旧制高等学校・大学予科・旧制専門学校の柔道大会で行なわれた寝技中心の柔道の略称。1898(明治31)年、東京の第一高等学校と仙台の第二高等学校の柔道部の間で行われた対抗戦に端を発すると言われ、現代のスポーツ(講道館)柔道とは異なる特徴があります。

 

 

それは、寝技における審判の「待て」がないこと。また、現在は禁止されている寝技への「引き込み」が認められており、寝技の技術が異常に発達した競技だった点です。

 

現在に続く「普通の」(講道館)柔道では、投技を掛けてもつれたときのみ、寝技への移行が許されています。しかし高専柔道では自由に寝技にいけるため、試合が始まるや、立技を掛けることなく、どちらかが引き込んで寝技になる攻防が主でした。

 

現在の講道館柔道で寝技への引き込みが禁止されているのは、高専柔道の強豪校のひとつ六高が警視庁との団体戦で圧勝したり、講道館紅白試合で寝技に引きずり込んで大勢を抜き去ったりする事件が続出したため。1941年以降、講道館がルールを変えて「寝技を封じ込めた」のは、それだけ高専柔道の寝技技術が脅威だったからでしょう。

 

一方で、講道館柔道やブラジリアン柔術、現在の総合格闘技(MMA)などで使われている「三角絞め」などの各種絞技・関節技の多くは、もともとこの高専柔道で旧制高校生や帝大生によって開発された新技術でした。また、後に柔道では禁止された脚への関節技、膝十字なども、高専柔道が発祥。当時、高専柔道では新技術開発合戦がとてつもなく高いレベルで行われ、高専大会には毎年各校が新技術を引っさげて出場したといいます。

 

高専柔道では寝技で膠着しても審判は「待て」をかけないため、延々と寝技の攻防が続きます。「場外」という概念がなく、試合者が会場の縁で攻防していると、主審に「そのまま」と試合を止められ、試合場中央で同じ体勢に組み合って「よし」で試合再開。こうした点も、現在の総合格闘技(MMA)の「ストップ・ドントムーブ」と酷似しており、その影響が見て取れます。

 

ホイス、ヒクソンらグレイシー柔術が活躍し、総合格闘技(MMA)の概念が確立するにつれ、日本では歴史の隅に封じ込められていた高専柔道が再び脚光を浴び、再注目されました。

 

上田馬之助が語る大坪流・高専柔道

 

いずれにせよ、「ゴッチ門下生になる前」のアントニオ猪木の格闘技術のバックボーンに、吉原氏から叩き込まれたアマチュアレスリングの技術と、大坪氏から教えられた「高専柔道」、あの木村政彦と同じ流れをくむテクニックがあったことは、間違いありません。

 

大坪氏のコーチングについて、猪木さんとほぼ同時期に日本プロレス入りした上田馬之助さんは、自著「金狼の遺言」(辰巳出版)で、次のように語っています。

 

 

「大坪さんは‟鬼の柔道”と謳われた木村政彦さんの団体、国際プロレス団にいた人で、柔道五段の猛者だった。その大坪さんからは、スポーツ柔道ではない柔道、つまり柔術に近い関節技を中心に教わった。相手を極める危険な柔道技だ。1968年にカール・ゴッチが日本プロレスにコーチに来た時には、アシスタントを務めるぐらい指導者としての腕も最高だった。もちろん実力はピカイチで、大坪さんには徹底的に関節技を仕込んでもらった。それこそ毎日が血ヘドを吐く稽古だった。だが、不思議とそれを苦とは思わなかった。スター候補生の猪木さんも同じ稽古に耐えていた。それを思うと、どんなに厳しくても我慢できたのである。今、私があるのは大坪さんのお蔭と言っても言い過ぎではない。私のバックボーンであるセメント・レスリングの要となるサブミッションは、ほとんどが大坪さんから教えてもらった関節技を自分流にアレンジしたものだ。」

 

 

上田馬之助さんは当時、日本プロレスの若手だけで行われた「関西の牙」争奪トーナメント(1963)、「三菱杯争奪トーナメント」(1964)に優勝。当時の得意技は「腕絡み」で、当時“セメント”と呼ばれたガチ・スパーで、道場では屈指の実力を誇っていました。

 

猪木さんが大坪氏を語ったインタビューは少ないのですが、「柔道に元からある技だけど、俺は三角締めが得意だった。足首が柔らかいのと、屈伸運動(スクワット)を千回、2千回やるパワー、それからもう一つは体重移動。相手の首に足を絡めた時、おなかを出すだけでもう本当に締まり方が違うというかね。」「道場で誰も外せなかった大坪さんの寝技があった。それを体の柔らかさを利用して俺が初めて外した。その時の大坪さんの悔しがり方ってなかったな。」と語っています。

 

 

芳の里が語るアントニオ猪木と「2通り」のプロレス

 

力道山亡きあと、日本プロレスの社長を務めた芳の里順三氏が、当時のアントニオ猪木、そしてゴッチについて語った貴重なコメントがあります(「プロレスの達人Vol.13(BABジャパン/1998)。

 

芳の里は1954年12月22日、蔵前国技館で行われた「昭和の巌流島決戦」力道山vs木村政彦の前座に出場。対戦相手の市川登(全日本プロレス協会所属)に突如不意打ちのセメント(真剣勝負)をしかけ、数十発の張り手を見舞って昏倒させたことで知られます(市川は脳に重い障害が残り1967年末に死去)。これは絶対的に逆らえない存在であった力道山からの命であり、「ジュン、(相手を)殺せ」と食事のたびに、何度も繰り返し言われていたと明かしています。

 

 

「日プロの前座はアマチュアレスリング、四つん這いで逆とったり捕まえたり、それだけだよ。プロレスの技なんてのはよっぽど、上の方で外国人とやるくらいじゃないとやらない。それで2年くらいやってたんじゃない。」

 

「あの人(ゴッチ)はプロレスというか逆ばっかり取るから。そういうスタイル。だからちょっと見たらプロレスらしいとこがないし、技もきれいじゃなかったよね。そんで日プロにコーチとして来るんだけど、そのころはもうリキさんはいないと思うなぁ。」

 

「プロレスには、ゴッチ式の逆を取るのと、いわゆるプロレスやるのとがあって…そう、プロレスは2通りあるんだ。わかるでしょ?そんで猪木はそっち(ゴッチ流)が好きだったんだよな。ゴッチがコーチになったころは、もういい勝負だったんだろうな。猪木だってずっとそういうことやってきたわけだからさぁ。」

 

 

「鉄アレイとかのトレーニングもちょっとはやったけど、オレらはリングの中での練習ばっかりやってたからね。人を使って。そういう組みあったりってのばっかりやってるから、苦しみってのはすごく知ってるよ。全然違うからね。体力、心臓が強くなるからね。心臓を強くしておけば疲れないんだよ。心臓が弱いと、見た目凄いカラダしててもすぐ疲れちゃうんだから。オレもゴッチさんとスパーリングするのは好きだったよ。」

 

 

次回、②ではアントニオ猪木とカール・ゴッチとの邂逅と、キャッチ・レスリングの習得について掘り下げます。

コメント

  1. ダーオカ より:

    凄く読み応えあり、面白かったです。沖識名はアキレス腱固めを極めている画像も残っていますし、使い手だったのですね。北沢さんのテクニックもじっくり拝見したいですよね。
    次回もホント、楽しみにしております。

    • j より:

      アリ陣営は猪木さんの技術の奥深さにビビリまくり、あのガチガチのルールになったと聞きます。確かに猪木さんの立ち状態からのキックも強烈でした。

      歴史にイフはありませんが、もし、あのとき公開スパーリングで猪木さんが実力を控え、適当に流してくれたらと思ってしまいます。そうしたら、ルールも緩くなり、歴史が変わっていたかもしれませんね。

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