アントニオ猪木vs大木金太郎 1974~遺恨清算ケンカマッチ


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ストロング小林戦に続く「アントニオ猪木名勝負シリーズ」②。

1974年10月10日、蔵前国技館で行われたアントニオ猪木vs大木金太郎戦です。

 

この頃の猪木はとにかくギラギラしていて、プロレスラーとして一番油の乗った時期。「ブロディ戦は名勝負ですよねぇ」とか言ってる人にぜひ、観てもらいたい試合です。

と、言っても、派手な大技の攻防とかはまるでありませんアトラクション的なプロレスを見慣れてる人からしたらまるで面白くないかもです。しかし、両者の因縁と立場、大木の頭突きにかける思いをわかって観ると、この試合の持つ「緊迫感」が理解できると思います。 *文中敬称略。


 

大木は、小林とは比べものにならない猪木との因縁があります。

 

◆大木金太郎の壮絶すぎる半生

大木金太郎は本名 金一(キム・イル)。同じ半島の血を引く力道山に憧れ、1958年、29歳で韓国から漁船で日本へと密入国(!)、入管法で逮捕。大木は力道山を頼り、コミッショナーの大物代議士 大野伴睦氏を動かし強制送還を免れ(!)、1959年に日本プロレス入団を果たした…と、これだけで映画になりそうな人です。

 

日本プロレスでは1年後に入団した馬場正平、猪木寛至とともに“若手三羽烏”と称されました。若手時代のスパーリングでは馬場や猪木をグラウンドで組み伏せる実力を持ち、猪木のデビュー戦の相手を務めた先輩。猪木とは同部屋で寝食を共にし、特に仲が良かったそうです。

大木は師である力道山を崇拝しており、「朝鮮人ならパッチギだろ、アタマを鍛えろ」との指令を受け、サンドバッグはおろか鉄柱に自らアタマをぶつけ、割れては塩を塗り込み鍛え続けた、という伝説を自ら語っています。

 

1969年、神であり心のよりどころである力道山が亡くなると韓国へ戻り「大韓プロレス」を旗揚げ。当時の韓国大統領、朴正煕氏(朴槿恵さんの父)が大のプロレスファンだったことから大いなる庇護を受け、韓国で「2代目力道山」を襲名する話が持ち上がった程の人気者となります(襲名はいろいろあって失敗)。

 

日本で猪木が豊登と東京プロレスを立ち上げ日プロを離脱すると帰国しますが、圧倒的エースの馬場、その後、出戻りの猪木の後塵を拝してNo.3的な立ち位置におさまります(マンガやアニメのタイガーマスクはこの頃のお話です)。

 

その後、猪木が今度は「会社乗っ取りを企てた」と日プロを追放され新日プロを旗揚げし、馬場もまた日テレの意向を汲んで自らの全日プロを旗揚げ。

 

大木は晴れて日本プロレスのエースに繰り上げ当選。「力道山先生の興した団体を潰すわけにはいかん!」と日プロを支えます。この時、若手のホープとして大木に次ぐ位置にいたのが坂口征二です。(坂口は猪木にも馬場にも追従せず、日本プロレスに残っていました)そして1972年、「魔神」ボボ・ブラジルとの「頭突き世界一決定戦」を制しインターナショナルヘビー級チャンピオンになり、名実ともに力道山の正統後継者になりました。

 

しかし。

 

新興の猪木、馬場に比べ、大木にはまるで華がなく、頭突き一本の不器用なファイトスタイルで当然のように客入りも、TV視聴率も下降線を辿ります。

 

当時、日本プロレスを中継していたNET(現 テレ朝)の意向を受け、坂口は猪木 新日プロとの合流を模索します(計画された団体名は「新・日本プロレス」)。これに猛然と反対したのが大木でした。力道山を神と崇拝する大木からすると「猪木、馬場は力道山先生を裏切った恩知らず、そんな畜生と一緒にやれるか!」という主張です。

 

結局、坂口は大木とケンカ別れして、木村健悟、小沢正志(キラーカーン)、そしてNET(テレ朝)と共に猪木 新日プロへ合流。旗上げ以来ノーTVで苦戦していた猪木 新日プロは、一気に息を吹き返すこととなりました。

 

一方の日プロはTV局と坂口を失ったことで1973年に崩壊。残党は馬場 全日プロに吸収されますが、馬場の冷たい扱いに怒り心頭、大木は退団してフリーランスとなります。全日プロには期待のホープ鶴田友美が入団していましたし、最初から馬場について来てくれた選手より日プロ残党を冷遇するのは当然といえば当然のお話ではあります。

 

そしてちょうどそのタイミングで、国際プロレスを離脱したストロング小林が猪木と名勝負を繰り広げ、勝った猪木は「実力日本一」と言われます。

 


 

◆大木のストーカー対戦要求

 

大木はその猪木に対し、内容証明郵便で挑戦状を叩きつけます(私は小林と大木とゴング誌のおかげで、小学生時代からこの「内容証明郵便」という存在を知ってました 笑)。

しかし小林戦は速攻で受諾した猪木は、大木の挑戦を無視します。これにはガチで遺恨のある坂口が大木の新日プロ参戦に猛反対した事も影響していますが、猪木自身もかつては可愛がってくれた先輩であり、今では完全に袂を分かち、決して相入れられない主張の大木との対戦に、迷いもあったものと思います。

しかし怨念に燃える大木は、執拗に猪木に対戦を迫ります。自宅はおろか、プライベートで宿泊しているホテルにまで乗り込み、今なら完全にストーカー規制法でアウトな対戦要求!

結局、根負けするカタチで猪木は対戦を受諾しますが、世間も大木と猪木の因縁をよく知るだけに、「大木が猪木に負ける条件を飲むワケがなく、本気でヤバイ試合になるのでは」と盛り上がりまくります。なにせ大木は「勝つ」のではなく「頭突きによる猪木破壊」が目標だと発言していました。

 


 

◆遺恨決着戦!

1974年10月10日 蔵前国技館 
NWF世界ヘビー級選手権試合
アントニオ猪木vs大木金太郎

 

当時、大木金太郎は原爆のキノコ雲をあしらった、不気味すぎるガウンを着ています(必殺技 一本足原爆頭突き、という名称にちなんだもの。いまなら間違いなくアウトですね)が、試合前のレフェリーチェックの際、ガウンを脱いで臨戦態勢の猪木に対し、大木はこのガウンの前をはだけた状態でユラーっと登場します。そこで猪木は奇襲、エルボーを大木の顔面に叩き込み、騒然とした中で試合開始となります。

この試合の見所はただひとつ。「大木の必殺のヘッドバットがいつ火を噴くか」です。大木にはそれ以外にこれといった必殺技もなく、とにかくカラダの固い直線的なファイターで、猪木とスイングする名勝負ができるほど器用なタイプではありません。

 

そこで猪木は序盤戦から、徹底した「頭突き封じ込め作戦」をとります。真正面からのロックアップに極力応じず、すぐにサイドヘッドロックに取る、レスリングの「ガブリ」技術で揺さぶる、など。接近した場面では大木の首や額を手で制したり、逆に密着してヘッドバットを出す距離を取らせないようにしたり。この「いつもの試合とは違う」一連の慎重な猪木の動作が、逆に「必殺の頭突きを喰らったら猪木ですら、ひとたまりもない」という緊張感を演出し、大技の出ない試合でも観衆は固唾を飲んで見守る展開となります。

 

そしてついに、その時が訪れます。猪木の一瞬の隙をついて、大木の必殺のヘッドバットが炸裂。なんとか回避しながらコントロールしてきた猪木から、試合の主導権が大木にスイッチします。大木はこの機を逃さず、ヘッドバットを連発。猪木の動きが完全に止まり、防戦一方に。そして観衆が「猪木危うし、ここまでか」となった瞬間に、伝説のシーンが生まれます。

猪木は中腰の体制で、大木に対して「もっと打ってこい」とカモンのポーズ。そしてその瞬間に、猪木の額から一筋の鮮血が流れるのです。

とんねるずの石橋貴明氏など、その昔の猪木のモノマネは「来いコノヤロー」というものが定番でしたが、あれの本家本元、元祖がこのシーンなワケです。確実にヘッドバットを打ち込み、効いているハズなのに、なおも歯を食いしばって向かってくる猪木の気迫に、攻めている大木が一瞬、怯みます。それを振り払うようになおもヘッドバットを連発する大木に対し、猪木は怒りのナックルパートで応戦、試合は一気に乱打戦の様相を見せます。

猪木が師匠力道山から受け継いだ最大の武器が、この「怒り」を観客に伝える力です。こうなると試合は最早、完全に猪木の独壇場となります。観客は猪木の耐えに耐えた末の逆襲に最高潮に達し、最後は13分13秒、バックドロップ一発でスリーカウント、決着となりました。

 


 

後に猪木が語る「風車の理論」というものがあります。「3や4しかない相手の力を7にも8にも引き出して、そして自分が10の力で制圧する」というものです。今どきのプロレスは得意技をたくさん出して、互いに受けあって、派手な攻防がたくさんあるのが名勝負、と言われるのですが、この当時の猪木のプロレスは、それとは異なります。互いに大技はほとんど出せず、緊張感がハンパありません。しかし、相手の必殺技を封じ込める手法のバリエーションも豊富ですし、また受ける時もお約束で受ける事は決してせず、隙を突かれてアクシデント的に受け、それでいてものすごく真正面から受けて見せるため、序破急やカタルシスが際立ちます。

会場の最後列に座っている観客や、さっきまで「どうせ猪木が勝つんだべ、プロレスは八百長だべ」と笑っていた観客が、腰を浮かせて本気でのめり込んでしまう、そんなプロレスをするのが全盛期の猪木の魅力でした。

 

そして不思議なことに、この大木にしても小林にしても、この猪木との一戦が、生涯でのベストバウトなのです。猪木は小林の怪力、大木の頭突き、それぞれに対してしっかり相手の凄さを最大限に引き出した上で「それよりも俺は強い」と締めくくる天才でした。

 


 

そして試合後、あれだけ長い年月、いがみ合ってた両者が、互いの健闘を称え合い、抱き合って男泣きに泣きます。長年の両者の背景と、猪木プロレスの真髄、そして試合後の両者の涙までを含めて、「名勝負」と言われる試合なのです。

 

ちなみに猪木の「もっと打って来い!」シーンは、その後長い間、テレ朝「ワールドプロレスリング」のオープ二ング映像に使われた、「燃える闘魂」を象徴する名場面となりました。

 


 

●その後の猪木と大木

 

この試合の後、猪木と大木は2回戦っています。翌1975(昭和50)年3月27日に韓国で大木の持つインターナショナル王座に猪木が挑戦し両者リングアウト、4月から開催された第2回ワールド・リーグ公式戦で大木金太郎が1分16秒でリングアウト勝ち。

結果だけをみれば1勝1敗1引き分け、と兄弟子の面子に配慮した扱い、とも言えます。

ちなみに大木はこの時期、坂口征二とこれまた壮絶な遺恨試合を何度も展開しています。こちらもある意味で、猪木戦以上にガチガチの壮絶なケンカマッチでした。

 


 

●大木金太郎vsジャイアント馬場

 

その後、大木は「大韓プロレス協会の招きで渡韓した馬場に対し、滞在中のホテルに押しかけて挑戦を表明。 馬場は帰国後に怒りの挑戦受諾」…と、当時は報じられていましたが、実態は大木参戦で活気づく新日プロに危機感を抱いた馬場が、グレート小鹿を通じて声をかけ引き抜いた、というのが真相のようです。

 

馬場からすれば当時、小林に続いて大木を撃破した猪木が「実力日本一」を自負し「馬場は逃げた、臆病者」と言われ続ける事は面白くなかったでしょう。そしてなにより自ら興した全日プロよりも、明らかにガイジンレスラーの層の薄い新日プロの方があの手この手で盛り上げがうまく、実際観客も多くなって来た事への危機感が強かったのだと思います。

 

そして猪木戦からちょうど1年後の1975年10月、蔵前国技館においてジャイアント馬場vs大木金太郎が実現します。

馬場はこの時、PWFヘビー級チャンピオンでしたがこの試合はノンタイトル。試合は猪木戦の半分のわずか6分49秒、ランニングネックブリーカーで馬場が大木を倒しました。

 

この試合、実況や解説で「猪木と大木は1勝1敗1引き分け、全くの五分」とアナウンスされました。ライバル団体の猪木の戦績はおろか、名前がテレビ放送で出る事すら当時としては異例で、試合タイムをみても馬場が猪木を強く意識し、「猪木との試合時間の半分で大木を倒した」事で面目を保った、と言われています。

 


 

大木金太郎はその後、日本や米国、韓国で活動後、体調を崩して引退。

1994年、2000年には韓国国民勲章を受章するなど、韓国では英雄であったといいます。

そして2006年10月26日、ソウル乙支病院において慢性心不全と腎臓血管異常による心臓麻痺により死去。77歳でした。

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2 Comments

  1. 小原恒一

    当時を思い出して楽しませて頂きました。

    >観客は猪木の耐えに耐えた末の逆襲に最高潮に達し

    「ここで、猪木の右ストレートが炸裂!」の重要表現は、是非挿入して頂きたかったですね。

    ところで、この試合はFAKEだったのか否か?が最大の論点です。
    猪木が試合前に、余裕でインタビューに答えていたのを見ると、FAKEだと思いますが、筆者はどう思いますか?

    • adminredcm

      コメントありがとうございます。そうでした、右ストレートについて触れ忘れていました…あれは後の藤原喜明戦でも再現されましたね(藤原戦はエルボーでしたが)。ご指摘ありがとうございます。

      FAKEか否か、俗に言う「ヤオガチ」論争には私は興味がない、と言いますか、プロレスの面白さはソコじゃない気がしております。

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